陽気なサンバ隊がまぶたの裏を乱舞しているのは疲労と空腹の極致ゆえか。夜を徹して骨の折れる作業に精魂を傾けてきたのだから無理もない。われに返れば春愁たなびく昼さがり。わたしは製図ペンを放りだし、凝り固まった手指をゆっくりと揉みほぐした。
鉄道路線図作製はきわめて過酷かつ途方もなく意義深い仕事である。創建以来鉄路とともに発展してきた都市が起点ならばなおのこと。しかも新世界に相応しい優美なニュアンスをなにより重視したわたしは、コンピュータに頼ることなく手作業で完遂する苦行をみずからに課した。たとえ目眩と偏頭痛と失見当識が悪化する一途であろうと。
すべての発端は中学時代に遡る。
睡魔が跳梁するうららかな教室。大いなる摂理によってわが数学ノート上に新世界が誕生した。大洋、大陸そして島嶼群が奏でる荘重な創世序曲によってわが太平の惰眠は粉砕された。そっと周囲を窺うと教師や同級生たちはなにも気づいていない。ほっとひと安心、かぎりない期待を込めてわたしはおごそかな調べに耳を傾けた。またたくまに多彩な有機生命体がノート上の新世界に誕生、ひしめき合い大合唱をはじめた。浄らかでふしぎな神秘にわたしの魂は震え慄いた。ここまではすばらしかった。ついで当然のごとく人類が登場し気ままで無粋な不協和音を轟かせた。不毛な諍いを通奏低音として得手勝手な楽園を謳い上げた。あっというまに新世界は収拾のつかぬ混沌の坩堝となる。無量大数の言語とアイデンティティを導くロードマップが必要不可欠である。不本意ながら意識が遠のくような大事業のはじまりだ。神の領域なのだから当然である。
とどのつまり、まるで夢魔に魅入られたかのごとく生まれたての人類のための世界構築に追われる日々がはじまった。専心すべき分野は無限とも思えたが、まずは精密なアトラスと詳細な歴史年表作成にわたしは取り組んだ。細心の注意を払い幾度も初心に立ち戻り軌道修正を厭わなかった。人類史を編む過程でわたしがもっとも神経を研ぎ澄ましたのは国名ならびに都市名の制定である。名前に宿る霊性こそが世界創造の核心であることを得心していたのだ。いっぽうで異様なまでの艱難を強いられたのは政治体制の構築だった。それは魑魅魍魎との闘いであった。夏休み最終日の未明、ついにわたしは匙を投げた。中二の創造主が夢みる理想などこの世界は一顧だにせず、もはや何処とも知れぬ終着点へ自走をはじめていたのだ。以降わたしは忠実な記録係に徹し、新世界ノートはたちまち四十数冊に達した。むろん周囲には慎重に秘匿していたのだが、どんよりと肌寒い晩秋の放課後、迂闊にもひとりの級友に記述中の一冊を取り上げられ囃したてられたあげく教室中の嘲笑を浴びてしまった……なんだあこれ? わけわかんねえ、とうとう完璧に頭イカレちまったのか、おまえ?……しかしながら、たったひとりだけ理解を示してくれた同級生がいた。漫画家志望の彼は百数十種におよぶ国旗デザイン作成を請け負ってくれた。
あれから幾星霜、いまだ新世界はその全貌を明らかにしていない。膨大な冊数のノートはわが住居の三分の二の面積を占有、わたしの仕事はより困難で不穏な領域に足を踏み入れつつある。ひと月ほど前、ふいにとある迷宮都市の魔性に魅入られたわたしは計画を大きく逸脱、主要言語の祖語再建作業を一時中断し、魔都旧市街にそびえる壮麗なターミナル駅および鉄道網の美しさにとり憑かれたあげく、路線図作成という天与の使命に開眼し全精力を注ぐ成り行きとなったのだ。めざすは高次元の交通哲学とデザイン思想ならびに精緻な地形学に基づく至高の鉄道路線図である。進捗状況はいまのところきわめて順調だ。すこし休憩することとしよう。
おそい昼食を摂りつつ、なにげなくスマホをチェックしていると、SNS上を逍遥する天啓めいた情報にわたしの目はとまった。
モヱンタウムで疹禍に克つ! あ~らフシギ! 煎じて服用すれば悪疹パッと退散! ただし八重咲きにかぎるよ!
ふむ、これはこれは、まさしく新世界よりの啓示である。さっそく出かける支度をしていると傍らの猫がなにやら訴え喚くのでお手製防疹襁褓を装着してやると思いのほか似合うので、ほのぼのとわたしはうれしくなった。黒猫には深紅がじつによく似合う。よし、彼もいっしょに連れて行くこととしよう。
寂寞のまちかど。
あまやかに惑う早春の風に歩みをとめ、あらためてスマホを確認すると、どういうわけかさきほどの情報にまるでヒットしない。いったいどうしたことか。なぜ消え失せてしまったのだろう、こんなにも瞬時に跡形もなく。それほどまでに危険な情報だったということであろうか。黒猫が不安げに周囲を見まわす。無鉄砲に外出したはよいが、いったいどこで入手すべきであろうか……さいわいなことに、わが記憶はじつに鮮明である。それはたしかギリシャ語あるいはラテン語めいた語感だったはずだ。なにかの学名であろうか。たしか八重咲きにかぎる、とあった。ということは花卉類であろう。フラワーショップだのブーケギャラリーだのと称する小売店で買い求めればよいのだろうか。そうだ。そうなのだ。きっとそうにちがいない。あまりに明晰なるわが頭脳に陶然となり、浮きたつようなポルカのステップで歩みをすすめる。
それらしき店舗は午後の憂い揺蕩う一郭にあった。『お花』、瀟酒な入口の庇にしゃれた書体でそう記してある。『お花』という屋号なのであろうか。ごく近所でありながら、これまでついぞこの店舗には気づかなかった。さっそく華奢な扉を押し開くと、鮮烈な色彩と静謐な芳香がわたしたちを出迎えた。猫がまるい目を大きく見開き鼻をひくつかせる。こじんまりした店内は無人だが、かすかにBGMが揺れている。グレン・グールドの乾いたスタッカートと低い呻り声。
「たのもう、だれかいませんか、もしもし、お客さまですよ」声を張り上げると、色彩と芳香の彼方からふんわり気配が。
「あら、いらっしゃい」朝露を纏った声、ゆらり邂逅、ゆらめく時軸……「ごめんなさい、お待たせして、いま奥でだんじりしていたものですから、なにしろこんな小さなお店でしょう、いつのまにかいろんなもので溢れかえってしまって、この際だんじりしなくちゃって決心したんです」
「は」
「でも、わたしったらどうしようもないんです、いざ処分しようと思うと、ちょっと待って、やっぱり必要なものかもしれないわ、なんて迷いはじめちゃって、なんだかひどくむずかしいものですわね、だんじりって」
「……あのう、ひょっとするとそれは、だんしゃり、では……」
「あら、あなたも例のあれかしら」
あなたも、ということは、すでに先客あり、ということであろうか。雷雲のような一抹の不安をおぼえつつ「ともかくそれはそうです、どれでしょう例のあれは、おひとつくださいな、価格はいかほどでしょう」きょときょと店内を見渡しつつせっかちに財布を取り出す。さっさと例のあれを手に入れ、帰宅し煎じて服用し悪疹からわが身を守らねば。そして引き続き鉄道路線図作製に取り組まねばならぬ。おうおう忘れちゃならない八重咲きだぞ、まちがいなく八重咲きを買い求めるのだぞ。
「まあ、すてきなお襁褓だこと、とてもお似合いね、あなた」あまりに性急な客に応えようとせず黒猫に慈愛を手向ける花の精。満足げに喉を鳴らす猫。
「あ、その襁褓はわたしが手づくりしたものなのです、自分でいうのもなんですが手先がたいへん器用なものでして、ちなみに猫とわたしとおそろいなのです、で、どれでしょう、どれが例のあれですか、これですか、それともこれかな」
「あら、それはパンジーですよ、そっちはバラ、それはガーベラです、例のあれは午前中に売り切れてしまいました、つぎの入荷はいまのところ未定なんですの」
おそかった。なんということだ。これからは早朝より長蛇の列をなしたとて入手困難、などという事態ではあるまいか。ふいに脳裏をよぎるは悪疹に冒され悶え苦しむ地獄の底のわが身。いったいどうしたらよいのだ。唐突なるゲリラ恐慌、全身これ激しく痙攣し、へなへなへたりこんで猫を抱きしめる。
「あの……入荷したらご連絡さしあげましょうか」
「あ、そうしていただけますか、ぜひそうしてください、入荷しだい即座にご一報ください、心よりお待ち申し上げております、くれぐれも衷心よりよろしくお願い申し上げます」……悲愴なるわが剣幕に気圧され彫像と化す相手に、さすがに気恥ずかしさが込みあげてくる。「あの、その、それはそれとして、たいへん失礼ながら、ひょっとして以前お会いしたことはありませんでしたか」
「お襁褓の似合う黒猫なんて、わたしはじめて、おかしいわ、とっても」
生きとし生けるもの、なべて息をひそめる春暁。おぼろに光差す街路に目を凝らし、はるかなる追憶に想念をさだめる。
……中二の春休みとは、春休みの名にもっとも相応しい季節ではなかっただろうか。堅雪を踏みしめ同級生の家へ歩みをすすめるわたしは三冊の本を抱えていた。江戸川乱歩、ジャック・ロンドン、モーパッサン。混沌かつ調和の霊感にみちた偏性。三冊とも苧環君に借りた本だった。きょうは返却がてら新しい本を借りる予定だ。『火星年代記』と『猫のゆりかご』を。わたしは新世界創造と同時に行き当たりばったりな濫読にも耽溺していた。当時の苧環家はまるで図書館みたいに多彩な書物で溢れかえっていた。父親の書斎はもちろんのこと、廊下もリビングも応接間も納戸もすべて鬱蒼たる書架の密林だった。収まりきらない蔵書は家中いたるところ無造作に積み上げられていた。古き良きマンサード屋根の趣きある邸宅だった。現存していたらいまごろ古民家カフェかなんかで人気だったかもしれない。
無施錠の玄関土間で「おーい、苧環ぃぃぃ」と靴を脱ぎ散らしていると、ふんわり気配が。
「あら、いらっしゃい」ゆらり朝露を纏った声。「タカシならすぐ帰ってくるわよ、あがって待ってなさいよ」無造作にひらひら手招きしている。虚を突かれたわたしはァとかゥとか口ごもりつつ、導かれるがままリビングのソファに腰をおろし目を伏せた。てっきり苧環君しかいないはずとわたしは思い込んでいたのだ。そのひとはセンターテーブルを挟んだひとり掛けに身を沈め、読みさしだったらしい雑誌を手にとった。あとは投げやりな沈黙、うらうら、やわらかな早春の斜光。あれれぇ、なんでここに座らされたんだろう、いったいどうしたらいいんだ、苧環はどこ行ったんだ、いつ帰ってくるんだろう、あいつの部屋で待ってるほうがよかった、気がきかないなこのひと、てか、そもそもいったいだれなんだろう、いままで一度も会ったことないぞこの家で、苧環はひとりっ子だからおねえさんではない、親戚だろうか、イトコかなんかか、遊びにきてるのだろうか、たまたま留守番か、それにしてもリラックスしすぎじゃないかな、この家の本来の住人でもないくせに、初対面の中学生を勝手に家に上げて放置したまま雑誌なんか読みふけってる、ジョーシキないな、話しかけてくれるでなし、お茶やお菓子でもてなしてくれるでもない、てか、そんなこと期待するほうが厚かましいのか、あはは、だけど気まずいな、苧環が帰ってくるまでどうしてたらいいんだろうな、いまからあいつの部屋に勝手に移動しちゃまずいかな、もしかしてそれは失礼なことなのかな、どこ行ったんだろうな苧環のやつ、いつ帰ってくるんだろう、このひとのいう「すぐ」ってどれくらいなんだろうな、てか、たとえ中学生といえど初対面の人間とふたりきりなのに、よく平然と雑誌になんか集中できるよな、このシチュエーション気まずくないのかな、こっちは大いに困るんだよな、ひとをなんだと思ってるんだろう、まともに相手にする必要なしと判断したのか、もしかしてこっちからなんか話しかけたほうがいいのかな、でもなにをどうしゃべったらいいのかわかんないし、いま自分のノドを通過する声が正常とはとても思えないし、まったくなにしてんだよ苧環、はやく帰ってこいよな、和毛の陽射しにためらう静寂、視線の涯てにきらめく残雪、たちのぼる窓辺の戸惑い、眠たげに躓く柱時計……
ふいに大気を切り裂く春雷のごとき大笑。心臓がでんぐり返ってソファから転げ落ちる。
「おかしいわ」
「ほぇ」
「ほんと、おかしい」くつくつ笑うそのひと。おかしくてたまらないらしい。
「子豚」
「は」
「気がつかなかったわ、いままで」
「……」
「子豚だとばかり思ってた」笑いつづける。
「……」
「イベリコ豚ですって、メインディッシュ」誌面を目で追いながら笑いつづけている。
「子豚と勘違いしてたわ、これ読むまで、いべり・こぶたって思い込んでたの、ほんとはいべりこ・ぶた、なのね、知ってた? ああ、おかしいわ、とっても」
あの日、どのくらい苧環君を待っていただろう。彼はたしかに帰ってきただろうか。憶えていない。後日わたしは彼に確認しなかった。あれはいったいだれなんだ、と。なぜか自分にもわからない。あの家であのひとに遭うことはその後二度となかった。後年、苧環君はアシスタントを経て漫画家デビュー、少年誌連載中に急逝した。苧環家とあのひとはどういう関係だったのだろう、もはや解明するすべはない。
怜悧に輝く街路はまるで苧環君が描いたひとコマのようだ。
暁闇のむこうにずっと想い焦がれていたとてつもなく甘美でなつかしい存在が待っている。夜明けの汽笛とモヱンタウムの芳香に導かれ、そこへ近づいていく。もう少し、あともう少しでたどり着く、あるいはたどり着いた、そう思った瞬間なにものかに両足首をむんずと掴まれ、むりやり引きずり戻されてしまう。ほんの一瞬かいま見たそこにはたしかにかぎりなくなつかしい、あまやかな存在が待っていた。とはいうものの、そこはけっしてあちら側ではなかった。どちらかというとこちら側であり、あえていうならもうひとつのこちら側だったように思う。ぶざまに引きずり戻されながら「おかしいわ、とっても。またこんど挑戦して」という声が聞こえた気もする。
朝飯を督促する猫に起こされ、はるかなる汽笛の余韻みたいなコーヒーを啜る。
ふと思いつきスマホを手にとり例のあれを検索してみる。あらわれたのは「一致する情報はみつかりません」という氷点下の砂漠めいた表示。
ちかごろネット空間を飛び交っているのは激烈なるおしぼり論争だ。悪疹から全人類を守護するに足る究極の救世主は熱いおしぼりか、それとも冷たいおしぼりか。専門家の知見は百家争鳴の様相。再生紙おしぼりが全国民にもれなく給付されます、との町内会だよりに世論たちまち沸騰。道理なき忖度金縛りが蔓延。半年経過するも再生紙おしぼりなお未着。今朝はひときわ気分が滅入り全身の末梢神経が凍裂音を轟かせるので、わたしは心ならずも鉄道路線図作成の手を止め外出することにした。
外国人観光客が消え失せた街は淋しい。生命力に満ちた彼らはいったいどこへ去ってしまったのだろう。捨て猫気分でふらふら彷徨っていると、いつのまにかうらぶれた小路に迷い込んでしまった。どこまでもつづく貧しげな長屋のつらなり。ふいにたてつけの悪い破戸を押し開ける気配とともに初老の男がひょっこり姿をあらわした。ねずみ色の腹巻きに左手を差し込み、もういっぽうで楊枝をつかいつつ「よっ」とこちらに顎をしゃくってみせる。なじみの古民家カフェ店主であった。
「毎度のことながら配給食ってのは不味くてかなわんなあ、おまけに栄養皆無ときちゃ味蕾ぼろぼろ胃は断末魔の悲鳴、ついでながら誇り高きわが生業はコーヒー滓の果てに至るまで徴発の憂き目にあっちまうとは、わしの人生いったいなんの罰ゲエムなのかね、おや、そちらは散歩かい、けっこうけっこう、せいぜいソーシャル隣組監視ディスタンスを保つことだな」
この男が戦時妄想にとり憑かれたのは何ゆえか、まるで理解不能であるものの、古民家カフェ店主としては有能な人物なので日頃からいちおうの敬意を払うことにしている。どうやら話相手に飢えていたらしいので、さりげなく促してやると堰を切ったように語りだした。「しかしまあ、釈然としないよなあ、各戸でいちばんの悪夢を供出せよだなんてお達しが下るとは、やわらかな猫を愛撫しつつわしは深く考え込んだもんさ、いったいどうしたものか、だってよりによって悪夢と呼ばれるなかでもいちばんおぞましいそれを差し出せだなんて、そんな途方もなくおぞましい勅令、だれだってあまりのおぞましさに怖気を震っておぞましがるにきまってるじゃないか、だいたいそのようなおぞましさの極みいったいなんの役にたつというのだ、じつに空虚で無意味で莫迦げた茶番としか思えぬではないか、そもそも当局が定義するところの悪夢とはいったい如何なる代物を指すというのか、もがけどあがけど冷や汗ぐっしょり妖異夢、あるいは汚穢にまみれた糞虫のごとき恥辱夢、もしくは夢魔ですら目を背けるであろう超絶変態夢、おおかたそんなところであろうよ、ふん、べつだん夢に見るまでもないではないか。傍らの猫が天を仰ぎ大きく嘆息すると、ランプの火屋をみがいていた妻が美しい表情を曇らせた。「きっと悪夢をたくさんあつめてお団子みたいにまるめて大きな爆弾をこさえようって算段なのよ、そうしてにっくき敵を懲らしめようって魂胆なんだわ、どれほど非人間的な存在であろうとも人間と名乗る以上は悪夢が怖ろしいにきまっていますから、そうよ、きっとそうにちがいないわ」
「ええい、なんだかむしゃくしゃしてきた、酒でも呑みにいこうではないか」
朽ちかけた長屋がつらなる煤けた路地は静謐なるモヱンタウムの香り。見あげる夜空にはきらめく星座をかすめ帝都防疹研究所へ向かうカーマインレッドとコバルトブルーのだんだら爆撃機。妻と猫を従えぞろり細民街を往けば、いつもながらに歪んだ棟割長屋のつらなりは涯てしない虚夢の回廊を想わせる。各戸からはうすぼんやりした灯火のもと貧しげな夕餉のにおい、縁の欠けた食器の触れあう音、病んだ老人や幼な児たちの儚げで抑揚のないつぶやきが洩れてくる。ふいにたてつけの悪い破戸を押し開けひとりの男がひょっこりむくんだ顔をあらわした。ねずみ色の腹巻きに左手を差し込み、もういっぽうで楊枝をつかいつつ「よっ」とこちらに顎をしゃくってみせる。国旗デザイン作成中の漫画家志望の中学生であった。
その後の至って淋しい懦春の明け暮れは、和毛の陽射しのようにささやかなまどろみが憂鬱でいがらっぽいウイルスに侵されていく毎日であった。居丈高で卑屈な幇間興行師やリモート風紀係、とんからりとネトナリ組がわが家へ押し寄せた。彼らは驟雨のようにあらわれてはちゃぶ台を蹴散らしイガイガした胴間声で恫喝したあげく仏壇の菓子を掠め卒然と去っていくのだった。そのころにはわたしの妄執はかなり捨て鉢になっていて、ぬめぬめしたおちょぼ口のAI飛沫女王だのアラートカラーの私設第二秘書だの土中から白面をあらわし嬌声を張りあげるおうちアイドルだのが果たして自分自身の迷妄なのか、それとも遠い祖先のオブセッションなのかもはや判然としなくなってしまった。猫や妻との境界なんぞもあやふやになってしまい誰が誰の日常なのか誰がどんな妄夢に囚われているのか見当がつかなくなってしまった。そうこうしているうちに供出の日を迎えたのである。
しかしながら情緒にまかせた戯言ではないし誰かが口走るのを耳にした記憶もない。あるいは胚夢の領域に蹲る口跡……はるかな払暁の残滓が思いがけず起ち顕れたのかもしれないが、長い年月を隔て打ち棄てられたはずの声と再会するなんて、あまりにお値打ちな感傷あるあるである。
大地が吐息をついたような濃霧の明けがた、なにものかの耳打ちで目醒めたのだった。それまで浸っていたあまやかな夢は瞬時に消え去った。
フクジュソウの光降りしきる朝。
すがすがしい心持ちで鉄道路線図に向かったものの一瞬にして遠ざかる汽笛に鬼胎は萌す。集中できない。今日こそ入荷の報せは届くであろうか。うわさによれば忖度金縛り中に不要不急の息を殺したあげく亡くなったひとがいるという。
新疫疹に感染した際の症状が詳らかになるにつれ巷に大恐慌を来したのは当然であろう。潜伏期間はおよそ半月、はじめはごく微かな痒みをともなう発疹が下肢にあらわれ、またたくまに全身に拡がる。徐々に硬化しやがて激烈な掻痒感に見舞われる。狂気に陥ったかのごとく掻き毟らずにはいられぬ痒みだという。嚢腫化を経て真皮に達したそれは、どす黒い瓜実状の腫瘍に病変する。ひそやかな悪徳めいて増殖した瓜実状腫瘍は筋肉組織ならびに内臓を破壊したあげく表皮へ蝟集。症例写真によれば、半ば頭をもたげ半ば皮膚に埋もれた瓜実状腫瘍に全身を覆われたさまは、もはやこの世のものとは思えぬ怪奇瓜人間と化している。この時点では掻痒感はかなり軽減し、疹痕こそ凄惨であるものの、ある日を境に瓜実はぽろぽろ剥落、死を待つのみの罹患者は例外なくみずから産み落とした数百万粒の瓜実を掻きあつめ大きなガラス容器に保管してくれと懇願する。そして愛しげにかつ淋しげにガラス容器のなかの瓜実に語りかける。それは漸次長時間におよび瓜実との対話だけの日々となる。無理にガラス容器を取りあげると激しい痙攣発作を起こし絶命する。そうでなくとも早晩死は免れ得ないのである。
かりたてられたように黒猫とともに防疹襁褓を装着し外出する。冷ややかな街路に冴えた斜光が射している。シャッター通りのしじまをくぐり瀟酒な庇の下で立ち止まる。扉に貼られたA4コピー紙には黒々と殴り書きが踊っている。
ミセ シメロ! クウキ ヨメ!
ハナナンカ ゼンブ カレテシマエ!
紙を引きちぎりポケットに押し込み、そっと扉を押す。溢れる芳香と色彩。呻るグレン・グールド。
「あら、いらっしゃい」訝しげにこちらを振り返る。朝露を纏った花を束ねているところだった。「あれ、まだ入荷してないのよ」
「あ、あの、そうじゃないんです」とっさに言い繕ってしまう。「つまりその、べつに入荷の報せを待ちきれなかったわけじゃなくて……」猫がわたしの脛をつんつんし眼前の鉢植えに視線を促す。まるではるかな夢の記憶のように青く可憐な蕾。「あの、きょうは花を買いにきたんです、とてもきれいで、やさしい花を」
「あら、ギフトですか、それとも記念日かしら」
「ちょっとした仕事のつきあいの得意先のお詫びのしるしの、えとあの、ま、そんなところで」
「アレンジフラワーにしましょうか、どんなお花がいいかしら」
「そこの鉢植えの花を、ぜひ」吐息めいて群れ咲く小さな青い花。「それがいいです」
「あらあ、丁寧にお手入れすると、ずうっと咲いてくれるんですよ、それ」
「ください、ぜひ、あ、あの領収書もください」
「ありがとうございます、領収書のあて名はどうなさいますか」
「それは、上で」
「はい、わかりました……えっと、ウエって……クサカンムリのウエだったかしら……」
朝露に潤んだ蕾がいっせいに開花する……ATMの時間よとMRI検査室へ案内した看護師、極上の源泉タレ流しなんですと自慢したツアー添乗員、ドライブスルー取り付けてねとアドバイスした事故処理警官。朝露を纏ってこだまする声、声、声……
鉢植えをかかえ家路をたどりつつ独りごちる。「どんな漢字なんだろうな、クサカンムリのウエって」
こころ鎮める霧雨の歌にほころびかけたライラックが震えている。
このところなぜか戦時妄想が蔓延しているらしい。ラジオの人生相談で中年女性が訴えている。
……たしかに兵隊さんが、就寝中に、それは敵軍かそれとも自国兵なのか、さだかではありませんけど、あたしんちに侵入するんです。ええ、あたしがベッドにはいるといつもなんです。玄関もベランダもお風呂やトイレの小窓も、家じゅうどこもかしこもしっかり戸締まりしたはずなのに、あたしが就寝すると、すぐに兵隊さんが寝室にやってくるんです。もやもや、ゆらゆらした翳みたいで表情ははっきりしませんけど、汗の滲みた軍服や背嚢や銃油や火薬のにおいで、まちがいなく兵士だということがわかります。あたし、いつも驚いて跳び起きてしまうんです。どきどきする胸を両手で押さえながら周りに目を凝らすと姿はなくて気配だけが残っているんです。いつもそうなんです。兵隊さんがやってくるたびに、驚愕して跳ね起きてしまいます、あたし。ああ申しわけないな、お気の毒だわと思いながら、ものすごくびっくりしてしまうんです。
それでいて、あたしにはわかっているんです。兵隊さんはしずかな佇まいだけどいつもギラギラ激情に苛まれていましたし軍服の下のせつない衝動を痛いくらい感じることができましたから。あたしがあんまり驚愕するものだから、面喰らってためらってしまい、なにもできずにいたのです。それがとてもお気の毒で痛々しく思えて。ちゃんとしよう礼節をわきまえなくちゃと思うのだけれど、いざとなると、やっぱりあたしは酷く驚愕してしまうのでした。
そんなある日の午後、狂烈な睡魔に襲われたあたしは好物のごぼ天と読みかけの本を床に落とし、まるで吸い込まれるようにソファで寝入ってしまいました。するとすぐに兵隊さんがやってきました。いつもみたいに跳ね起きようとしたけど、このときばかりはあまりに身体がだるくて、まるで縛りつけられたみたいにソファにぐったり横たわったままでした。くろぐろした翳が真上から覗き込みごくりと唾を呑む気配がしました。
ですから、あたしにはよくわかっていたのです。わっと泣きだしたい軍服の下の衝動、そこには底知れぬ飢餓があります。ああ、お気の毒だわ、可哀想。恥も外聞もなく瞳をギラつかせ涎を垂らすなんて。こんなにも卑しくて下賤なものに。ああ、なんて可哀想なんでしょう、哀れにもほどがあるわ、だったら、そう、あたしちゃんと満たしてあげましょう、ちゃんとしたお食事つくって差し上げましょう、なにかうんと美味しくて栄養のあるもの、お腹いっぱいになるものを。こんなご時世なんですから、おうちクッキングがなによりですもの。なにがいいかしら、そう、こんな場合はやっぱりお肉料理にかぎるわ。ぶあついステーキもいいしスキヤキしゃぶしゃぶジンギスカンにシュラスコハンバーグ骨付きカルビに特上ハラミロースそしてサガリにホルモン牛タンハツレバーミノセンマイコブクロそれからユッケに牛刺しもいいでしょう、ああ涎がでそう堪らないわ、たっぷり脂がのった臀部やツウ好みのこりこり睾丸なんかはやっぱりシチューが最適かしら、火薬や銃油臭さえ目をつぶれば喰らい尽くし甲斐あるってものでしょう、まず、たまねぎとじゃがいもはひと口大に切り、にんじんは皮をむいて乱切りにします。よく鍛えられた筋肉質の肩ロースや腿肉は血抜きをしたあと食べやすい大きさに切断します。かるく塩コショウしてもみ込んだあと深めのフライパンにバターを熱し焦げないように中火で慎重に焼きます。ここがポイントですから、できたらメモしておいてくださいね。あらかじめ塩コショウしてもみ込み充分に柔らかくしておくのが美味しく仕上げるコツ。中火で全面に焼き色をつけたら鍋を火にかけ沸騰させ弱火で二十分ほど煮込みます。しつこい銃油臭が気になるようでしたら香辛料を加えてさらに十分ほど煮ましょう。煮汁が煮詰まって濃すぎるようでしたら水を加えて調整しましょうね。浮いている脂はしっかり取り除いてください。焦がさないようにときどき混ぜながら弱火でじっくり丁寧に煮込みます。さあ、そろそろいい香りがしてきたでしょうか。お待ちどうさま。上質でまろやかなコク、まるで天涯までいざなうかのような奥深い味わいのシチューの出来上がりです。
どこかで夜明けの汽笛が啼いている。
どうやらまた一日がはじまるらしい。
わが鉄道路線図はついに佳境を迎えた。鉄路はいつしか国境間近。列車は隣国の首都めざして穀倉地帯をひた走る……飛び発つ渡り鳥の群れ、豊かで芳醇な田園の香り、大地を這うなつかしき光と霧の協奏曲、それは淡くやさしい伝統古楽器の調べ、夢と忘却のしずけさ……国境の街の紋章は可憐に群れ咲く青い花。
ふいに背筋を電撃が襲い、思わず窓辺に置かれた鉢植えに視線を向ける。入荷の報せはまだ来ない。しかるに町内会世話役の監視を掻い潜った黒猫はさまざまな情報をかき集め持ち帰る……衣服の締めつけこそ新疫疹の元凶と主張しファッションブランド襲撃を繰り返すヌーディスト集団、防疹研究所では痛覚で掻痒感を滅すべく患者を殴打する人体実験強行、国立医療機関では深海魚DNA由来のワクチン開発、これを受け政府はおさかなクーポン給付を閣議決定、国会では毎食十尾以上の深海魚摂取義務法を強行採決、おいおい待て待て瓜実疹の定義はないしそもそも疹禍など実在しない、すべては国際的闇組織による陰謀である等々……じつに雑多な情報を几帳面に報告しつつ黒猫はさかんに身体中を掻き毟っている。その様子を見つめているとふいに眼と眼が合った。妖しい緑の瞳の奥に朝露が濡れ光っている。わたしはすぐに出かける支度をはじめる。もう防疹襁褓など必要なかろう。
猫もわたしもひっきりなしに立ち止まり狂おしく全身を掻き毟るのでなかなか歩みが捗らない。以前の十数倍も時間をかけたすえ、ようやく瀟酒な庇の下にたどり着く。入口のガラス扉が粉々に砕け散っている。覗いてみると真暗な店内は深閑としている。さまざまな鉢植えや花が無惨に床に散っているようだ。もはやグレン・グールドの呻り声も聴こえない。逆巻く寒風があざ笑い両頬を嬲っていく。まるでホワイトアウトとブラックアウトが同時に襲来した気分である。ならば捜さねばならない。幾夜もかけてわたしは捜しつづけてきたのだから。あてどなくひとり捜しつづけてきたのだから。これからも捜し歩かねばならぬ。
耐えがたい痒みに苛まれ全身を掻き毟りつつターミナル駅へと急ぐ。ようやく並んだみどりの窓口では紙幣ではなく花核貨にて切符を購入する。新世界構築の過程で、中二の創造主が実物通貨を採用したせいである。キオスクに立ち寄り残りの花核貨で海苔弁当とほうじ茶とチョコ大福を買い求める。そして黒猫とともに朝露色の列車に乗り込む。ほかに乗客がいないので好みの座席に腰を据えることができた。やがて列車は国境の街めざして定刻どおりにホームを滑りだす。次第に速度を増す心地よい鉄路のリズム。窓外の風景を眺めながら弁当を食べ、お茶を飲む。チョコ大福はあとの楽しみにとっておく。全身を掻き毟りすぎ疲れ果てたらしく猫は座席にまるまりしずかな寝息を立てはじめる。わたしも睡魔に誘われまぶたを閉じる。ゆったりと鉄路を往くあまやかなリズム。もう少し、あともう少しでたどり着くのだ。かぎりなく甘美でなつかしい朝露の夢がポルカの波間を揺蕩っている……思わず笑みを浮かべてまぶたを開くと、なぜか一瞬にして周囲は薄暗い夜行列車の気配。陰鬱な車窓に映るは怪訝そうな表情の怪奇瓜人間。ゆらゆらちかちか、ゆらめく車内灯の下、わたしたちは互いを凝視しつつ同時にのろのろとチョコ大福を頬張る。それは身震いするほど甘い、はずなのに、どういうわけか無味である。
遠ざかる汽笛のように声が耳もとをかすめる。「ああ、おかしいわ、とっても」
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