今、寝返り打って背後を見ればまだ小さなお化けで済む。でも眠くって、でも怖くって、ずっと寝返り打たなくて見ないままなら、お化けはどんどんでかくなる。合体して吸収して首をたらん、血をたらん、目は飛び出る、どんどん気持ち悪い、こちらに今にも手をかけそうな、おばけになる。ふりむけふりむけ。今ならまだ小さいおばけだ。
そんなふうに小仲賢は思った。
おばけは予想通りというべきか意外にもというべきか、従兄の知哉の顔をしていた。
小学六年生の頃の知哉だ。彼がベッドに潜り込んでくる。隣を見れば、大人の、今現在の知哉の横たえられた背中がある。賢はその広い背中に鼻を擦り付けるように顔をぐりぐりとやる。小学六年生の知哉は柔らかく萎んだ陰茎をパンツにしまった頃合いだろう、気配が消える。あの、夏の日のことが思い返される。
親戚も誰も葬儀で寺へ行っている朝、留守番でまだ寝ていた賢の布団に入ってきた知哉が硬くした陰茎を賢の腹にぐりぐりとやり、生ぬるいぬるっとしたものを残していった夏のことを。
そして昨日の昼、十数年ぶりにその話題を、同棲している二人がしたことを。
あの時、途中から賢は目覚めていた。後ろ手に、その手で、硬いものを握らされた。大きな知哉の手が上から丸ごと包み込むように。そしてしごく。何をさせられているか賢は分かっていた。知哉は知哉で、賢が目覚めていることに気がついていた。だから、最後に射精してから、いきたえだえに、「これはいいことだから、そのうち賢にも教える。それまでは僕みたいにはなるなよ」と耳元でささやいた。
二十二歳で浪人中。浪人生と言えるのだろうか、一度だけ受験して、落ちたらあとはぶらぶらしていることを。ある美大を受け、落ちてからそのままだ。
来年もう一度だけ受けよう、と最初の年、そう決めて、新規蒔き直しを図ろうとするタイミングで、大学院時代から会社を起こしていた従兄から連絡があって、都心でルームシェアをしないか、と誘われた。それを「みんなには内緒にして」と言ったのは誘った側でなく賢のほうだった。みんなとは父と母だ。
知哉には昔から色々な影響を受けた。彼は美大には進まなかったが、そんじょそこらの美大生よりも感性も知識もあるように思う。三つ――本当は二つなのを賢は勘違いしている――歳の離れた知哉がこれまで夢中になってきたものに追い付け追い越せで、賢は色々なことを知った。ビーチボーイズ。ビースティーボーイズにビートルズ。ビートルズならポール派。これは絶対。知哉がジョン派だったから。そこは張り合ったようなものだが、賢はポール。ジョンとポールの歳の差通りではないが、賢のほうが若いのだし。音楽以外にも影響は受けた。そう、影響。クラスメートよりもいろんなことを知ってたし、いろんなことをしてきた。追い付け追い越せで知哉よりも多くを知ろうとしたから。美大だって簡単に受かるよ、小仲だったら。だって色んなこと知ってるじゃん。友人たちからはそう言われていた。ほとんどは知哉から影響受けたこと。影響――。
影響。賢は約束通り、そのあとで学校の女の子たちと付き合っても、普通一般のするみたいなことは絶対しなかった。俺がするとしても知哉にしてあげたみたいに手でやるだけ。もちろん夜に変な感じで目が覚めると、下着が濡れていることが何度かあったが、それも高校まで。高校の時、あのおかしなおかしな断絶の前に、知哉とキスをした。おかしなおかしな断絶と名付けたのは知哉だったと思う。とにかく賢は彼と繋がった。お互い、もう大人で、賢が「約束」のことを持ち出すと、「参ったな」と頭を掻いた。そして「お前には参ったよ、賢」と言った。同棲したのはそれから三年後だ。
ジョンとポールの歳の差・雑感
二人のうち、ポールのほうが二歳若かったが、ジョンは撃たれたので彼はジョンよりも歳を取った。歳の差はなんて空々しいものか。
ポールとジョン
あれは中学の国語の授業中だった
「小仲賢、ポール派なんだってな」
賢は教科書の漢文を目で追っていたら国語教師の声がやんで、それでもしばらく不思議に感じずに、ルーズリーフに写していた。いまのは自分の名前ではなかったか? ふと顔を上げて面食らう。国語教師がじっと見ている。そして彼は自分がマッカートニーのことを好きなのを、知っている。その話をしたのだ。教室はしんと静まり返っていた。目がしっかり合うと、国語教師が悪戯顔になった、「じゃあ」面白げに言う、
「じゃあ、ポール・オースターは好きか? ポール・ニューマンは? ポール・ステュアートは? ポール・スミスは?」
みんな聞いたことのない名前ばかりで、賢は何も言葉が出てこない。
「それぞれ、詩人、役者、服屋、服屋で、全員ジョンとポール両方がいる。覚えておけ」
教室は沈黙。誰も何も反応がない。椅子のきしむ音もしない。
(つまりジョン・オースター、ジョン・ニューマン、ジョン・ステュアート、ジョン・スミスもいるってこと?)
さらに現国教師は続ける、
「まあ、ジョン・オースターは正確にはオスターだし、ジョン・ニューマンは頭にカールが付く。ジョン・ステュアートで有名なのは山ほどいる。ジョン・スミスはもっと山ほどいる。ジョン・スミスは山ほどいすぎて、こっちでいうところの山田太郎と同じようなもんなんだ」
教師は最後にこう付け足した、
「ちなみに先生はジョン派だけどな」
もちろん、ジョン派というだけでは国技教師に、ポール派の賢の心はときめかなった。あるいは手でしてあげるだけのジョンもポールもない女の子たち。
安定剤の錠剤のことは知哉には言ってなかった。裁縫箱の一番下に隠していた。隣の部屋からは会ったことのない隣人のゴトン! ゴトン! という音がする。
安定剤を隠したのは余計な心配させたくないから。
「ねえ、賢。君は最近ずっとそれを気にしているね」
どきりとした、心を見透かされていると思ったからだ。
「それ……って?」
「それさ。ずっと縫ってる。真剣にずっと。もしかして売るの?」
知哉は笑って言った。
真剣に、ずっと――。賢は少し安堵した、けれどすぐに思った。ううん、僕、真剣じゃないの。ただ怖いだけなんだよ。何もしてないのが。賢は先月からカルチャースクールでパッチワークの講義を取っていた。
「ああ、ううん。売らないけれど、今度展示会があるの。お披露目会っていうか」
賢は講師と同じ言葉を繰り返した。
「へえ……、それとも作品として受験の時に提出するのかと思っていた。それにしては弱いなって思っていたけど」
「ううん受験には出さない」
というか受験を受ける気ももうない。知っているくせに。
あれからもう何年経ったことか。
「ねえ、弱いってどういうこと?」
「いや、気を悪くしたら謝るけど。なんていうかな。お年寄りの撮った写真を見せられたみたいなさ」
「ああ、そういうこと。僕、それでいいと思っている」
「そうなの?」
「お年寄りの作った作品に見えるなら、それはそれで悪くないなって。なんていうか、奇を衒ってなくって、それがいまは落ち着く」
「賢」
彼は賢にキスをしてから言った、
「そうされてると、昔のことを思い出すな」
「昔?」
「昔、まだ僕らが、いや、君が少年の頃。君が女の子と付き合ってるって知った時、僕は君の『昔の男』って感じがしたよ」
「え?」
「でもそれってそれ以上の意味がある、そこには『昔好意を寄せられてた男』、さらに言えば『いまは眼中にいない奴』ってのがこめられてる。自分のことをすべてね、足の爪の先から髪の毛一本まで知られた上でフラれたって、そう思ったんだ。ねえ賢。まるで、相手の方が、そう、相手っていうのはもちろん君だ――、君が僕より優位に立っていて……。実際、フッたほうが偉いのかもしれない、だからもちろん、逆の立場のほうは、君には負けちゃったよ、って思う。賢は僕のことを全部知って、満足いかなかったんだって。君のほうがいつまでも大人で、君にとってはいつまでも僕は過去の子供のままで。それを大人の僕が理解していて、君に見合わなかった、君の人生に敵わなかったよって思っていた」
「そんな……」
賢はそんなことを言う知哉を信じられなかった。だって〈あれ〉は……
「それくらいいまの君はそれに夢中だ。そんな生き方をされると、それに対して嫉妬してしまうんだ。その、当然の顔をして、何の疑問も持たぬお年寄りじみた、軽やかな執着に対してね」
待って。だって〈あの〉出来事は。賢の性器が膨張する。
「もっとも、それは他人の生き方をコントロール下に置くっていう欲求が僕のほうにあって……、そう、それがあったのかもしれない。別れてからも、好きでいて! 理解していてくれよ、って」
「でもだって〈あれ〉は!」
あの一度きりの、俺が小学四年生の時のあの、手でしてあげたあの出来事は……。
「そうだね、あれは僕の悪戯な性欲の成した傷だって言うこともできたろう、君にとってはさ。でも僕にとっても、反対の意味でそうだった。罪悪感ってこういうことを言うんだね。君を結局変えてしまったのかもしれない。あの出来事で。そう思うと僕は、罪悪感を抱く、と同時に、少しだけ満足感を味わう。だけど、思うんだ。だけどあの時もっと君を抱きしめていたらって、君をもっと無茶苦茶にしてしまっていたらって、そうすればずっと、最初からずっと君は僕のもので、いまもそうだったって。僕以外のものが目に入らなくなるくらいに。もっと僕に、何の疑問もたぬ、そう、君が軽やかな執着だけで僕を必要としてくれるように。だからあのあとで凄く後悔した。……夢でもみた」
「……いまも?」
「いまも? うん、いまも。最近特に。夢にみるよ。君がそのアップリケと一緒に出て行ってしまうんじゃないかって」
「そんなこと、ありえないよ」ソレニコレハあっぷりけジャナクッテぱっちわーく……。
「いや、ありえるんだ。君はまだ知らないだけで。何かのバランスが少しでも揺らいだら、底が破けるんだ。それで、おしまい」
「底が、破ける……」
そうだ。
そうなんだよね。
退院した足で
退院した足で――なぜ誰も迎えが来なかったのに退院させてもらえたのだろう――賢はあのおかしなおかしな断絶から退院した足で、近くの美大の展示に向かった。多分賢の病気はこの時はまだ、治っていなかったのだと思う。退院させたのは担当医の時期尚早だったと思う。だから知りもせぬ美大に入って行ったのは要は、病人的彷徨の結果だ。そこへ偶然、辿り着いたわけだ。
美大の展示室の、そこではテクストに関する極めてインスタレーション的な作品があって、その中でも賢の目を惹いたのは、あらかじめ書かれた文章を大きく印刷して、文節ごとに切り離し、ばらばらにしたものを来場者の手によって再構築する展示だった。用意された壁には、すでに、意味の通っているようで、通っていない、数十行かの、裁ち切られかつ繋げられた文章があった
賢は床にばら撒かれた長い文章二つを手に取り、それを宙で交差するように、壁に出来上がった文章のあいだから始まり、そしてあいだへ繋がっていくように挿入する形に画鋲で止めた。いくつもいくつもX状の箇所を作った。
無数のX状の、X分だけ読む方法のある文字通り交差した文章ができた。
と、そのとき学生らがぞろぞろと入ってきて、教授らしき人物も数人やってきて、講評会が始まった。それを見ていて賢は、その作者を馬鹿だと思った。そして、思わなかった。この作品の本質は、自分がついさっき為した、どんなふうにも読める文章を作り出すことではないのかと分かっていたし、作者は分かっていなかったからだ。彼女は興奮した口調で言った、
「あたし、予想もしませんでした。こんなふうに、文章を、ハチャメチャに繋ぐ人がいるなんて。これはあたしが自分で書いたお話を、他の人が切り貼りしたら、どうなるか、っていう作品なのですが。あたしの文章なのに、こんなにどう読んだらいいか分からなくする人がいるなんて」とかなんとか。教授連からは辛口のコメント……
この時だった、この時ようやく賢の病気が正常に治まっていることに気がついた。退院した時でなく、時差を経てその時。治癒。だから賢はこの作品の作者に感謝している。だからこその、「馬鹿だと思った、そして思わなかった」。この作品が俺をを俺に返してくれた。元の俺ではないが俺を返してくれた。他人の思考と自分の思考を反響させること、世界の仕組みの、生きることのシナリオの不出来と矛盾の穴あきの部分を、自分と自分以外の共生によって自分と誰かの言葉で埋め合わせることが必要だったのだと。時差を経て、病院での治療が活きた。完了した。
もう思っていないけれど、その時は、そこの美大を目指そうと思った。
今日も隣人が壁を叩いた。必ず決まって賢一人の時のようだったが今日は隣に知哉がいた。眠ってはいるが。ゴトン! ゴトン! ゴトン! そして苛立ちの籠った溜息が聞こえる気がする。そのあとで、何か重い物のガシャンと割れる音がする。目をつぶっている賢には、部屋の壁にX状のひびがいくつも入っているように錯覚する。知哉が何か寝言を言う。ごめん、と聞こえた気もする。
賢はお尻に濡れた感覚がし、見るとどこから現れたのか卵がくしゃりと潰れている。
了
島津 耕造 投稿者 | 2020-12-25 07:46
エロティックな小説ですね。必要だったのがXだったのはXとYだからでしょうか。僕は好きだと思いました。
多宇加世 投稿者 | 2020-12-25 08:10
コメントありがとうございます。Xにそういう意味は持たせてはいないのですが、ご感想嬉しいです。