最後の一粒が残ったチョコレートの箱を後生大事に抱えながら、私はバイト先に到着した。同じシフトのアルバイトはもうみんな出勤して作業着に着替えていた。その中には柴崎の姿もあった。
いきなりここで私はとどめを刺されるかも知れなかった。その可能性は十分にあった。柴崎に嫌味を言われるとか、リーダーに説教をくらうとか、ロッカーを開けたら作業着を誰かに汚されたり隠されたりしていたとか。
なんといっても私の命はあと一粒だけなのだ。ここで最後の一粒を食べることになったらどうしよう、と今さら考える。実のところチョコレートが全部なくなったら死ぬと決めてはいたが、どうやって死ぬかまでは考えていなかった。もし最後の一粒がビルの十階でなくなったら非常階段から飛び降りるとか、橋の上でなくなったら眼下の川へ身を投げるとか、駅のホームでなくなったらそのまま次に入線する通勤電車の前に躍り出るとか。
そういうシチュエーションならまあ死に方に迷いはないだろう。だけど仮にここで――この、とりたてて危険な道具や設備もない場所で死ぬとしたらどういう方法があるのか、考えてみる。首を括るか? 手頃なロープもそれを吊るところもない。刃物を頸動脈や心臓に突き立てるか? 鋭利な刃物はない。せいぜい休憩室にある果物ナイフくらいだ。そんなもので死ねるのだろうか。
勤務時間中もずっとそんなことを考えていた。不思議と、今日に限ってトラブルらしいトラブルはなにひとつなかった。意外と関係ないことを考えながら仕事をしていた方が、なまじあれこれ思い悩むよりは良いのかもしれなかった。とうとう、最後のチョコレートを食べる必要もないままシフトは終わった。
とはいえ残りは一粒だからいつでも私の人生は終焉を迎える可能性があった。私は作業着をロッカーにしまい、帰り支度を始めた。十二月の戸外はもう真っ暗だ。バイト先の作業所は最寄りの駅から歩いて七八分ほどのところにある。途中大きな幹線道路の上を渡る陸橋があり、そこから欄干の下を見やるとスピードを出した車がバンバン走っている。ここから飛び降りたら、確実に死ねるだろうなと思った。
私は陸橋の真ん中に立ち止まって、眼下を通り過ぎる車のテールランプを眺めていた。寒さが襟元のわずかな隙間から忍び込んできて、身に染みた。今この瞬間誰かが肩をぶつけてこないか、通りすがりの人に突然キモいと罵られないか、あるいはバッグをひったくられてもいい――そんなことを願った。私のクソつまらない人生に、ここでとどめを刺してもらいたかった。
「やあ」欄干にもたれている私に話しかける者があった。柴崎だった。「こんなところで何してるの」
私は彼女を振り仰いだ。ではあなたが私に引導を渡してくれるのか。すべてを終わりにしてくれるのか。
「こんばんは」私は柴崎に感謝すらしたい気持ちで、小さく挨拶した。「車を、見ていたんです」
この際不審がられようとなんだろうと構わなかった。むしろそれを望んでいた。不審がられれば、今朝駅で私を罵ったおばさんのように、柴崎も私を蔑んでくれるに違いない。
「車、好きなの?」
柴崎の反応は意外なものだった。でも車を見ていると言ったのは私だから、別におかしなことではないと思い直した。
「ああ、そういうわけじゃなくて、なんとなく」
「そっか」
柴崎は私の隣に立って同じように幹線道路を見下ろした。背の高さは私と変わらないので、欄干にもたれかかって手すり越しにやっと向こうが見えるくらいである。しばらく二人とも無言で道路を眺めていた。
「あんた、最近悩んでるね」
出し抜けに柴崎が言った。私は意表を突かれて何も言えなかった。
「見りゃわかるよ。伊達に歳くってないんだから。何かい? 金のこと? 家族? それとも男?」最後のところで彼女は下卑た笑いをつくった。
「どれでも……ないです」
「じゃ何だよ」
私は口をつぐんだ。上手く説明できないし、説明できたとして彼女に解ってもらえるとは思えなかった。
「言えないか」柴崎はおどけてみせた。
私は言葉を継ぐことができなかった。凍りついたまま三十秒が過ぎ、一分が過ぎる。最高に居心地の悪い時間がひどくゆっくりと進んでいく。私は早く解放してほしかった。早いとこ私を罵るなり蔑むなりして、私にここから下の道路へ飛び降りる決意をさせてほしかった。そういうことに関して、柴崎はうってつけの役柄だったのだ。思えばこのバイトを始めて初日に一緒のシフトになったのが柴崎だった。なんか面倒くさそうなおばさんだなと思ったが、仕事はそれなりにできるようだった。噂ではバツイチで別居している子供がいるらしい。プライベートを詮索してくるような厚かましさはなかったが、仕事のこととなると人格攻撃を交えたダメ出しを容赦なく突きつけてきた。
「じゃ話さなくていいからさ」柴崎は意外とあっさりしていた。「明後日シフト入れる?」
「え、どうしてですか」
「急に休まなきゃいけなくなって。まだリーダーには話してないんだけど」
「あさってですか……」
私は思いきり当惑してみせた。明日でさえ間違いなく生きてないのに、明後日なんてもっと無理だ。
「だめかなあ。予定ある?」
「いえ……ないです」
柴崎の強引さに、私は思わず言ってしまう。というか「死ぬ予定があるので無理です」などとは間違っても言えない。
「よっしゃ。じゃリーダーに言っておくね。よろしく」
柴崎は満面の笑みを浮かべた。私はばつが悪いので俯いたままである。
「悪いね。これ、お礼と言っちゃなんだけど、ちょっとバザーの関係で余っちゃっててさ。ほい」
と、バッグから柴崎が袋を取り出して私の胸に押しつけてきた。プラ袋になにやら小さなものがたくさん詰まっている。周囲が暗くて最初はよくわからなかったが、よく見てみると袋には『麦チョコ お徳用』と印刷されている。
「麦チョコ、嫌いだった?」
私が身じろぎひとつできないでいると、柴崎は下から私の顔を覗きこんで聞いてきた。私は思わず身を引いた。
「いいえ、嫌いじゃないです。ありがとうございます」
柴崎はまたにんまりと笑うと、じゃまた明日と言って駅の方に去って行った。取り残された私は麦チョコの袋を携えて立ち尽くしている。お徳用と書かれた袋に封入された麦チョコがいったい何粒あるのか、想像さえ及ばなかった。
少なくとも私が始めたこのチョコレートカウントダウンは私の意思とは関係なく続いていく。私は来る日も来る日も、今日死ぬかもしれないという思いを胸に、誰かに蔑まれたり罵られたり、優しくされたり親切にされたり、そうやって生きていくのだ。
私は歩き始めた。陸橋を渡り終え、柴崎を追って駅へと向かう。柴崎にそのつもりがあったのかどうかはわからないが、彼女は私に親切にしてくれた。だから決まりどおりチョコレートを一粒あげよう。
そう思って横断歩道を渡り始めた瞬間、右の方から猛スピードで突っ込んでくる自動車が視界の隅に入ってきた。あっという間だった。接触の瞬間、超スローモーションのように運転席の人物がはっきりと見えた。Bluetoothイヤホンを着けた若い男が、びっくりしたような顔でハンドルを握っている。
車のフロントが私の身体にめり込んで骨や内臓を砕く鈍い音がして、そこから何メートルか宙を舞い冷たいアスファルトの上に叩きつけられるまでの間、私は、ああ、この男のせいでまたチョコレート一粒食べないと、と考えていた。
(了)
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