月並みな住宅街の家々の隙間から、太陽の頭頂部、おでこの辺りにかけて見え始めた頃、起き抜けに一杯の水を飲んだ僕は、ふと一服しようと思い立って窓を開けた。すると、薄手のパジャマでは耐え難い寒風が部屋に舞い込んできて、夏の熱気が鬱陶しかったのが昨日の事の様だと思っていたのを、改めなければならないと思った。居間の中央に鎮座するテーブルの隅っこでくしゃくしゃになっている、アメリカンスピリットのターコイズのボックス、それと年季の入ったライターを手に取ると、サンダルを履いてベランダへ出た。
ベランダに出ると、より一層空気が冷たく感じられた。自分の他に生気の無い、うっすら暗い朝焼けの静けさが、寒さをより引き立たせている。孤独に生きるうら淋しい気持ちを温める思いで、僕はひょいとボックスから煙草を取り出した。最後の一本だった。すぐさま手を付けず、なんとなくそれを冷たい手の中で転がしていると、眼前の景色がスクリーンとなり、煙草に関する幾つかの記憶が映し出された。
もともと僕は、煙草なんかとは無縁の存在だった。喫煙所の近くを通ればすぐさまその臭いに咽返った。一度吸えば心身を蝕む悪徳なのだと軽蔑していた。そんな僕が煙草を吸うきっかけとなったのは、当時仲の良かったあの男である。彼は恰幅の良い、髭の似合う男だった。しかしいけ好かなくて、不道徳な男でもあった。道徳を重んじていた僕とは対照的で喧嘩も耐えなかったが、それでも何故か多くの時間をあの男と共有した。
彼は愛煙家で、事あるごとに「ちょっと失礼」と言って、お気に入りのアメリカンスピリットで一服した。ある夏の日、公園のベンチにふたりで腰を降ろして話していると、いつもの様に「ちょっと失礼」と言って、一服しようとした。それを見て僕もいつも通り「どうぞ」と言って、吸い終わるのを待った。僕は彼の一挙手一投足をまじまじ見つめていると、互いの視線が交わった。すると彼は、口の端を吊り上げる得意のニヤケ顔をして、もう一本の煙草を取り出すと、それを無理やり僕の手の中に押し込んだ。
「お前も吸いたいんだろ?」
どうやら僕の顔は、彼の目には駄菓子屋さんを物欲しそうな顔で見つめる子どもの様に映ったらしい。悔しくなって僕は彼の肩を軽く小突いて睨みつけた。煙草を吸いたいだなんて、少しも思ったことはなかった。しかし僕はなんとなくというか、場の雰囲気に気圧されて、不慣れな手付きで煙草を口に咥えた。彼は一瞬驚いた様に見えたが、すぐにまたあのニヤケ顔になって、自分の煙草に火を付けた。彼は顔を、僕の煙草の先端が火に触れるぐらいまで近づけて、ゆっくりと息を吸った。息を吸う様に促されたので、僕も彼と共に息を吸うと、身体の奥から何かが込み上げてきて、すぐさま咽返ってしまった。僕が苦しんでいるのを横目に、彼はヒヒヒと悪戯な笑みを浮かべている。「怒るぞ!」と僕は一喝したが、内心そこまで悪い気分でもなかった。それ以降、僕はちょくちょく彼と一緒にいる間、一服する様になっていた。
それからも数年、僕と彼は同じ時間を過ごした。シェアハウスで同棲もした。やはり喧嘩は耐えなかったが、お互いに満更でもない関係だと思っていた。ある日の明け方、丁度今日の様な冷たい日、僕は目が覚めて、水を飲もうと台所へ向かうその時だった。彼は、言葉も無く、忽然と姿を消していた。最初の内は悪い冗談なのかとも思ったが、家の何処を探しても見つからず、電話を掛けたり、メールを送ったり、果ては近所を探し回ったりもしたが、結局彼は見つからなかった。居間のソファでうなだれて、僕と彼のこれまでに、こうなってしまった原因を必死で探し求めた。頭が混乱しているからか、鈍感なだけなのか、僕の何が良くなかったのかはわからなかった。それでも何かしらの理由があって、彼は僕を捨てたのだ。きっと、僕よりも良い人が見つかって、その瞬間に僕のことなど頭から抜け落ちてしまったのだ。心が銃で撃ち抜かれた様に、ポッカリと穴が空いた。僕は早朝の静けさを邪魔しない様に声を殺して泣いた。そばに置いてあった煙草のボックスをテーブルの方へ投げ飛ばして、それ以来煙草を吸うことはなくなった。
あの日以来の、久々の一服だった。手の中で転がされていた最後の一本を、僕は慣れた手付きで口に運ぶと、ライターで点火した。息を吸い込む度、心の銃痕に風が吹き抜けて痛む。それでも僕は、最後の一本の、最後の残りカスまで味わい尽くすつもりで、長い時間を掛けて吸った。思い出が、吐き出された煙に乗って空に立ち昇り、そして見えなくなっていく。知らない内に、涙が頬を伝っていた。空気と溶け合ってなくなってしまったのだから、もう過去を振り返ることは出来ない。それでよかった。
感傷に浸っている間に、街は生気を取り戻し始めていた。近所のおばさんが、洗濯物をベランダに干し、布団叩きでパンパンと叩く音が聞こえる。周辺住民には有名なおばさんで、朝早くに、無意味にも洗濯物を叩いている姿が、なんと健気なことかと評判らしい。僕は吸い殻を適当に処理すると、部屋に戻った。
さて、僕には広い交友関係も無ければ、特別な趣味も無い。そういう手合は、今日の様な何も無い退屈な休日というのが苦手なのだ。僕は狭い部屋の中をあちこち見回して、暇が潰せる様なものを探す。すると、丁度視界の中心に、読みかけの小説を姿を捉えた。煙草を吸わなくなってから、空いた時間を読書に充てることにしている。そういえば一冊、読むのを途中で中断した小説があり、それが今、視界の中心にある一冊だ。薄っぺらな短編集なので、今日一日でこれを読み切ってしまおうと考えた。僕はそれを手に取ってソファで横になると、栞の挟まっているページを開いて、文章に意識を集中させた。
――祖父は寝台の上で、呪文の様な譫言をブツブツと喋っていた。私はその光景が見るに堪えず、思わず目を背けながら寝台近くの椅子に腰を降ろした。
「嗚呼、神よ。我が祖父の命、どうか救い給え。」
それは紛れもなく、心の底の方から止めどなく溢れる渾身の祈りだった。一切の穢れ無き祈りだった。私の人生の内、祈る神など存在したこともなかった。それでも今、病床に伏せる我が祖父にしてやれることは、医者でもない私には祈り以外になかった。窓から差し込む斜陽が祖父を照らして、私がいよいよ迎えが来てしまったかと諦めかけたとき、祖父のか細く、震えた譫言は、明確な意味を持った言葉となった。顔は天井を向いて、目も瞑ったままだが、意識は、言葉は、私の方を向いていた。
「……儂の可愛い孫よ。思い出を語ってもいいかね」
「無論です。是非お聞かせ願いたい」
「……銃を撃ったことがある。日本ででは無い。グアム旅行の折、射撃場での話だ。毎日が暑くてしょうがなかった。それでも、日本の夏よりは幾らか過ごしやすかったな。現地人が言うには風の影響だそうだが……おっと、銃の話だったね」
私は涙を堪えて聴き入った。存在しない神の与え給うた、最後の機会なのだと察した。
「そこには沢山の種類の銃があって、金を払えば好きなものを撃って構わないと言うので、儂はM1ガーランドと呼ばれている、古い銃を選んだ。八発の大口径銃弾を仕込んだそれは、撃ち切ると中のクリップが飛び出し、金属の心地よい音が響いて気持ちが良い。水を含んだペットボトルの的や、人の形をした的、様々な的を撃ち抜いた。堪能しきって、儂はホテルに戻った。風呂に入り、食事を済ませて、後はもう寝るだけとなった時、銃を手放してから随分経ったというのに、未だ手には銃の重みが残っていたのだ。そこで儂は、今みたいに寝台に仰向けになって、天井に手をかざして、暫く可笑しなことを考えた。銃が沢山の人を傷つけたからといって、果たして銃は悪いのかと。銃に感情があるなら、もしかしたら、意図せず人を傷つけて、そのことに気付いていないだけかもしれないと。儂の可愛い孫よ。お前は……」
私が聞き取れたのはそこまでだった。以降はまた、呪文の様な譫言になり、それから少しして、祖父は息を引き取った。まだ温かい、しかし物になってしまった祖父を前に、私は、涙よりも疑問があった。祖父は私に、果たして何を伝えたかったのだろうかと。陽は既に落ちきって、夜の帳が降りていた。
結局のところ、その小説を読みきることが出来ず、読んでいる最中に眠ってしまった。眠っている最中、僕は夢を見た。崖の際に立って、眼下に広がる非情な戦場を見下ろしていた。ふたつの軍が互いに銃を撃ち合い、誰かは死に、誰かは逃げ、誰かは叫び、誰かは狂った。僕はそれを、しょうがないという心持ちでただ見下ろすのだった。
松下能太郎 投稿者 | 2019-11-14 00:44
「僕」は彼に対して友達以上の関係を求めていたのでしょうか。そう思うと彼の残した最後の一本の煙草はきっと切ない味がしたんだろうなあと思いました。
島田梟 投稿者 | 2019-11-17 09:46
人間お互いに銃を撃つように傷つけあってるけど、まあ仕方ないねっていう諦念の話でしょうか。
ラストで主人公は本読んでて寝ちゃってますけど、起きたばっかりなのにすぐ眠気に襲われるってどれだけ疲れてるんだろうと思いました。
千葉 健介 投稿者 | 2019-11-22 13:17
これに関しては僕が実際にやりがちで、早起きしても暫く動いた後またすぐに眠ってしまうことがあるので、至極当然の様にそうしてしまいました。
吉田柚葉 投稿者 | 2019-11-17 11:42
朝早くから布団叩きしているおばさんが健気だと評判になることなんてあるかな、と思いました笑
文章が上手くて、筆運びも心地好いのですが、ちょっと感覚的に書きすぎているところがある気がします。ピリッとする描写やエピソードがひとつあれば引き締まったかな、と。
伊藤卍ノ輔 投稿者 | 2019-11-18 02:03
拝読いたしました!
作品の主題がわかりやすく、広く読まれる物語かなと思いました。
以下は飽くまでも個人的な感想ですが、銃というメタファーが空振りしてしまっていないかな? と少し考えたりしました。
自分は最近メタファーには二つの役割があるのかもしれないと考えていて、それは
①物語そのものを広げる
②物語の主題に説得力を持たせる
という二つで、①は例えばカフカの城のように、メタファーといってもそれ自身はっきりと核心を見せるわけではなくて、でも示唆的!というもので、②は核心に物語の主題をなぞる意図があるものです。この物語の使われ方は恐らく②かな、と思いました。そして②のメタファーの使い方をする場合は、まず軸となる物語に説得力が必要だと思うのです。
この物語の場合は軸になるのは「主人公が親友を知らずに傷つけてしまっていた(かもしれない)」という部分であるかと考えるのですが、二人の関係性が要約的に、かつ極めて簡素に語られてしまうからそこに訴えかけるものが見出せませんでした。
個人的に、ですが、恐らく後半のメタファーの部分(本の一区切りと、夢の両方)を書くよりも、その文字数を使ってできうる限り二人の関係性、傷つけてしまったかもしれない可能性を丁寧に書いていったほうが物語としても面白く、かつ主題として訴えかけてくるものも豊かになるのではないかな?と考えました。
しかし自分もズブの素人で飽くまでも個人的な感想として聞き流していただけると幸いです。
諏訪靖彦 投稿者 | 2019-11-20 12:38
アメスピは心情の暗喩かしら。去って行った恋人に思いを馳せ、原因を考え、前に進もうと思うも楽しかった思い出が去来して立ち止まってしまう。男同士であっても女同士であっても男女であっても普遍的なものですね。
布団叩きおばさん、生放送中におばさんの映像を見た元衆議院議員が「キチガイの顔」と言い放った放送事故を思い出しました(笑
Fujiki 投稿者 | 2019-11-22 07:23
恰幅が良くて、髭が似合って、いけ好かない、という説明を読んで私は完全にバルザックみたいな外見の喜劇的人物を思い描いていたので、痛切な喪失感の描写とBL設定の不意打ちには驚いた。エモくていい感じ。ただ「心が銃で撃ち抜かれた様に」というのはちょっと手垢のついた陳腐な比喩なので、銃というお題への言及は後半部分だけで十分だと思う。
松尾模糊 編集者 | 2019-11-22 13:35
冒頭と後半の小説を読むというところの繋がりが今ひとつピンと来ませんでした。少し〜のような風景を書き過ぎていると思うので、そこはもっと簡素にして、あの男との会話がもう少し描かれているとBL感が出て良い気がします。
牧野楠葉 投稿者 | 2019-11-23 14:28
すると、薄手のパジャマでは耐え難い寒風が部屋に舞い込んできて、夏の熱気が鬱陶しかったのが昨日の事の様だと思っていたのを、改めなければならないと思った。
というくどい表現なのに、「ひょいと煙草を持ち上げた」など、文体上のブレがかなりあったのが気になった。追憶のエモさはいい感じでした。BL要素がこの小説でどうしても必要なのか、と考えながら読むとそこはわからなかった。なくてもいける気がした。
大猫 投稿者 | 2019-11-23 14:48
主人公が読みかける小説で、死にかけの老人が語る手にしていない銃の重みは、去って行った恋人の消せない存在感かな。居なくなって時間が経っても、なお傷つけられたいと思うほど。
銃が出てきても文体は静かで、孤独がじんわりと染み入ってくるようでした。
一希 零 投稿者 | 2019-11-23 22:55
少し前の芥川賞の『影裏』を思い出しました。単なる喪失感以上の孤独(心を撃ち抜かれたような)が描かれていると思います。BL的な心情を直接的に表に出せない主人公の声なき声が、文章の間から滲み出ていました。他の方のコメントとは異なり、もっと心情描写を抑制し、情景描写にふったくらいでもいいように思います。
波野發作 投稿者 | 2019-11-24 12:54
銃というテーマのせいなのか、落差の大きい冷と熱の対比が印象的でした。
Juan.B 編集者 | 2019-11-24 18:06
BLはまだまだ勉強中だが(?)、こういうやり方もあるのかと勉強になった。お題の消化はもう少し出来そうな気がしたが、雰囲気を削いでしまうか。もっと背景を知りたくなる話だった。