父が、いつのまにか別人になってしまった。
私は不安だった。しかし中学の制服ができたとはしゃいでいる妹は私の話をちっとも聞いていない。ねぇ、みてみて、このリボンの結び方が大事なんだよ。輪っかになってるところが大きすぎると先輩にしめられるんだって、しめられるってなんだろね、こわいねぇ!
私が怖いのはそれよりも「父」だ。あの男の方だ。
父はいつも七時に出かけ、五時の鐘と同時に職場をでて、六時には家に戻ってくる。帰ってきてもなにが気に入らないのかむっつりと黙り込み、沼の底のナマズのような目でテレビを眺めながらビールを飲んでいる。九時になると決まって風呂に入り、それからもう一本ビールをあけると寝室にひっこんでしまう。機械じかけみたいな毎日。それが私の父だ。
でもあの男は違う。出かける時間は六時だったり八時だったり、十時をすぎることさえある。帰りはたいてい遅く、八時か九時、時には時計の針がてっぺんを超えても帰ってきていないことがある。酒は時折外で飲んで来るくらいで、家で晩酌をすることはめったにない。母は油断をしてビールの買い置きをやめており、それにもハラハラとする。
しかも、あの男は時々私に話しかけてくる。話といってもたいていは他愛のない――たとえば駅までの道に昔地主だった農家があり、その庭に立派な桜の木が生えているのだが、蕾が膨らんできてもうすぐ咲きそうだとか、川の向こうに富士山が見えてちょうどそこに日が沈んでいくのがみえたとか、朴念仁である父は死んでも口にしないことばかり言うのである。あの男は父になりすましていったいなにを狙っているのか?
ひとしきり事細かに制服の説明を終えてようやく妹は私の話を聞く気になったようだ。私の疑念を黙って聞いた妹は、じゃぁ、調べてみよっか、と軽い口調でいった。私はとっさに口に人さし指をあてて妹を制した。そんな大きな声で言っちゃだめ、聞かれてるかも。妹はくるりと目を大きくして、それから大丈夫、とまた元気よく返事をした。バレないように調べるから。きっとすぐわかると思うよ。
心配だ。
折りたたんだ紙をひろげ、妹は唇を舐めた。そしていきなり名前を聞いたら怖いでしょ、と賢しらな口をきいた。だからね、歳を聞いてみたんだ。五十二歳。ちょっと若い気がするよね。
違う。
それではあまりにも歳を取りすぎている。妹が生まれたのは父が三十歳ちょうどの歳だ。たまに機嫌がよいと父はそんなことを繰り返し言っていたから間違いない。今、妹は十二歳なのだから、父は四十二歳のはずだ。ぞっと背中の毛が逆立って私は思わず妹の腕を掴み、違う、と首を横に振った。お父さんは四十二歳よ。十も違うわ。
妹は私のことばをさして重要だとは受け止めなかった様子で、先を続けた。それで、仕事は事務員。大学の事務。私はまた妹を遮った。確かにお父さんは大学の事務員さんだったけど、だったらどうして十時すぎまで仕事に行かないことがあるのよ。絶対嘘。あの人、嘘をついてる。
お父さんは大学の事務員だ。偉い先生のこともたくさん知っていて、なのに彼らのことをバカにしていた。あいつらは何度言っても書類の順番を間違えるんだ。漢字の間違いも多いし、学問をいくらやったって賢くなるわけじゃないんだな。そんなことをよく言った。ナマズの目がそんなときだけはテラテラとひかって、私は不気味に思ったものだった。
妹は口をとがらせて私を見ている。小さな口だ。赤ちゃんの頃は全然歯が生えていなくて、しばらくして桜色の肉の中から白い歯が覗いているのが見えた時、私はどういうわけかとても怖くなった。こんな歯があったら噛みついてしまうかもしれない。そんなことをしたらお父さんはきっと――
「エミ」
ぎょっとして私は妹の腕に抱きついた。行っちゃだめ、行っちゃだめよ、呼ばれても行っちゃだめ。
「プリン、買ってきたぞう。いろいろ……」
「プリン?」
だめ、と私は答えた。それがあいつの作戦なのよ。あなたを油断させて取りいるつもりなんだから、絶対にだめ。ぜったいに近づいちゃ――
「だめぇ!」
ぎょっとして私はキミちゃんを覗き込んだ。
キミちゃんは私のおばあちゃんだ。紀美子だからキミちゃん。しわだらけで干からびていて、しかも少しすっぱい臭いがする。一日中布団の中にいて、眠っているかテレビをみているか、という暮らしをしている。
二年くらい前から話が前にすすまなくなり、どうやらなにかおかしいと病院に連れていったら認知症の診断が出た。最近では独り言ばかりいっており、滑舌が悪いせいでなんの話をしているのかはほとんどわからない。たいてい機嫌がよく、トイレや食事では今のところ粗相をしないので手はあまりかからないのは幸いといえるだろう。でもこれ以上ボケが進行したら施設に入れることも考えなければ、と両親は毎日深刻な顔で相談しているのだった。
キミちゃんが私のことを妹だと思いこんでしまったのは半年くらい前だっただろうか。高校と中学を混合しており、私のことを十二歳だと思っている。キミちゃんは病弱な十七歳、学校には行かれず、家でおとなしくしているという設定のようだ。本当は八十歳なので、なんだか少しおかしい。
そんなキミちゃんだが、最近、父が別人に入れ替わっているというようになった。たしかに父は私の父だ。私が「お父さん」と呼ぶので、私の姉であるはずのキミちゃんにとっても父であるはずだが、私の父はキミちゃんにとっては息子である。悪いほうに回路がつながってしまったと父は苦い顔をしている。
ほんの少し前まではちゃんとわかっていたはずなのに、すこしずつキミちゃんの世界は崩れているようだ。微妙な違和感を覚えるのか、キミちゃんは不安で眠れないらしかった。そして「お父さん」と呼ばれている人物が誰なのか暴いてやらねばならないと思っているらしかった。しかし病弱なキミちゃんではなにもできない。それが歯がゆくて、つらいのだ。
キミちゃんのどこへ向かうのかわからない話をようやく理解して、私は父に相談した。キミちゃんの不安をとりのぞくためなら芝居をうったほうがいいかもしれないと父は言った。不安はストレスになる。ストレスは万病のもとだ。もっとボケが進んでしまうかもしれない。
私はキミちゃんに調査は任せてくれと請け負った。二人で絶対に暴いてやろう。大丈夫、きっとすぐにいなくなるからもう安心だよ。キミちゃんは心から安心した顔をして、その日はよく眠った。
事件は翌日、私が父と相談して作った「調査結果」を読んであげているときに起こった。
狼狽する父から私を守るようにキミちゃんは体を乗り出して叫んでいる。
歯が抜け、耳も悪いキミちゃんは滑舌がわるい。昔は矍鑠としていてマンションの管理組合の会長にもなったことがあるくらいなのに、ボケてから声量がなくなり、音もあいまいになっている。だからなにを言っているのか私たちにはわからないのだった。
キミちゃんの、こしのないふわふわとした白髪がつむじで逆だっている。皮膚とシワの中に隠れている目をいっぱいにひらいて、キミちゃんはダメとまた言った。小さな子どもが泣いてるみたいな声だった。あんたは。喉の奥をガラガラとならしてキミちゃんは必死に叫んでいる。あんた、ぶつんでしょう。あんな。小さな子をぶったりして。だからあんなことに。お父さんなんか嫌い、大嫌い、エミちゃんじゃなくてあんたが死ねばよかったんだ。
「お母さん」
父の声にキミちゃんはひゅうと息をすった。いつのまにか目のキワがてらてらとひかって涙が乾いた皮膚に染み込んでいる。どくどくと皮膚の上で心臓が鳴っている。だというのにキミちゃんから体温はあまりかんじられなかった。無理に腕を振り払おうとしたら、たぶんきっとぽっきりと体が半分に折れてしまう。そんな感じがする。
父はもう一度「お母さん」と言った。俺だよ。カズアキだよ。
キミちゃんはしゃっくりをした。しゃっくりと同時に表情がまたぼやけた。父はゆっくりと息を吸って、吐いている。でも手は震え、顔から血の気が引いている。狼狽している父をみるのは久しぶりだ。
キミちゃんは小さな声でうめいた。そして背中を丸め、おしっこしちゃった、と私にだけ聞こえる小さな声で言った。
父は粗相をするようになってしまったら家で面倒を見るのは無理だと言った。母は訪問介護を推しているようだ。まだ食事は自分でできるし、今日はうっかり粗相をしてしまったが、普段は一人で用を足している。特養ホームに入るには介護認定が足りないし老人ホームになると費用が――ということらしい。父がもう限界だとうめいて長い話し合いが途切れるたびに、キミちゃんが大音量で流しているテレビの音が聞こえた。
キミちゃんはあの事件以来、父のことを「父」だと認識するようになったらしい。別人がいると怯えることはなく、しかも優しい「父」がいると安心しているようだった。優しい「父」はキミちゃんのことをぶったりしない。ときどきお菓子もくれるし、風邪をひくと心配してくれる。足が長くて男前の、日本一のお父さんだ、とキミちゃんは言った。キミちゃんの世界にはもう怖いものはなにもないらしかった。キミちゃんは毎日よく眠り、そしてある朝、深い眠りから戻ってこれなくなった。
後日、相続の手続きのために父がキミちゃんの除籍謄本を取り寄せたので、キミちゃんには恵美子という名前の妹がいたことがわかった。だが、彼女はたった三歳で亡くなったようだ。死亡日は昭和二十年三月十日、死亡地は東京都本所区。日時と場所からいって東京大空襲が原因だろう。キミちゃんがあの日なにを思い出したのか、もう二度とつきとめることはできないのだ。
藤城孝輔 投稿者 | 2017-12-16 14:39
信頼できない語り手を用いた前半の語りが冴えている。パラノイア小説として楽しく読めた。前半に比べると後半がやや説明的な印象を受けるので、後半の語りにももう一工夫欲しい。
最後から2番目の段落の「父のことを『父』だと……」のくだりは、よく意味が分からなかった。
九芽 英 投稿者 | 2017-12-19 03:23
藤城さんのコメントと同様に、僕も最後の「父」が気になりました。これはお婆さんが作り出した、実物とは異なる理想の「父」という読み方で良いのでしょうか。「父」と「妹」にトラウマを抱えたお婆さんが完全に壊れてしまった結果、理想の「父」を手に入れ幸福な最期を迎える。それがこの作品における事件の解決となるのでしょうか。だとすればとても残酷な結末であるなぁと、思いました。
一家庭の小さな事件を題材にした事は意外性があり、謎の設定も秀逸で、結末も残酷無慈悲。ただ、テーマが特殊であるためなのか、読んでいてあまり共感は出来ず、結果的に伝わるものが少ないように感じました。
Juan.B 編集者 | 2017-12-21 00:56
「私」の視点と、ボケているとされる婆さんの視点の違いが、とても効果的だった。お婆さんが「お姉さん」になっている時の感覚を後から読み返すと、とても悲しくなりそうだが、これで良いのだと思う。
高橋文樹 編集長 | 2017-12-21 11:48
父が入れ替わるというホラーめいた独特な設定、姉妹という魅力的なバディのでてくる冒頭部は瞠目したが、割と早い段階で解決編に入ってしまったのが残念だった。
母-息子の関係が父-娘の関係に逆転した理由がよくわからず、また、きみちゃんの死んだ妹と「私」の関係も繋がりがあるかなきかのごとく掴みづらい。ただ、なにか意味ありげな符牒ではあるので、構造分析好きな人は好きかもしれない。
私個人としては、「やっぱりほんとに別人だった!」というオチを期待したい。