三日前。
私は青春時代を過ごした東京へと、所用も有り旅をし、素敵な仲間達と交歓をもし、疎開地へと帰って来た。
滞在の最終日。羽田空港へフライトに向かう四時間前、私は負傷した。或る公園内の、ドブ川で転び、右肩を強打した訳なのであるが、そこの詳細に関しては、その時、一緒に居た親友が「多忙にていずれになるが、自身の方に書かせろ、愉快に描く」と述べた故、ここでは省き、所謂、前倒しにして今回、私が語るのは、それからの後日譚エセーである。ただ、一つだけ、そこを書く権利を譲った親友に伝えるとすれば『あれは、名誉の負傷だった』なる牽制と、自身の作品にはならぬが宣伝もして置こう。
どんなに怪我をしても、帰る飛行機は待って呉れない。私は肩を右肩を庇いながら、搭乗口に歩んだ。やがて着き「三日くらい待たされたのか?」なる待機時間を味わい、私は機内へ誘導された。
中は混雑していた。鮨詰めの席に座らされた。まあ実際、怪我の痛みは、待合室にて呑んだ、アルコールで麻痺させていた故、堪えられなくは感じなかったが、何しろ四時間前にドブ川へ落ち、シャワーを浴びる余裕がなかった有り様なのである。汚れた臭いに、周囲は唖然としていた。私が痛みに我慢が出来るか? の問題では非ず、乗客は刺すような眼で以て私を凝視した。もう、寝たフリをするしか策略はなかった。「諫言をしようとすると、狸寝入りをキメるプロだね」と、妻からも逆に感嘆の呟きを貰う、自身のスキルを駆使したのであった。
現在、右肩が痛む故、早くもハナシを纏めに入る。
どうにか深夜、妻が待つ、部屋へと辿り着いた。彼女は朗らかに「おかえり」と、台詞を吐いた。呑めば一切、食事をしない、愉しい仲間と東京で逢えば連日の酒宴を、どうせ相手に迷惑されてもやって呑み、疲れて帰宅するのだろう、食べていないだろうから胃に負担を掛けぬよう、麺類が良いだろう。それを見抜いていた彼女は、饂飩を用意していた。私は「うむ」と応じて、喰らおうとした。
然し、述べたように、その時、アルコールで痛みを誤魔化していても、実際の現実問題として、右肩はあがらない。要は、寝巻きへ着替える為、服を脱ごうとしても、無理であった。「怪我をした」と伝えていなかった妻は、慌てた、そうしてやがて憤怒した。
「何故、そうなった? それを言わなかった?」私は答え、話した。ワザと、面白ろ可笑しくして、だ。
「怪我をした、理由は判った。貴方の美学でもあるので、そこは問わない。ただ、今から緊急で病院へ行こう。ほら、鎖骨がどう見てもズレている」
私服を脱がせ裸にさせ、怪我の部位を確認した妻は、云った。それでも、アルコールでハイになっていた私は、相撲力士のような、鬼の形相をして返答した。
「だまらっしゃい! クズみたいな俺でも、自分の身体の事だから、大丈夫だから堪えている。そうして、私は明日、お手伝いをしている友人の店へ労務をしに、必ず行かねばならない。万一、万が一だよ、病院に運ばれ大袈裟になったら、マズイじゃないか! 所謂、自分より他人の為に。義侠心がある」 妻は怒りを抑えつつ「好きにしろ」と述べ、三階の寝室に上がった。私は「ふふん」と聞こえるように連呼し最早、冷めた饂飩を左手でスプーンを使い、味わった。
翌朝。
二階の部屋で寝ていた私に、アルコールが抜けたのだろう、激痛が訪れた。
足と左肩だけ使い、三階へ上がり妻に「ヘルプ」と述べた。妻は四分くらい、私を説教し、病院に連れて行くと、応じた。
おんぶにだっこの態で、到着した病院での診断は『一カ月半、絶対安静。リハビリをして三ヶ月で完治』なる診断であった。入院も勧められたが、そこは断り、部屋に戻った。妻は、たった一言、いや二言だ。「一カ月は寝ていろ。その後の事は相談だ」と軽くだが、右肩の部分をつねった。手伝いをしている労務先の後輩でもあるオーナーは、事情を説明する受話器の向こう側で「仕方ないですね、気にしないで下さい。代わりはどうにか……」なる台詞を吐きながらも、諸々が混じった気持ちを隠しきれなかったのだろう、明らかに声が振るえていた。
左手で、この雑文をスマホで打ちながら、私は己の、今まで、そうして、これからの人生を、思う。百万のフレーズが降りて来ているが、それは敢えて、饒舌になる。一つだけ云うならば「私は、なんの後悔も、それでもしない。愉しんだし、それが人生だ。これからもあらば」だけで、あった。また、逢おう。
今回も無論、即興で推敲なぞしないし、文章リズムはダラダラでも気にしない。アディオス!
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