染色の刻は、夜半に訪れた。
海鳴りは風の息のやうに低く唸り、満ち潮の飛沫が小屋の羽目板を濡らす中、青玄は生成りの麻布を三尺ばかり切り揃へ、水槽に浸して固く絞つた。糊気を抜き、繊維の奥まで潮気を湿らせたる布は、青玄の指先の下で、死人の皮膚の如く冷たく撓んだ。
三番目の大甕の底では、なおも藍の華が、湿りたる呼吸を刻み続けてゐる。
「千鶴、布の端を取れ」
青玄が命ずると、千鶴は無言のまま歩み寄り、麻布の両端を細き指で挟み持つた。その瞳は灰色の闇を凝視したまま、瞬き一つせぬ。
青玄は布の中央を両手で押し抱き、盛り上がる黒青色の泡を押し分けるやうにして、液の深みへと沈め入れた。
ずぶり、と。
液は冷たからず、熱からず、生きたる獣の臓腑にも似た、生温かき抵抗をもつて布を呑み込んだ。
藍の液の中にあつては、布はいまだ青くはならぬ。
通常の藍建てに同じく、甕の底にあつて風に触れざる間、液は黄緑色を呈し、布もまた、泥に塗れたる海松の色を帯びて沈んでゐるにすぎぬ。青玄は液の中に両腕を肘まで突つ込み、繊維の隙間から気泡を押し出すべく、丹念に布を揉み解した。
その瞬間、青玄の脳裏に、強烈なる顫動が走つた。
液を通じて、流れ込んできたのだ。
あの砂浜で溺死した若者の、最期の水底の感覚が。冷たき海水が喉を焼き、肺を破り、光届かぬ岩礁の暗がりに押し込められたる時の、絶望の冷気。そして、その亡骸を抱きて砂を噛みたる老母の、爪の先から吹き出したる慟哭。それらが、細かなる藍の粒の一つ一つに宿り、青玄の皮膚の毛穴より侵入して、血管を伝ひ、心臓を鷲掴みにする。
「ぐ……」
青玄は奥歯を噛み締め、膝を震はせた。
視線を転ずれば、布の端を握る千鶴の体もまた、小刻みに震へてゐた。
千鶴の眼には色は見えぬ。布を通じて這ひ上がる母子の無念の重みが、千鶴の細き腕を伝ひ、その空つぽの胸の奥底を激しく揺さぶつてゐるのだ。千鶴の白い額に、粒のやうな汗が浮き出た。その汗の雫が、液面へとぽたりと落ちたとき、甕の底で、藍の華が喜悦に身を震はせて、細かな泡を散らした。
「引き上げるぞ」
青玄は声を絞り出し、千鶴とともに布を液中より引き揚げた。
重き雫が甕の縁を打つ。
引き上げられたる布は、いまだ濁りたる黄緑色であつた。腐りかけた草の汁を吸ひたる、浅ましき色である。
青玄は小屋の蔀戸を蹴立てて開け放ち、関の瀬戸より吹き込む夜の潮風に、その濡れたる布を晒した。
風晒しの刻であつた。
空気に触れし瞬間——布の上で、色が動いた。
黄緑色の表面が、風を吸ひ込むやうに、端から急速に変色を始めたのだ。
緑が褪せ、黄が消え、その底から、まるで海底の泥を押し分けて現れ出づる巨鯨の背のやうに、暗き青が湧き上がつてくる。
ただ一度の浸けである。常ならば甕覗にしか染まらぬ。
それが、浅葱を越え、縹を越え、藍を越え、紺を越えて、一瞬の間に褐の底まで——夜の闇よりもなほ深き、吸ひ込まれさうな青へと塗り潰されてゆく。
それは単なる一様な青ではなかつた。布の中央には、老母が胸を掻き毟りし折の指の跡が、赤黒き血の斑紋となつて浮き上がり、若者が海水を呑みたる喉の喘ぎが、白き塩の筋となつて布の目を走つてゐた。
青玄の眼には、その布の表面に、海に沈みし若者の痩せたる面影が、幻となつて立ち現れては消えるのが見えた。
染まつたのだ。
生者の涙を吸ひて息を吹き返した藍が、死者の記憶を、その繊維の奥深くに縫ひ止めたのだ。
「……きれい」
千鶴が、夢見るやうな声で呟いた。
青玄は、はつとして千鶴の顔を見遣つた。
千鶴の灰色の瞳は、濡れたる布をぢつと見つめてゐた。その瞳の縁に、以前よりも明らかに広がりたる青の輪が浮かび上がつてゐる。
「千鶴、色が見えるのか」
「いいえ……色は、分かりませぬ」
千鶴は首を横に振つた。
「けれど、この布からは……光がこぼれてをります。暗いのに、とてもあたたかい光が、わたくしの眼の奥を叩くのでございます」
青玄は濡れたる布を抱きしめた。
布は、氷のやうに冷たかつた。されど、その冷たさの奥底で、若者の命が、確かに熱を発して脈打つてゐた。
翌朝、青玄はその染め上がりたる布を携へ、浜の粗末なる小屋へと向かつた。
昨日、息子を失ひたる老女の住まひである。
小屋の戸口には筵が掛けられ、中からは、生ける屍にも似た老女の荒い息遣ひのみが漏れ聞こえてゐた。身内を失ひたる浦の衆は、触穢を恐れて寄り付かず、老女は冷え切つたる土間に転がり、ただ死の訪れを待つてゐるやうに見えた。
青玄は筵を押し上げ、中に入つた。
「母よ」
呼びかけるも、老女は泥にまみれたる顔を向けやうともせぬ。眼は白濁し、涙を流し尽くしたる目頭は、赤く爛れて乾ききつてゐた。
青玄は無言のまま、膝をつき、抱へてきた哭染の麻布を、老女の痩せさらばへたる肩の上にふはりと掛け渡した。
その瞬間であつた。
老女の体が、雷に打たれたるが如く硬直した。
布が肌に触れた刹那、老女の鼻腔がひくりと動き、次いで、その乾ききつたる唇から、言葉にならぬ掠れた悲鳴が漏れた。
「あ……ああ……」
老女は両手を伸ばし、肩の布を狂ほしく掻き抱いた。顔を布に埋め、貪るやうにその繊維を吸ひ、噛みしめる。
「三吉……! 三吉か、お前なのか……!」
青玄の眼には、布から立ち上る青き気配が、老女の全身を包み込んでゆくのが見えた。
布の繊維に封じ込められたる、溺死した若者の最後の生気——母を呼ぶ声、海の匂ひ、そして母の流したる涙の塩分が、布の目より解き放たれ、老女の肌へと染み入つてゆく。
老女は泣いた。
昨日あれほど枯れ果てて出なかつたはずの涙が、再び堰を切つて溢れ出し、布の青を濡らした。
されど、その涙は、もはや狂乱の涙ではなかつた。
「すまなんだ、冷たかつたらう、怖かつたらう……。母はここにをるぞ、もう離さぬ、離さぬぞ……」
老女は布を我が子の骸のやうに撫で擦り、やがて、その顔に、この世のものとは思へぬ安らかな笑みを浮かべた。
憑き物が落ちたやうな、幼子の眠り。
老女は布を胸に抱きしめたまま、土間の筵の上に横たはり、穏やかな寝息を立て始めた。
青玄は立ち上がり、小屋を出た。
背後で、潮風が筵を揺らしてゐた。
救つたのだ、と青玄は己に言ひ聞かせた。あの老母の胸を八つ裂きにせる地獄の苦痛を、己の藍が、青の布が吸ひ取り、鎮めてやつたのだと。
されど、青玄の右手の人差し指は、冷たく痺れて感覚を失ひつつあつた。爪は紺に沈み、皮膚の下で、青き毒が静かに脈打つてゐた。
その夜を境に、浦の風向きが変はつた。
老女が「死んだ息子の魂を抱きて笑うてゐる」といふ噂は、野火の如く赤間関の浦々へと燃え広がつた。
壇ノ浦の潮流に親を呑まれた者、蒙古の軍役に駆り出されて骸すら戻らぬ夫を待つ妻、飢ゑと疫病に幼き子を奪はれた母。この過酷なる乱世にあつて、魂を千々に引き裂かれたる者どもが、夜の闇に紛れて、青玄の染物小屋へと引きも切らず押し寄せるやうになつたのである。
「青玄どの、この壺の涙を吸うて下され! 去年の冬に死んだ娘の、最期の着物から絞り取つた涙ぢや!」
「わしを染めてくれ! 海に沈んだ兄貴の声を、もう一度だけ聞かせてくれ!」
人々は素焼きの壺を抱へ、あるいは濡れたる手拭いを握り締め、青玄の小屋の板戸を叩いた。
彼らは青玄の足元に平伏し、砂浜に額を打ち付けて血を流しながら、己の悲哀を買い取つてくれと乞ひ願ふ。
青玄は拒まなかつた。
拒むどころか、飢ゑたる獣の如く、それらの涙を貪り受け入れた。
二番目の甕に、疫病で死にたる赤子の母の涙を注ぐ。
四番目の甕に、戦場で討ち取られたる若武者の妻の黒髪と悔恨の汁を投じる。
五番目の甕に、海難で果てたる老漁師の遺品の塩を溶かし込む。
小屋の中は、夜毎に地獄の様相を呈した。五つの大甕が、それぞれ異なる死者の無念を喰らひて発酵を極め、煮えくり返る音を響かせ、小屋の空気は、塩と血と涙の濃厚なる発酵臭で満たされた。
千鶴は、その狂乱の真ん中にあつて、ただ黙つて布を運び、水を用意し、甕を掻き回す青玄の背中を見つめ続けてゐた。
千鶴の眼の青き輪は、日ごとにその範囲を広げ、いまや瞳の半分を侵食しつつあつた。千鶴の体は、浦人たちの流す涙の冷気を、無言の器となつて受け止め続けてゐたのである。
五つの甕がすべて哭き声を上げ始めた、五月の雨の夜であつた。
小屋の戸が、激しい音を立てて押し開かれた。
暴風雨を背負ひて立ち現れたるは、紅石山阿弥陀寺の住持・宗信であつた。
老僧は濡れそぼりたる墨染の衣の裾を泥に汚し、手にしたる錫杖を土間に突き立てて、青玄を睨み据ゑた。その眼は怒りに見開かれ、錫杖を握る指は、小刻みに震へてゐた。
「青玄! 貴様、何といふ外法を重ねてをるのぢや!」
宗信の怒声が、甕の発酵音を圧して小屋に轟いた。
「浦の者どもが、寺の念仏を捨て、夜毎に貴様の小屋へ群がり、死者の名を呼びて狂乱してをる! 死者の魂を布に縛り付け、現世の執着に縫ひ止めるとは、仏の道に背く大罪! 貴様のしてをることは供養ではない、死者を永劫の迷妄に沈める鬼の所業ぢや!」
青玄は櫂の手を止めず、甕の底を掻き回したまま、冷たく笑つた。
「鬼の所業、と仰るか、宗信どの」
青玄が振り返つたとき、老僧の錫杖の鉄環が、かすかに鳴つた。
青玄の顔は、既に人のそれにあらざる気配を漂はせてゐた。両の白目は紺碧に染まり、額の血管は青黒く浮き上がり、唇は染液の毒に爛れて紫に凍てついてゐた。
「では問ふが、御坊の寺の念仏は、あの飢ゑた母親の涙を止めたか? 極楽浄土とやらの絵図を見せて、海に沈んだ息子が戻つてきたか? 仏は何も返さなんだ。経文はただ空しく風に散り、死者は泥の底で腐るばかりだ。……私は、返してゐるのだ。涙を青に変へ、記憶を布に写し取り、母の腕の中へ、死んだ者を戻してやつてゐるのだ!」
「黙れ!」
宗信は錫杖を振り上げ、甕の縁を打たうとした。
「それは死者ではない! 貴様の藍が作り出したる、生者の狂気の見取り図にすぎぬ! 布はいつか朽ちる、記憶もいつか消える! そのとき、残された者はいかなる地獄を見ねばならぬのか、貴様には分からぬのか!」
青玄は動かなかつた。
錫杖が振り下ろされんとした刹那、宗信の前に、千鶴が身を滑り込ませた。
千鶴は避けなかつた。錫杖の先は、娘の肩口の寸前で止まつた。鉄環が、虚しく鳴つた。
「退きなされ、千鶴!」
宗信が叫ぶも、千鶴は一歩も動かず、青く染まりかけた瞳で老僧を見据へてゐた。
「お坊さま」
千鶴の声は、凪いだ海のやうに静かに響いた。
「わたくしには、お坊さまの袈裟の墨色も、この甕の青も、見えはいたしませぬ。……けれど、分かります。この小屋に来る浦の衆は、帰るとき、みな静かに眠るのでございます。父や兄を奪つたあの暗い海が、この甕の中に入つて、あたたかい布に変はるのでございます。……それを壊すおつもりなら、わたくしを海へ投げ込んでからになさりませ」
「千鶴……お前まで、この男の魔性に呑まれたか……」
宗信は力なく手を緩め、錫杖を引いた。
老僧は小屋の中を見渡した。五つの大甕から立ち昇る、濃密なる青き湯気。その中に揺らめく幾百の死者の影。そして、人であることを捨て去りつつある、青き眼の男女。
「……悔やむなよ、青玄」
宗信は戸口まで後退り、吐き捨てるやうに言つた。
「他人の涙を啜りて建てたる藍は、最後には、染めし者の血と命を喰らひ尽くす。……そのとき、お前は何を以て己を染め上げるのぢや」
宗信は雨の闇の中へと消え去つた。
残された小屋の床で、五つの甕が、嘲笑ふが如く、大きな気泡を一つ弾かせた。
青玄は千鶴の手を取つた。
千鶴の手は冷たかつた。その手のひらには、藍の染料が、汗のやうに滲み出してゐた。
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