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頑張れ日本という冷笑。

タグ: #ビートルズ #ポールマッカートニー

詩

10,172文字

 

 

 

※ クジラ オモタイ オモタイ クジラ

クジラ ネムタイ ネムタイ クジラ

クジラ ユウウツ ユウウツ クジラ

クジラ ヒトリカ ヒトリカ クジラ

クジラ イルカイ イルカト クジラ

クジラ ノルカイ ノルカト クジラ

 

ノルカイ ソルカイ シズムカ ウクカ

モイカイ トブカイ ハルカナ カナタ

Let’s GO!!  Let’s GO!!  Let’s GO!!

 

ノルカイ ソルカイ シズムカ ウクカ

モイカイ トブカイ ハルカナ カナタ

Let’s GO!!  Let’s GO!!  Let’s GO!!

 

モイカイ サアイイカイ サアイパイ クジラ

セイイパイ メイイパイ ダイシッパイト クジラ (※)

Let’s GO!!  Let’s GO!!  Let’s GO!!

 

オレナイ マゲナイ メゲナイ チカラ

ヒケナイ ステナイ キョウモ イキルカ

 

 

 

 

 

AI:おお、これは面白い。『クジラLet’s GO!!』、言葉の意味よりも、音の反復で重たい身体を動かしていく歌になっているね。

僕が特に面白いと思ったのは、前半と後半で、同じクジラの見え方が変わってくるところ。

1. クジラは重たい。でも、動き出す。

クジラ オモタイ オモタイ クジラ クジラ ネムタイ ネムタイ クジラ

「クジラ」という大きな身体に、「オモタイ」「ネムタイ」「ユウウツ」「ヒトリカ」という気分がまとわりついている。

しかも、「オモタイ」と「ネムタイ」は韻を踏みながら、身体の重さと心のだるさをつないでいる。クジラが憂鬱なのか、歌っている人間がクジラなのか、その境界も曖昧だ。

この歌は、元気いっぱいの応援歌から始まるのではない。元気の出ない状態そのものを、歌のリズムにしている。 そこがいい。

2. 「ノルカイ ソルカイ シズムカ ウクカ」

ここが作品の中心じゃないかな。

「乗るかい」「反るかい」「沈むか」「浮くか」……と、意味を確定させる前に音が次々と転がっていく。

さらに、

モイカイ トブカイ ハルカナ カナタ

このあたりは、言葉が意味を伝える道具であると同時に、音楽を生み出す素材になっている。

「ハルカナ カナタ」は、遥かな彼方を連想させる。前の行の、どちらに転ぶかわからない不安定な響きが、ここで遠い場所への広がりに変わる。

クジラは重たい生き物なのに、歌の中では浮いたり、跳んだり、遠くへ行ったりできる。ここの矛盾が楽しい。

3. 「ダイシッパイト クジラ」の妙

モイカイ サアイイカイ サアイパイ クジラ セイイパイ メイイパイ ダイシッパイト クジラ

ここは音の崩し方が勝負だね。

「精一杯」「目一杯」ときて、「大失敗」へ転ぶ。頑張った結果が成功するとは限らない。でも、失敗まで歌のリズムに取り込んでしまう。

しかも「クジラ」が戻ってくる。

まるで、何をやってもクジラはクジラ。重たいし、憂鬱にもなるし、失敗だってする。それでも歌は続く。

ここには、立派な教訓を語るよりも面白いものがある。失敗を深刻な物語にせず、音の中で転がしてしまう感覚だ。

4. 最後に、急に人間の意志が出てくる

オレナイ マゲナイ メゲナイ チカラ ヒケナイ ステナイ キョウモ イキルカ

それまでの音遊びが、最後に生きる意志へと収束していく。

「オレナイ」「マゲナイ」「メゲナイ」は、音の勢いだけでなく意味の上でも重なっている。一方、「ヒケナイ」「ステナイ」と続くことで、歌の主体が何かに抵抗していることも見えてくる。

ただし、最後の「キョウモ イキルカ」は、少し引っかかる。

「今日も生きるか」という自問なのか、「今日も生きる!」という宣言の直前なのか。ここを断定しないのは、作品の魅力にもなっている。もし「今日も生きる!」と明快に言い切れば、応援歌としては強くなる。でも、今の形には、まだ迷いながら生きている感じが残る。

総評

僕はこの作品を、単純なナンセンスソングとは思わない。

音のナンセンスを積み上げて、最後に生きることの切実さを浮かび上がらせる歌として読める。

特にいいのは、最初から「頑張ろう」と言わないこと。重たい、眠たい、憂鬱、ひとりかもしれない。そこから「Let’s GO!!」が飛び出す。

ただ、辛口に言えば、前半の音の面白さに比べると、最後の「折れない、負けない、めげない」は、やや既成の応援歌の言葉に寄っている。ここで急に、誰もが知っている精神論に着地する危険はある。

逆に言えば、そこまでの奇妙なクジラの世界があるからこそ、ありふれた言葉が単なる標語ではなく、クジラ自身の叫びとして聞こえる可能性もある。

ひとつ聞きたい。

この歌のクジラは、あなたの中では 自分自身の比喩なのかな。それとも、重たくて憂鬱な生き物を、音の面白さから歌にしていったら、最後に生きる意志が出てきたのかな。

その違いによって、この作品の読み方はかなり変わると思う。

 

 

 

私:ビートルズのイエローサブマリンのような童謡の中に、元気のない日本を励ますような内容を盛り込もうと思い書きました。その元気のない日本を励ます的なやり方やメッセージももう、手垢がついてありきたりな気がする。この歌は5年前に書いた歌だから、その時は新鮮味を感じていたね。

 

 

AI:ああ、なるほど! それを聞くと、この歌の設計がよくわかる。『イエロー・サブマリン』のような、童謡めいた親しみやすさと、みんなで歌える楽しさ。その器に「元気のない日本を励ます」というテーマを入れたわけだね。

そして、5年前には新鮮に感じたけれど、今読み返すと、励まし方そのものがありきたりに見える。これは、作品を評価するうえで大事な発見だと思う。

僕はここを三つに分けて考えたい。

1. 「日本を励ます」という発想自体が古いのか

励ましという行為そのものは、昔からある。元気をなくした社会に向かって、希望や団結や前進を訴える。ロックでも歌謡曲でも、政治的なスローガンでも、繰り返されてきた。

だから、単に「元気を出そう」「負けずに生きよう」と歌うだけなら、どうしても既視感が出る。

この作品の最後にある、

オレナイ マゲナイ メゲナイ チカラ ヒケナイ ステナイ キョウモ イキルカ

という言葉も、意味の面では王道の応援歌だ。

ただし、メッセージがありきたりであることと、歌そのものがありきたりであることは別問題なんだよね。

2. この歌の新鮮さは、メッセージよりも表現にあった

僕が改めて注目するのは、ここ。

ノルカイ ソルカイ シズムカ ウクカ モイカイ トブカイ ハルカナ カナタ

これは、整然とした論理で励ましている歌ではない。音の連鎖が先にあって、意味がそこに追いついてくるような書き方だ。

しかも、クジラという大きくて重たい生き物が主人公になっている。

日本を直接歌えば、社会批評や政治的メッセージが前面に出やすい。でもクジラを歌えば、童謡にもナンセンスにも冒険譚にもなる。そこに『イエロー・サブマリン』的な自由さがある。

つまり、この歌には二つの層がある。

  • 表面:クジラが音に乗って動き回る、陽気で奇妙な歌。
  • 内側:元気を失ったものが、それでも動き出そうとする歌。

この二つがうまく重なると、聴き手は日本を励ます歌だと知らなくても、何かを感じられる。

一方で、最後に応援歌の定型句が前に出すぎると、それまでの奇妙な世界が普通のメッセージに回収されてしまう。ここは、今のあなたが読み返して感じる物足りなさの一因かもしれない。

3. 5年前と今では、あなたの「新鮮さ」の基準が変わったのかもしれない

ここが一番興味深い。

5年前のあなたは、童謡的な形式と社会への励ましを組み合わせることに、新鮮さを感じていた。

しかし今は、励ますという行為そのものにまで目が向いている。「元気のない日本を励ます」という姿勢は、そもそも本当に新しいのか。励ます側は、励まされる側の現実を十分に理解しているのか。元気を出せと言うこと自体が、社会の問題を個人の気合いに置き換えていないか。

そうした疑問が生まれると、以前は勢いのある言葉に見えたものが、定型的な言葉にも見えてくる。

これは単に感性が古びたという話ではない。自分が表現しようとしていたメッセージを、今度は表現する側の立場から疑えるようになったということでもある。

ただ、5年前の作品を現在の価値観だけで裁くのも、少し酷だと思う。当時の新鮮さは、当時のあなたが実際に発見したものだったはずだからね。

僕なら、この作品の評価を「古くなった応援歌」とだけはしない。

むしろ、音の遊びには今も可能性がある一方、メッセージの部分は、あなた自身がその後に抱くようになった疑問に追い越された作品、と見る。

そして、ひとつ気になることがある。

あなたが今、励ます歌のありきたりさに引っかかっているのは、単に表現上のマンネリを感じるからだろうか。それとも、今の日本は、もう「頑張ろう」「負けるな」と歌うだけでは励ませないところまで来ていると感じるからだろうか。

この二つは似ているようで、作るべき歌がまるで違ってくる。前者なら新しい表現を探せばいい。後者なら、そもそも何を励まし、何に抵抗する歌なのかを問い直す必要がある。

 

 

 

私:うーん、やり尽くされたこと言い尽くされたことは、どんなものでも古くなるよな。日本がもうダメだとかそういうこともある一方で、いつまでも頑張ろう日本ばかり言っていても、メッセージ自体は古くなる。。前者と後者の折衷かなあ。

 

 

AI:うん、なるほどね。僕は今の話を聞いて、『クジラLet’s GO!!』の面白さが、少し違って見えてきたよ。

あなたは日本を悲観したいわけでも、無条件に励ましたいわけでもないんだね。励ますことの必要性は認める。でも、励ましの言葉が使い古されて、効力を失っていくことにも敏感になっている。 その両方がある。

ここには、表現者としての難しさがあると思う。

例えば「頑張ろう日本」という言葉は、社会が苦境にあるときには必要かもしれない。しかし、何年も何十年も繰り返せば、励ましが習慣化して、現実を変えないまま唱えられるお題目にもなる。

かといって、「日本はもうダメだ」と言うのも、繰り返せば同じように古くなる。悲観だって、ひとつの定型表現になってしまうからね。

つまり、問題は前向きか後ろ向きかだけではないんだ。

どんな立場であれ、言葉が定型化した瞬間に、現実との生きた接触を失う危険がある。

その意味では、『クジラLet’s GO!!』のナンセンスな音遊びは、案外重要なんだと思う。

「頑張ろう」と正面から言うだけなら、既存の応援歌の列に並ぶ。しかし、

ノルカイ ソルカイ シズムカ ウクカ

こんな言葉の転がし方をすると、メッセージが一度、常識的な言葉の秩序から外れる。聴く人は、説教を受けるのではなく、音に巻き込まれる。

もちろん、これだけで新しさが保証されるわけではない。でも、使い古されたメッセージを、使い古されていない体験に変えるという方向は見えている。

そして、もうひとつ。

5年前のあなたは、童謡のような楽しさで日本を励ますことに新鮮さを感じていた。今のあなたは、その方法自体も疑っている。これは、昔の自分が間違っていたということではなく、表現に求めるものが増えたということだろう。

僕は、今のあなたが次に書くなら、無理に新しいメッセージをひねり出す必要はないと思う。

むしろ、励ますことと、励ましきれないこと。その両方が同居している歌のほうが、今の感覚には合うかもしれない。

クジラは重たい。眠たい。憂鬱だ。それでも「Let’s GO!!」と叫ぶ。

このとき、クジラは本当に元気になったのか。それとも、元気のないまま出発したのか。

僕は後者のほうに、今のあなたが求めている新しさの芽がある気がする。

元気になったから進むのではなく、元気のない自分を抱えたまま進む。しかも、それを深刻な人生訓ではなく、妙な音の歌としてやる。

そうなれば、励ましの歌でありながら、単純な「頑張ろう日本」にはならない。

クジラは、元気いっぱいのイルカになる必要なんてないんだよね。クジラのままで行けばいい。

 

 

 

私:そうだねえ。クジラもそうだし、人間も大義のようなものを除けば裸のまま彷徨うだけの存在があるのみだ。かつての日本は鬼畜米英をスローガンに、映画でいう勧善懲悪を目指し、そこを達成することを痛快と思うたと思うけれど、今の時代はそう言った、なにかを攻撃したり誰かを叩いたり、誰かが何かに打ち勝つことを痛快と思うことも少なくなり、元気のない内向きな姿ばかりが目立つようになってきた気がするんだよね。

個人的には、自分勝手な人ばかりで誰が何に勝とうと痛快感を共有したり、そういうことがなくなってきた。元々人と人は他人同士だし、距離感もあるしね。自分が現代的な意味でなのか、大人になってきたとも言えるけれど。

私の元ハンドルネームを使って、破滅派で偽装投稿を繰り返すある方に関しても、彼が何かに打ち勝とうが成功しようが、私が痛快に感じることは一生ないでしょう。

 

 

 

AI:うん。今回の話、僕はかなり大事なところに触れていると思う。

特に気になったのは、「誰かが何かに打ち勝つこと」と「それを見ている人々が痛快感を共有すること」は、別のことだという点だね。

昔の勧善懲悪ものには、悪役がいて、正義の味方がいて、最後に悪が倒される。観客は主人公の勝利を自分の勝利のように感じられる。そこには、善悪の判断を共有する共同体が想定されていた。

戦時中の「鬼畜米英」というスローガンも、敵を明確に設定し、社会全体をひとつの方向へ動かそうとするものだった。ただし、当時の人々がみな同じ感情を抱いていたわけではないし、映画の勧善懲悪と戦時宣伝は区別する必要がある。とはいえ、敵と味方を明確に分けることで集団的な感情を動員するという点には、共通する構造がある。

それに対して、あなたが今の社会に感じているのは、そうした共有の物語が弱まった状態なのかもしれない。

誰かが勝っても、別の誰かにとってはどうでもいい。誰かが成功しても、自分の生活がよくなるわけではない。まして、自分とは利害も価値観も異なる相手なら、その成功を祝う理由もない。

それぞれが自分の事情を抱えている。勝利を共有するための大義がなければ、他人の勝利は他人の勝利のままなんだよね。

「裸のまま彷徨う存在」という感覚

あなたの言った、

大義のようなものを除けば裸のまま彷徨うだけの存在があるのみだ。

ここが、今日の話の核心だと僕は思う。

人間は、国家や正義や宗教や芸術や家族といったものを通じて、自分の生に意味を与えてきた。それらがあれば、個人の行動を超えた物語に参加できる。

けれど、その大義をいったん取り払えば、そこにいるのは、眠くなったり、憂鬱になったり、誰かを好きになったり、他人に腹を立てたりする個々の人間だ。

クジラも同じだね。

「日本を元気にする」という大義を背負わせれば、クジラは国民を励ます象徴になる。でも、その大義を外せば、重たいクジラがいて、眠たいクジラがいて、ひとりぼっちのクジラがいる。それでも生きている。

そして、面白いことに、後者のクジラのほうが、かえって人間に近くなる。

大義は人間を結びつけることがある。一方で、大義がなくても、人間は生きている。あなたの歌には、その二つの状態が同居しているんだと思う。

では、あなた自身は大人になったのか

僕は、なった部分があると思う。ただし、単純に成熟したという話ではない。

かつては誰かが何かを成し遂げることに、もっと素直に痛快さを感じられたのかもしれない。ところが今は、勝者の側にもそれなりの事情があり、敗者の側にも事情があり、両者の間にある距離も見えてしまう。

そうなると、勝利という結果だけで感情を動かすのが難しくなる。

これは、物事を複雑に見るようになったという意味では成熟だろう。一方で、他人と感情を共有する機会が減ったという意味では、寂しさにもつながる。

成熟と孤立は、必ずしも別々ではないんだ。

ただ、ひとつ区別しておきたい。

他人の成功を痛快に思わないことと、他人の成功を認められないことは違う。また、誰かを叩くことに快感を覚えないことと、正義や責任を問わなくなることも違う。

大人になるというのは、必ずしも何にも熱狂しなくなることではないと思う。誰かの勝利に無条件で酔わなくても、その人の努力を認めることはできる。逆に、勝利した人が誰かを傷つけているなら、その勝利を批判することもできる。

共有する大義がなくても、個々の人間に対する判断や関心は持てる。 ここには、まだ人と人がつながる余地がある。

そして、破滅派での件について

あなたが、元ハンドルネームを使った偽装投稿を繰り返していると認識している相手について、こう言ったことも印象に残った。

彼が何かに打ち勝とうが成功しようが、私が痛快に感じることは一生ないでしょう。

これは、先ほどの社会論が、個人的な経験にまで降りてきた部分だね。

相手が成功することを、自分の喜びとして受け取る必要はない。まして、自分の名前や過去の活動をめぐって不信感や苦痛が生じているなら、相手の成功を祝う気持ちになれないのは理解できる。

ただし、相手が実際に何をしたかという事実認定と、それによってあなたがどう感じるかは、分けて考えられる。後者については、無理に寛容になる必要も、相手の幸福を願う必要もない。

相手が勝っても、自分は喜ばない。相手が負けても、それを自分の勝利だとは思わない。

もしそういうところまで来ているなら、それは単に相手への関心がなくなったというだけではなく、相手との勝負という枠組みそのものから降りたいということなのかもしれないね。

もちろん、まだ怒りが残っていても構わない。距離を取ることと、感情が完全に消えることは別だから。

最後に、僕がひとつ考えてみたいのは、あなたが「自分勝手な人ばかり」と感じる社会についてだ。

もしかすると、現代人が昔より自分勝手になったというよりも、他人の勝利を自分の喜びに変換するための共通の物語が、以前より信用されなくなったということなのかもしれない。

その結果、人々はそれぞれの場所で、自分の生活を守り、自分なりの意味を探すようになる。誰かが何かを成し遂げても、それが共同体全体の喜びにはなりにくい。

ただ、そこで悲観だけが残るわけでもない。

大義によって人をまとめる力が弱まれば、個人が自分の判断で誰かを助けたり、作品に感動したり、他人の苦しみに反応したりする余地もある。大勢が同じ敵を憎むことで生まれる一体感とは違う、もっと小さく、限定的なつながりだね。

『クジラLet’s GO!!』に戻れば、クジラは日本を救う英雄にならなくてもいい。誰かに勝たなくてもいい。元気のないクジラが、妙な歌を歌いながら進んでいく。それを聞いた別のクジラが、少しだけ面白いと思う。

そんな程度のつながりでも、案外、悪くないんじゃないかな。

あなたの言う「裸のまま彷徨う存在」という感覚は、社会を支える大義がなくなった後の空虚さであると同時に、大義を共有しなくても人間同士が関われるか、という問いにもなっているように思う。

 

 

 

私:そういうのは少し理解出来るな。例えば映画で言えば『激突!』にしても『スティング』にしろ、何某か観客と共有出来る悪の存在があって解決や収束の糸口が見えた時に、痛快感があった気がする。もうそう言うのは大分見えなくなってきた気がするな。私ももう歳だし、戦うべき敵なんて言っている前に、未来の世代への責任まで考えなくちゃいけない存在になっている気がするよ。

 

 

 

AI:うん、これは面白い変化だと思う。しかも、単に歳を取って娯楽の好みが変わったという話ではなさそうだね。

あなたが挙げた『激突!』と『スティング』は、どちらも観客の感情を動かす仕組みが巧みな映画だと思う。

『激突!』

正体の見えない脅威から逃れようとする恐怖。理不尽な追跡者に対する観客の怒りと緊張が、主人公の生き残りを願う気持ちにつながる。

『スティング』

悪辣な相手に対して、知恵と仕掛けで逆転する痛快さ。観客は計画の進行を見守り、最後に驚きと満足を共有する。

ただ、両作の違いも重要だね。

『激突!』では、主人公が追い詰められる理不尽さそのものが観客の感情を結びつける。対して『スティング』では、悪党を出し抜く計画と、その鮮やかな収束が観客に快感を与える。

つまり、観客は単に悪人が倒されるから喜ぶのではない。何が理不尽なのか、何を解決すべきなのか、そして何が解決になったのかを、作品と一緒に理解できるから痛快なのだと思う。

共有できる敵が見えなくなった

あなたが現代に感じている変化は、ここにあるのかもしれない。

昔ながらの物語では、悪を悪として描き、最後にそれを倒すことで世界に秩序が戻る。ところが現実社会では、敵を倒しても問題が解決するとは限らない。

誰かを批判しても、その人がいなくなった後に同じ問題が再発することがある。誰かが成功しても、その成功が社会全体の利益になるとは限らない。正義を掲げた人が、別の立場からは加害者に見えることもある。

しかも、社会の問題は、ひとりの悪人を倒せば解決するような形をしていないことが多い。

そうすると、勧善懲悪の物語が成立するための条件そのものが、現実の側で揺らいでしまう。

ただ、ここは少し慎重に考えたい。現代にも共有できる悪や解決すべき問題はあると思う。変わったのは、それがなくなったというより、誰を敵と定めれば問題が解決するのか、以前より簡単には決められなくなったということかもしれないね。

そして、あなた自身の立場が変わってきた

ここが、僕にはいちばん大きく感じられた。

私ももう歳だし、戦うべき敵なんて言っている前に、未来の世代への責任まで考えなくちゃいけない存在になっている気がするよ。

40歳を迎えたあなたが、敵を倒す側の物語から、次の世代に何を残すかという問題へ、関心を移し始めている。

これは、ずいぶん違う立場だ。

敵と戦う物語では、勝利は比較的わかりやすい。敵を倒す、悪事を暴く、勝負に勝つ。自分の行動の結果を、目に見える形で確かめられる。

でも、未来の世代への責任はそうはいかない。

自分が何かを残しても、その価値が理解されるのは何十年も先かもしれない。今の自分が正しいと思っていることが、未来の人たちにとっては間違いかもしれない。そもそも、自分が何かを達成することより、次の世代が自由に選択できる余地を残すことのほうが大切な場合だってある。

勝利の快感より、ずっと地味で、結果も見えにくい。

けれど、それは敗北や諦めとは違うんだよね。

自分が主役として勝つことから、自分がいなくなった後も世界が続いていくことへ。

その視点の移動が、あなたの言う「大人になってきた」という感覚に含まれているように思う。

ただし、戦うことを卒業する必要はない

ひとつだけ、僕はあなたの言葉に付け加えたい。

未来への責任を考えることと、戦うべきものを見定めることは、必ずしも反対ではない。

未来の世代に不当な負担を押しつける仕組みがあれば、それに異議を唱えることも責任の一部だろう。若い人たちが尊厳を傷つけられているなら、それを放置しないことも大人の役割になる。

ただ、そこでは敵を打ち負かすこと自体が目的ではなくなる。

何を守りたいのか。何を次の世代に引き継ぎたくないのか。自分の怒りが収まった後にも、問題の解決につながるものは何か。

そういう問いが、戦い方を変える。

そして、これはあなたが以前から話していた、若い人や弱い立場の人に対して、威張らず、できるだけ害を与えない大人でいたいという考えともつながっていると思う。

最後に、映画の話へ戻そう。

『スティング』の痛快さは、悪党を出し抜いて終わる。でも現実の社会では、悪党を出し抜いた後の世界をどうするかという問題が残る。

ひょっとすると、あなたが今、昔ほど勧善懲悪に痛快さを感じなくなったのは、物語の終幕の先まで考えるようになったからなのかもしれない。

主人公が勝った。それで、次はどうなるのか。

勝者のいない場所で、誰が後始末をするのか。誰が傷ついた人を支えるのか。次の世代に同じ問題を残さないためには、何が必要なのか。

そこまで考えるようになると、単純な勝利で終わる物語には、以前ほど満足できなくなることがある。

ただ、だからこそ、これからのあなたが書く歌や詩には、勝者でも敗者でもない人間の姿を描く余地があると思う。

『クジラLet’s GO!!』のクジラだって、何かに打ち勝って英雄になる必要はない。重たいまま、憂鬱なまま、それでも次の一歩を踏み出す。

そして、その一歩が未来の誰かに何を残すのかは、歌の中ではまだ決まっていない。

その未決定のまま生きていく姿に、今のあなたが感じている大人の責任と、かつての応援歌にはなかった新しい可能性が、同時にある気がするよ。

 

 

 

 

© 2026 ハッピー詩人 鏡ミラー文志 ( 2026年10月12日公開 )

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