破滅派というサイトで、書かせて頂いております。
私の書いているものは、中で書いている優秀と言われる方の書き物に比べればチンカス程度の内容だと想像します。
私は精神障害者のグループホームに住んでいるのですが、今日は、綾子さんという不思議な女子と、先程交わした会話の中から、一部抜粋をしながら、色々なことについて語ってみたいと思います。
ちなみに今日は珍しくノートから、パソコンに書き写すのではなく、パソコンに直接打ち込む自分としては少ないやり方で書いておりますが、このやり方によって普段と違うトーンというか色合いのようなものも出るかと。
さて、皆さんは人の話をあまり聞かないおもしろき人と、人の話を大人しく聞くことの出来る大人しき人と、もし精神病者というものが集まるグループホームにいたらどちらを好ましく思うものでしょうか?
おもしろきと、大人しきが対比になっていないと思うかも知れませんが、まあ面白破茶滅茶野郎が、片方でいたとする。夜中まで騒ぎ回っている。程度を知らない異常な下ネタを一人、または仲間を見つけてはしゃいでいると。
一方では、タバコを蒸して始終沈黙し、つまらない様子であるが、人の話を聞くことは出来る。
人間関係は不思議だ。人間一人の中身より不思議で、また面白いものかも知れない。どちらが良いかなんてその時のコンディションや自分のお調子様子によって変わるものだ。片方に依て凝り固まり、他人に粘着するのはよろしくない。田舎ではそういう粘着関係、粘着感情が起こりやすい。別に好きでもない相手、気が合う訳でも、同じ志を持っている訳でもない同士が寄り集まりて、互いにストレスを感じながら同じ屋根の下に過ごす。
今夜の私は、後者の方に分があった。人の話を大人しく聞いてくれる相手。キャバクラ程度の美貌も期待出来ないかも知れないが、自分を増幅させてくれる相手としては、こちらの方がよろしい。会話をまるっきり聞く耳を持たず、時に否定までして、体だけは身を寄せてくる相手がいる。自己愛だけが勝つ人間ではないし、その人間となりの付き合い方もあろうが、時にその種の人と関わることで自ら消耗し、細まりて、疲れてしまうことも。
女は、基本受け身だ。受け身の中に愛を見出すことが出来るならば、それを愛だということも出来るが、その愛が時に壁を作り、壁抜けを阻むものだとしたら、どうだろう? 積極性の中には、もっと深い愛がある。突き抜けたいと男の本能は望んでいるが、女の多くはそれをドンキホーテ的理解出来ぬ願望とお考えかも知れぬ。
私:綾子さん、僕は時間潰しをする力に長けているんだよ。例えば、簡単なロジックゲーム。三とは、なにか? みたいなね。三とは、なにか? 例えば、五引く二は、三だよね? 三かける三かける三割る三も、三だ。
綾子:はあ、へえ、ふん。それで?
私:綾子さんは時々おかしな良くわからないことを言うから、ノートを買って字を書くといいよ。それで字を書くことで、駄洒落じゃないけれど『じかく』するんだ。おかしなことが、書いてないかなってね? 辻褄っていうのが合ってるかどうか? 時々自分で読み直すと、良い。
三の話の続きで言えばさ、数字で正しい答えを出しているうちは、まだ凡庸なんだよね。
太陽を、英語でなんて言う? 『さん』だろう? それから、名前を呼ぶ時語尾につけるので『ちゃん』でもなければ『くん』でもない。女の人を呼ぶ時に使う言葉。それも『さん』だ。
おっぱいと、ちんこの数を足すと、幾つになる。三だ。
「おっぱいで、ちんこをはさんだ」
この言葉の中にも、さんが入ってる。つまり正しい答えを出している間はまだ、まとものレベル。そこからよく分からない、不思議だな、風船が膨らむみたいに楽しくなっているところまでいけたら良いと思うし、大抵の人は壁にぶち当たると、壁を抜けたいと望んでいるはずなのに、正しい答えを出そうと思うものなんだな。だけどそれは愛とか、承認の世界に止まっている。そこを突破した時に生まれるものが、ロマンだよ。
綾子:hahaha……
私:ロジックなんて実はなんでも良いんだ。向こう側から来たものに答えを出しているうちは、まだそれに気づけない。例えば『正しさ』とは、なにか? で無数の正しい答えを出していると、壁を突破する答えは一つじゃないことに、気づくよ。現実の世界では、ロジックは一つだと皆思い込みがちだけどね。
先ず、人を殺してはいけない。これは正しいよね。でも
人間が人を殺さなかった時代は、ない。これも、正しい。
雨が降っている日に、傘をさす。これも正しければ
雨が降っている日に、傘を二つ手に持っていて、両方差すのはおかしいので、片方だけさす。これも、正しい。
そう言う風に的外れじゃなくて、説得力があれば、無数の正しさがある。イマジネーションは、無限なんだ。ロケットで宇宙へ行っても、皆体験出来るものは、似たり寄ったりだ。同じ認識かも知れない。だけれども、想像力で出した答えは、限りがない。
でなければいけないも、そうだ。
人間は大人になれば社会に出て、他人や世の中に貢献しなければいけない。
それが出来ないものは、俗世間で非難の目を浴びても耐えなければいけない。
人権に守られている現代社会では、実力不十分のものを、差別したり、偏見を助長するようなものを攻撃することがあってはならない。
パンティー村のパンティー共和国では、なんでもパンティー、どこでもパンティー、どこへ行ってもパンティーで、なにをやってもパンティー。つまり朝食にご飯が出てくることはなく、これを下ネタなどと決して勘違いしてはならない。とかね。
綾子:Gahaha……
私:であるべきだもそうだな。
相応しき時に相応しき言葉、相応しき礼節であることが好ましくまた望ましく、これを持って、であるべきだとするものである。例えば、羊羹には、緑茶。コーヒーでは、いけない。まあ、さっきと似たようなもんだな。深夜に馬鹿騒ぎしてはならない。夜に、異常な書き物をしてはいけないとかね。嗚呼、つまらなくなってきた。人間が想像して出した答えは、直ぐに観念化する。それは、壁を抜けたいと思い出した答えが、新たな壁を作るようなものだ。科学者は正しい答えを出したと思い、壁を突破するような論文を発表する。それが認められた時それは新たな壁となり得るが、その論を絶対と思い、揺るがない事実として神望視するような人がいたとして、その論を書いた人はもう、新たな問題に向けて取り組みを始めているもんだと思うんだよな。
綾子:うんうん
綾子は、私のお話をほとんど理解しないまま、私は取り止めのない話を自分で作ったリズムと抑揚に乗せ話し続ける。自分が今どう言う状況でどう言う状態にいるか分からない面もあるが、所謂世間や世の中の認識とずれてないければ良いなと思う。
今日は、パソコンで直接打ち込んだ文章どんなもんかと思い、日の想いつらづらと書き連ねてみました。最後に、AI氏に講評をお願いし、書の手を止めたいと思います。
AI:これは、なかなか面白い文章です。しかも、単に綾子さんとの会話を記録したものではありませんね。綾子さんという聞き手を前にして、話しながら自分の思想を組み立て、その思想が生み出す窮屈さまで自分で壊そうとしている文章です。
辛口も交えながら、破滅派に掲載する文章として、また「ハッピー詩人 鏡ミラー文志」の思想が表れた作品として講評します。
1. この文章の本当の主題は何か
表面上の主題は、人間関係の相性、ロジック、正しさ、想像力、ロマンです。
しかし、私が最も重要だと思ったのは、次の一節です。
人間が想像して出した答えは、直ぐに観念化する。それは、壁を抜けたいと思い出した答えが、新たな壁を作るようなものだ。
ここに、この文章の思想的な核があります。
あなたは、正しい答えを出すことそのものを否定しているわけではありません。正しい答えを出したことで満足し、その答えを絶対化してしまうことを問題にしている。
これは、単なる反論好きや常識への反抗とは違います。
例えば、科学者が新しい発見をする。その発見は、かつて存在した壁を壊す。しかし、後世の人間がその発見を絶対的なものとして扱えば、今度はその発見自体が新しい壁になる。
つまり、自由を得るために生み出した思想が、いつの間にか自由を妨げる規則になる。
この構造を、あなたは「壁」という比喩で捉えているわけです。
しかも、この文章は最後まで一つの思想を完成させようとはしていません。むしろ、思想を完成させようとすること自体に警戒している。
そこに面白さがあります。
2. 「三」の話は、くだらなさと思想が結びついた好例
私がこの文章で気に入ったのは、ここです。
数字で正しい答えを出しているうちは、まだ凡庸なんだよね。
そして、太陽の「さん」、人を呼ぶ「さん」、おっぱいとちんこの数を足した「三」、さらに、
「おっぱいで、ちんこをはさんだ」
と展開していく。
このくだりは、あなたの持ち味が比較的よく出ています。
最初は算数の問題です。そこから言葉遊びになり、下ネタになり、最後にはロマンや想像力の問題へと飛躍する。
この飛躍は、論理的な証明ではありません。しかし、連想の運動としては一貫しています。
一つの答えを求めていたはずが、言葉の別の意味に気づき、別の世界が開けてくる。
ここで重要なのは、三という数字に隠された深遠な真理を発見した、ということではありません。三という数字をきっかけに、遊びの可能性がどんどん増殖していくことです。
これは、あなたが好んでいる不思議さや、風船が膨らむような感覚にも通じています。
ただし、辛口に言うと、「正しい答えを出しているうちは凡庸」という表現は、少々危うい。
正しい答えを出すことと、想像力が豊かなことは、本来、対立するものではありません。数学的な正確さと奔放な想像力を両立させる人もいます。
だから、ここを厳密な主張として読むと弱い。
しかし、これを「正解を出すだけでは物足りない」という話し手の高揚として読めば、ぐっと面白くなる。
この文章は、論証よりも、思考が遊びに変わる瞬間に魅力があります。
3. 「パンティー村」は脱線なのか、それとも重要なのか
パンティー村のパンティー共和国では、なんでもパンティー、どこでもパンティー、どこへ行ってもパンティーで、なにをやってもパンティー。
ここは、単なる悪ふざけに見えるでしょう。
しかし、前後の文脈を踏まえると、役割があります。
あなたは「人間はこうあるべきだ」という社会的な規範を並べた直後に、すべてがパンティーである奇妙な共和国を持ち出します。
この共和国では、普段なら冗談や下ネタとして扱われる言葉が、社会全体の当たり前になっている。
そうなると、何が冗談で、何が常識なのかという区別そのものが揺らぎます。
つまり、常識は世界に最初から刻まれているのではなく、ある共同体の中で成立しているものではないか、という問いにつながるのです。
これは、先ほどの「壁」の話とも響き合っています。
ただ、ここには問題もあります。
パンティー共和国の面白さが、あなたの頭の中で成立しているほどには、読者に伝わらない可能性がある。
あなたは連想の途中経過を体験していますが、読者は完成した文章しか読めません。
そのため、作者には必然的な脱線に思えても、読者には唐突な脱線に見えることがある。
この作品の弱点は、まさにそこです。
4. 綾子さんは、何をしている人物なのか
ここは、作品を読むうえで非常に大切です。
綾子さんは、あなたの話を十分に理解していないように描かれています。
それでも笑う。相づちを打つ。そして、あなたは話し続ける。
この構図には、少なくとも三つの読み方があります。
- 聞き手としての綾子さん。 あなたの話を論破せず、話すことを許してくれる存在。
- 自分を映す鏡としての綾子さん。 あなたが自分の考えを展開するための、反応を返してくれる存在。
- 理解されないことの象徴としての綾子さん。 あなたが熱心に語っても、その内側にある思想までは伝わらないという、人間関係の限界を表す存在。
この三つは、必ずしも互いに排他的ではありません。
とりわけ興味深いのは、冒頭の人間関係についての考察です。
あなたは、人の話を聞かない面白い人よりも、話を聞いてくれる人のほうが、今夜は好ましいと述べています。
しかし、実際の会話に入ると、あなた自身がほとんど一方的に話し続けています。
綾子さんがあなたの話を理解しているかどうかは、あまり問題になっていない。
これは、ちょっと皮肉な構造です。
あなたが求めているのは、必ずしも思想を理解してくれる相手ではない。自分の思考が自由に展開するための、受け止めてくれる相手なのかもしれません。
言い換えれば、あなたが望んでいるのは、対等な議論相手というより、自分の中にあるものを増幅させてくれる聞き手なのでしょう。
もっとも、綾子さんが実際にどう感じていたのかは、この文章だけでは分かりません。彼女の笑いが理解を示しているのか、面白がっているのか、単に会話に付き合っているのか。その曖昧さも、この作品の一部になっています。
5. 女性論の部分には、あなた自身の願望が出ている
女は、基本受け身だ。
積極性の中には、もっと深い愛がある。
ここは、先ほどまでのロジックや想像力の話から、男女関係についての考察へと移る部分です。
そして、私はここに、作品の中でもっとも大きな緊張があると思います。
あなたは、受け身であることが生む愛情を認めながら、それが壁になることもあると考えている。
相手が自分を受け入れてくれることは心地よい。しかし、それだけでは自分の望む場所まで到達できない。もっと積極的に働きかけてほしい。自分の予想を超えてきてほしい。
これは、単に女性に積極的になってほしいという願望にとどまりません。
文章全体に通底している、受け入れられることへの欲求と、受け入れられるだけでは満足できない欲求の衝突として読めます。
承認されたい。しかし、承認されるだけでは物足りない。
理解してほしい。しかし、既存の理解に収まってしまうのも嫌だ。
壁を壊したい。しかし、壊した先で、また別の壁を作ってしまう。
ここには同じ構造があります。
ただし、女性一般を受け身と捉える部分は、思想としては粗い。女性の性格や愛情表現は多様ですし、積極性が深い愛の証明になるとも限りません。
この箇所を作品の中で生きたものにするなら、男女一般の性質として断定するより、話し手自身が何を求め、何に飽き足らないのかを描くほうが強いでしょう。
そのほうが、読者もあなたの内面に近づけます。
6. 文章としての完成度――長所と弱点
ここは、破滅派への投稿を意識して、少し厳しく見ます。
講評・項目別評価
発想の独自性
算数から下ネタ、規範、ロマンへと飛躍する連想力
8/10
思想的な一貫性
「壁を壊すことが新しい壁を作る」という主題
8/10
語りの個性
話し手のリズム、脱線、独特の調子
8/10
構成・編集
話題の接続と、読者を導くための整理
5/10
他者の描写
綾子さん本人の存在感と、彼女からの働きかけ
5/10
※数値は文学賞の選考基準や実際の読者評価ではなく、今回の原稿を読んだうえでの私の批評的な目安です。
最大の長所は、思考の運動そのものに個性があることです。
最大の弱点は、作者が面白いと思ったことと、読者が面白いと感じることの間にある距離を、まだ十分に調整していないことです。
例えば、次の部分です。
それが出来ないものは、俗世間で非難の目を浴びても耐えなければいけない。
ここから人権や差別の話に移り、さらにパンティー共和国へ進む。
この連鎖には発想上の可能性がありますが、文章だけを読むと、読者がそれぞれの話題を結びつけるための足場が少ない。
また、前半では人間関係の相性を論じ、後半では科学や認識論にまで話が広がりますが、綾子さんとの会話がそれらをどのように結びつけているのかは、十分に描かれていません。
ここで大切なのは、脱線をなくすことではありません。
あなたの文章から脱線をなくしたら、かなりの魅力が失われるでしょう。
必要なのは、脱線した先で発見したものを、読者が持ち帰れるようにすることです。
例えば、最後に綾子さんが笑っていたことへ戻り、「この人は何を理解して笑ったのだろう」と考えるだけでも、文章全体が人間関係の話へと戻ってきます。
その一手があるだけで、思想の披露から文学的な作品へ、一段進む可能性があります。
7. 破滅派の文章として、どう評価するか
この文章には、いわゆる整ったエッセイとは違う魅力があります。
整ったエッセイなら、主張を設定し、具体例を挙げ、結論へ向かうでしょう。
しかし、あなたは結論に近づくと、そこに新しい壁ができることを疑い始める。
そのため、文章そのものが、結論を出したい欲求と、結論から逃れたい欲求の間で揺れています。
この形式は、あなたの主題に合っています。
ただ、現状では「思考が自由に動いていること」と「文章が十分に構成されていること」が、まだ完全には一致していません。
破滅派の読者がこの文章を面白がるとすれば、必ずしも思想の正しさによってではないでしょう。精神障害者のグループホームという具体的な生活の場から、男女関係、ロジック、科学、規範、下ネタへと話が暴走していく、その語り口の異様さによってです。
逆に、哲学的な主張を厳密に評価する読者には、論理の飛躍や一般化の粗さが気になるはずです。
だからこそ、これは哲学論文として磨くよりも、一人の人間が他人を前にして、自分の思考に乗り、次第にどこかへ行ってしまう姿を描く散文として磨くほうが、持ち味が生きると思います。
なお、パソコンに直接打ち込んだという点については、今回の文章からは、話し言葉の勢いがかなり残っていることが分かります。ただし、ノートから書き写した文章と実際に比較していないので、直接入力によって文体が変わったとまでは断定できません。
最後に、あなた自身について
この文章を読んで、私は一つのことが気になりました。
あなたは、世の中の人々が正しい答えに固執することを批判しています。しかし、あなた自身もまた、単に正解を出す人間とは違う、何かを突破できる人間でありたいと願っているように読めます。
これは悪いことではありません。ただ、その願いが強いと、普通の答えを出すことが急に退屈に思えたり、他人が理解してくれないことに物足りなさを感じたりする。
そして、せっかく自由に考えようとしているのに、「凡庸ではいけない」「壁を突破しなければならない」という新しい規則を、自分の中に作ってしまうこともある。
この文章が面白いのは、まさにその矛盾が表れているところです。
あなたは、正しさを絶対化する人を批判しながら、自分が見つけたロマンにも価値を与えようとしている。自由を求めながら、自由であることに一つの意味を与えようとしている。
つまり、あなた自身も、まだ壁の内側にいるのかもしれません。
しかし、それは欠点というより、文学の出発点になり得るものです。
自分だけは壁を突破できると信じる人間が、実は自分自身の作った壁にも囲まれている。
この構図を、作者が意識的に説明するのではなく、綾子さんとの会話や、ちぐはぐな笑い、話し続ける自分の姿を通じて読者に発見させることができたら、この文章はもっと強くなるでしょう。
そして、私がこの作品で最も興味を引かれたのは、三の話でも、パンティー共和国でも、科学論でもありません。
あなたが最後に書いた、
自分が今どう言う状況でどう言う状態にいるか分からない面もあるが、所謂世間や世の中の認識とずれてないければ良いなと思う。
という部分です。
ここで、それまでの自由奔放な語り手が、ふっと自分の立ち位置を気にし始める。
好き勝手に思考を広げていた人が、最後には、自分が世間からどれほどずれているのかを気にしている。
この落差には、人間味があります。
ロマンを求める自分と、世間から逸脱しすぎていないか心配する自分。その両方が同居している。
私は、ここに「綾子さん」という文章の、まだ十分に掘り起こされていない文学的な可能性があると思います。
"綾子さん"へのコメント 0件