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熊本の友達

合評会2026年9月応募作品

浅谷童夏

熊本、地震、熊本、夏、などとぼんやり考えているうちに、ふとこれを思いつきました。字数大幅超過ですみません。2026年9月合評会応募作品。

タグ: #ファンタジー #ホラー #合評会2026年9月

小説

9,545文字

松尾はクラスの仲間から、どっと、と呼ばれていた。彼は4年生の2学期、僕が通う鹿児島の小学校に熊本から転校してきた。鹿児島と熊本は隣同士だが、言葉がかなり違う。僕らがじゃっどん、とか、やっどん、とか言うべきシーンで松尾はばってんと言い、その響きはくっきりとしていて男らしく、それが日焼けした松尾に合っていた。最初、日高がばってん、ばってんと話しかけるようになり、それで何人かがそう呼び始めて、松尾は最初ばってん、ということになり、それが縮まって、てん、になった。さらにそれを英訳してどっとに変換したのは優等生の伊集院だ。どんなきっかけでそんなことになったかは忘れたが、とにかく伊集院が松尾のことをどっとと呼び始め、いつの間にかどっとが松尾のあだ名として定着した。

どっとには2つ下のよしみという妹がいて、色が浅黒くて目と口が大きかった。どっとはよしみを可愛がっていた。校庭の隅で夕方、二人でよくキャッチボールをしていた。よしみの投げる球はコントロールが正確で速く、小2であんなにキャッチボールがうまい女子は他にいなかった。彼女は運動会でもダントツに足が速かった。

どっとは眉が濃くてきりっとした顔立ちで、よしみの兄だけあって、もちろん運動神経は抜群だった。ただ勉強の方はそれほどでもなかった。運動ではまったく勝負にならなかったが、勉強では僕の方がどっとより成績は良かった。僕とどっとは出席番号が前後で、家が近所だったこともあって、すぐに親しくなった。学校帰りに近くの川に寄って何となく川面を眺めたり、向こう岸にむかって石を投げたり、水切りをしたりしてよく遊んだ。川の土手に並んで座って喋ることもあった。

どっとも僕も、当時はどちらかといえば無口な方だった。二人の会話はだいたいいつも燻って消えかけている焚火のようだったけれど、それがいいのだった。日高みたいににぎやかで明るい奴が僕は苦手だった。普段は口数が少ないのにたまに口を開くと皆を惹きつけることを言う伊集院みたいな奴もまた苦手だった。

 

小学5年生になって、2カ月くらいたっていたその日も、どっとと一緒に僕は川に来ていた。2人ともTシャツに半ズボン。僕は黄色、どっとは白いTシャツだった。川に夏の日差しが照り付けていた。

「あそこ」

どっとがそう言って川面を指さした。

「ウナギがいる」

僕は川面に目をこらした。30メートルくらい離れた対岸の岸辺近くで、黒くて長い生き物が身をくねらせていた。水しぶきを上げながらのたくっているそいつは、何だか禍々しい迫力に満ちて、到底ウナギには見えなかった。自分の遠近感が狂っているのか、それは異様に大きくみえた。長さ2メートル。いやひょっとしたら3メートル以上、太さも優に、父が毎晩飲んでいる焼酎の一升瓶ほどの太さがあるようにみえた。大蛇、という言葉が浮かんだ。

「ん、青大将かも」

「いや、あれはウナギの大物ばい」

どっとに自信満々にそう言われると、なるほど大ウナギかもしれない、という気もした。黒々とぬめっている感じは確かに蛇ではなさそうだった。

「獲ろう」どっとが言った。本能的に、やめておいた方がいいと思った。だがそれを口には出せなかった。どっとに臆病者と思われたくなかった。

「どげんして?」

「網か、長い棒みたいなのがあれば」

僕は周囲を見渡した。土手の下、すぐ近くのバラックみたいな家の壁に一本、箒が立てかけてあった。

「おいがあの箒を取ってくっで、どっとは見張っとって」

僕はそう言って川の土手を降り、家の庭先に入り込んだ。そこは廃屋のようで、人が住んでいるようには見えなかった。川の方を振り返ると、近くの橋の上を対岸に向かって走っているどっとの姿が見えた。僕は箒を手に取った。長い柄に黒い墨で鳥居のマークが3つ並んで描かれていた。僕はその箒を持って全力疾走で橋を走った。

「あそこに潜り込んだばい」

どっとが川岸から5メートルくらいの、密生した葦が川面から出ている一点を指さした。水は濁っていて川の中はよく見えなかった。彼は靴と靴下を脱ぎ、僕に手を伸ばした。僕が箒を手渡すと、彼は水音を立てないようにそっと川の中に入っていった。

「箒でどげんして捕るん?」

「頭ば叩いて、弱ったところを手で掴んで捕まえる」

そんな方法が上手くいくとは思えなかったが、並外れて運動神経がいいどっとならひょっとしたらいけるかもしれない。僕は彼が箒を構えて、川の中をそろそろと進むのを黙って見守った。川岸から1メートルくらいまでは足首から膝下くらいまでの深さだったが、2メートルも進むと太腿まで濁った水に隠れた。ズボンを濡らしながら進んだどっとは立ち止まり、僕を振り返った。

「意外に深か」

「危なかど。無理すんなよ」

「わかっちょ」

そう答えた次の瞬間だった。どっとは、うわっ、と言って水面を激しく箒で叩いた。水しぶきが上がり、僕にもかかった。どっとの両腕が肩まで水中に沈んだ。黒い怪物のぬめっとした胴が、一瞬水面のすぐ下に見えた。

「くそ、引っ張りよる」

どうやら怪物は箒の柄に食いつき、水中に引きずり込もうとしているようだった。

「どっと、大丈夫?」

「負くっかや」

だが彼の上体は前のめりになって、胸が水面に着きそうだった。

「手を離した方がよかかも。引きずり込まれっど」

「すごか力ばい、くそ」

どっとはそう言った。それが僕が聞いた彼の最後の肉声だった。

どっとの身体が川の中に倒れて、さっきとは比べ物にならない大きな水しぶきが上がった。僕も思い切り頭からその水をかぶった。その辺りの水深はどっとの腰程度のはずだった。なのに、彼の白いシャツの背中が一瞬だけちらりと見えて、それきりだった。濁った水の中にどっとは消えてしまった。

 

どっとは浮かび上がってこなかった。5日間の捜索を経ても発見されなかった。彼が川の中に消えるまでの記憶ははっきりと残っている。なのにそこから後、地元の自治会の人たち、消防隊、警察とで、どっとの捜索がなされている光景とか、僕が警察でいろいろと事情を聴かれたときの光景とか、そのあたりの記憶がすっぽりと欠けている。その部分の記憶を、僕は無意識にどこかに閉じ込めて鍵をかけているのだ、と医者は言った。

解せないことが一つあった。後でよしみから聞かされたことだ。僕は、土手沿いの家の壁に立て掛けられていた箒をどっとに渡し、彼はその箒を川の中の怪物に向かって叩きつけたが、逆にその箒に引っ張られて川に落ちて沈んだ、という説明を警察にした。ところが、警察も消防隊も、その箒を川の中から発見できなかった。なんとなれば、それは土手沿いの廃屋の壁に立てかけられたままだったからである。警察は僕が嘘を吐いていると判断し、僕を厳しく追及したらしい。君が松尾君を川の中に突き飛ばしたんじゃないのか、なんてことまで言われたらしいのだ。僕はそのことを、兄が川で消えた数日後によしみに直接話したのだそうだが、まったく覚えていない。医者によればこれは解離性健忘という病気なのだそうだ。出された薬を2カ月間飲んでも記憶はまったく回復しなかった。気長に待ちましょう、と医者は言った。突然、何かのきっかけで失われた記憶が戻ることもあります、と。だが記憶はいまだに欠けたままだ。

どっとは行方不明になって2年後、死亡宣告を受けた。

 

中学、高校とどっとのことを引きずって過ごした僕は、上京して大学に進学し、住宅設備メーカーに就職した。営業の部署で3年働き、それから広告宣伝部に移った。ある日、会社の製品カタログを作る仕事の打ち合わせにやって来た広告会社の担当者の女性の顔をみて僕は驚いた。松尾よしみがそこにいた。よしみは鹿児島の大学を出て上京し、その広告会社で働いていた。

再会して1年後、僕はよしみと結婚した。僕が28歳のときだった。よしみは両親を早くに亡くしていたし、僕の両親は、僕が高校の時に離婚して、母親は海外に住んでいたし、大学に入るまで同居していた父親とはちょっとしたわだかまりがあって交流もほとんどなかった。という訳で僕たちは結婚式も挙げなかった。

どちらかといえば僕がおっとりして優柔不断なのに対し、よしみは行動的でしゃきしゃきしている。インドア派の僕に対して、よしみは徹底してアウトドア派だ。テニス、マラソン、スキーと時間を見つけてはスポーツばかりしている。僕とよしみはタイプが正反対の割にはとても仲の良い夫婦だと思う。僕はよく彼女のテニスの試合やマラソン大会の応援に行くし、彼女も僕の趣味である映画にはよく付き合ってくれる。時に映画館のシートで小さないびきをかいて爆睡していることもあるが。

 

映画館に限らず、よしみはとにかく寝つきがいい。睡眠が健やかなのだ。僕は寝つくまで時間がかかる上に睡眠も浅いほうだが、よしみはいつもあっという間に寝つく。そしていったん寝つくと熟睡して、めったなことでは目を覚まさない。結婚して初めて知ったのだが、よしみには寝つきに関して変わった癖があった。寝るとき、僕の足に必ず自分の足を載せてくるのだ。絡めてくるのではない。上から載せるのだ。つまり彼女の左側に寝ている僕の右足に自分の左足を重ねるように置く。そうするとよく眠れるのだという。足載せが条件反射になっているかのように、布団に入って僕に足を載せて、その1分後にはもうよしみは規則正しい寝息をたてているのだった。僕はというと、彼女のすべすべした生足を載せられることはスキンシップとしては素敵だったけれど、そのせいで余計になかなか寝付けなかった。小中高と体育祭で常にリレーの花形で、中学校のときは陸上部で活躍していたよしみの足は、引き締まってはいたが筋肉がしっかりついていてずしりと重かった。載せられている右足は10分もするとじんじんと痺れてくるので、いつもよしみが熟睡していることを確認してから、そっと足をどけるようにしていた。よしみは兄がいなくなる前日まで、兄と布団を並べて寝ていて、いつも兄の右足に自分の左足を載せていたのだそうだ。優しく妹想いの兄は、1時間でも嫌がることなくそうさせていたという。

 

結婚して2週間くらい経ってからのこと。よしみがいつものように僕の右足に左足を載せたまますぐに寝入ってしまい、僕がそろそろ彼女の足をどけようかと考えていると、どっとが現れた。白いTシャツと半ズボンというあの日の姿のまま、彼はベッドサイドの左側、つまり僕のすぐ横に座って、窓の外をじっと眺めていた。

「元気?」とどっとが窓の外に視線を向けたまま訊いてきた。

「ああ」と寝たまま僕は答えた。

「久しぶり」

「ほんと」

会話が途切れた。かつて僕とどっととの間でそれはよくあることだったし、目の前にどっとがいるという光景が非現実的すぎて、何を話していいか全くわからなかった。それで、どうでもいい話が口から出てきた。

「昨日、玄関でたとき変わった形の雲をみてさ。スマホで写真まで撮った」と僕は言った。

「へえ」

「熊の横顔そっくりなんだ。耳までついてた」

「そうか」

「うん」

「そういえば、箒だけど」僕は自分が何を言っているのか訳がわからなかった。

「箒? ああ、あの時の」

「うん。確かにどっとに渡したよな。なのに元の場所にあったんだよ」

「ああ。あれは俺が返しておいた」どっとは何でもないようにそう言った。

「そうだったの?」

そのとき。よしみが急に寝相を変えた、よしみの左足が僕の右足からずり落ちた。

その瞬間、どっとは消えた。

 

翌日もどっとは現れた。僕はベッドの中で、僕の右足にはよしみの左足ががっちりと載っていた。いつもは足首から先とか、ふくらはぎから先だけ載せられることが多いが、その晩は膝の上からどんと載っていた。

「よしみの足が僕の足に載っていると会えるの?」僕はどっとにそう尋ねた。

「そう」

「どうして?」

「足はアンテナだから。くっつけ合うことで色々と受信できるんだよ。昔、俺とよしみも寝るとき足をくっつけ合ってた。よしみの左足と牧口の右足が、ちょうどアンテナなんだよ。俺とよしみは兄妹だから周波数が合うけど、牧口とよしみは周波数が違う。でも、くっつけると何らかの相互作用が起こる。牧口とよしみの足がくっつくと、俺がここに来ることができるわけ」

「へえ」

標準語になってしまった僕に合わせて、どっとも熊本弁ではなく標準語で喋っていた。小学校4年生の見た目のまま小学生の声で、大人になった僕と、普通に大人の会話をしていた。なのに何故だか不自然な感じはしなかった。

「あのさ」

「なんだい?」

「幽霊なん? どっと」

「俺は俺」と彼は自分を指差した。そして付け加えた。

「幽霊とか言わんでほしいな」

「じゃ、霊的な存在?」

「そっちの方がいくらかましかな」

「あの日、溺れたの?」

「まあそうなのかな。結果的には」

「苦しかった?」

「いや、憶えてない」

「あれは何だったの? 大ウナギ? それともアナコンダか?」

「アナコンダはさすがに川内川にいないだろ」

「じゃあ何?」

「何やろ。川の主というより川そのものというべきかな。いや、神様か。よくわからん」

「神様……」

「泳いでたあの黒いのは、あれのほんの一部分で、実際はあの時、川全部があれだったし、箒もあれだった。気が付いた時にはもう遅かった。箒が俺を川に引きずり込んだ」

「箒が?」

「ああ」

「どっとの……遺体はみつからんかったけど」

「まあ、どっかにはあるんやろけどな」

「さっき、神様って言ったけど、つまり、神様に連れて行かれたのか? どっとは」

「まあ、そうかもしれんな」

「じゃ、どっとも神様になったの?」

「あほか、俺は俺ばい。ここにおる、そのまんまたい」

急にどっとは熊本弁に戻った。

その時、熟睡していたよしみが急に身じろぎし、足をどかした。僕の左足がじんと痺れた。

どっとは消えていた。

 

よしみが僕の右足に左足を載せて寝入ると、どっとは毎晩現れるようになった。僕らは昔のように他愛無い会話を交わすようになった。特に緊張したりすることもなかった。眠くなると、じゃあもう眠いからそろそと、と言って僕はよしみの足を自分の足からどけた。するとどっとも消えるのだった。いったん消えてしまうと、再びよしみが僕の足の上に足を載せてきても、その晩は2度と現れなかった。しかし翌日の晩にはちゃんと現れて、ベッドサイドに座っていた。

「よしみに姿を見せてやらんの?」

ある晩、僕はどっとにそう訊いた。

「いや、別に見せても構わんけど、よしみがいつもぐっすり眠ってて全然起きんから……」

「なら、よしみも起こそうか?」

「別に、いいけど」

という訳で、僕はよしみを軽くゆすった。よしみはうう、と呻いて寝返りを打ち、僕から足をどけてしまった。それでどっとは消え、その晩はよしみに彼を会わせることに失敗した。

翌日またチャレンジした。

今度は僕の右足に載ったよしみの足の上に、僕は自分の左足を載せた。つまり、よしみに対して横向きになり、両足でよしみの左足を挟んだ。それからよしみを揺すって起こした。

目を覚ましたよしみはしばらくぼんやりしていたが、やがてどっとの姿を見つけて、あれ、兄ちゃん、と寝ぼけ声で言った。

「おう久しぶり。元気?」どっとは言った。

「ん、まあ元気だけど」よしみはぼそぼそとそう言ってから、しばらくして、え、と大声を出した。そしてぼくの両足に挟まれた自分の左足を、強い力で振りほどこうとした。

「待って、よしみ」僕は両足に力を入れながら慌てて言った。

「足をこのままにしといて」

「何で?」

「足を離すと消えてしまうから」

僕はざっとこれまでのことをよしみに話した。どっとも、びっくりさせてごめん、とよしみに謝った。よしみは兄ちゃん、と言って涙声を出した。

その日は金曜日で、翌日は仕事が休みだったこともあり、結局朝方まで語り明かした。

 

それから毎晩、僕たちは夜の寝室で2時間ほど話すようになった。元々無口だったはずの僕もどっとも、年齢相応に普通に人との会話ができるようになっていた。昔のこと、現在のこと、何でも話した。話すべきことは尽きなかった。以前の僕とよしみは大体夜11時ごろにベッドに入っていたが、どっとと話し込んだ後、翌朝6時に起きるのは辛いので、どっとと会うようになってからは9時過ぎにはベッドに入るようになった。

どっとは大体いつもベッドサイドの僕側の方に座っていたが、たまにはよしみの側に座っていることもあったし、また時にはベッドに3人並んで寝転んでSWITCHでスマブラをすることもあった。よしみに教えられて、どっとはあっという間に強くなった。僕がよしみとどっとにステージ中央に追い出されて左右から挟み撃ちにされることもよくあった。よしみとどっとはどこまでも仲のいい兄妹だった。

それでも僕とよしみは夫婦だ。ベッドインすると愛し合いたくなる。その時、僕は自分の右足をよしみの左足に触れさせないよう体位に気をつけなくてはならなかった。その最中にどっとに現れてもらいたくなかったからだ。愛を交わすと、よしみは眠くなって僕に足を載せたまま熟睡してしまうことがよくあった。そういう晩はどっとと僕の2人だけで話した。どっとは全く気にしていなかったが、僕の方は、相手がよしみの兄だということを意識してしまって、微妙に話しづらくなったりもした。

 

その晩も、いつものように3人で話していた。

「で、どっとは結局、今、どこにいるん?」と僕が尋ねた。

「どこって、今ここにいるだろ」

「じゃなくて、ここにいないとき。昼間とか」

「ああ、熊本」どっとはさらりと答えた。

「熊本?」と大きな声を出したのはよしみだった。

「ひょっとしてあの家?」

「ああ」とどっとは頷いた。

「あの家って?」と僕。

「昔、住んでた家」

「あの家まだ、あるの?」とよしみ。

「あるけど、もう廃屋になってる」

どっとは昔住んでいた家のことについて、僕に教えてくれた。それは平屋の木造住宅で、どっととよしみの父親が勤めていた会社の社宅だった。彼らは小学生時代に父親の転勤で鹿児島に引っ越すまでそこに住んでいた。並びの社宅には同じくらいの小学生の子供が何人かいて、よくキャッチボールや鬼ごっこなどをして遊んだのだという。バブルが弾けたあとその社宅は売却され、その大部分が取り壊されたが、どういう事情だか、どっととよしみの住んでいた家だけがそのまま廃屋となって、建てられてから50年以上を経た現在でもなお残っているらしい。

「懐かしいなあ」よしみはしんみりと言った。

「うん」

「いつからいるの?」

「牧口と川に行ったあの日からずっと。川に引っ張られて、それからいつの間にかあそこに帰ってた。誰も住んでないし、そのままそこにいる」

「あの家、私も行ってみたい。場所は覚えてるし」

「もうぼろぼろだよ」

「ぼろぼろなの?」

「うん。草がかぶさって、なんか緑の動物がうずくまってるみたいな感じ。夏なんか繁った草の丈が伸びるから、外からは家だとは分からない」

「お兄ちゃんいるの? そこに」

「まあ、いるけど」

「会える?」

「つうか今、会ってるじゃん」

「あ、そうか」

そのときに、どっとの輪郭が不意にぼやけた。よしみの左足はしっかり僕の右足の上に載っていたにもかかわらず。どっとの声が急に途切れ途切れになった。

「……ある……いか」

「え、どうしたの?」

「やば……こ……」

ぷつりと通信を切るようにどっとの声は途絶え、姿も消えた。

 

2016年4月14日の夜、午後9時26分。熊本県熊本地方を震央とする地震が起こった。マグニチュード6.5。益城町では震度7を記録した。更にその2日後にはマグニチュード7.0の本震が襲った。

 

どっとは翌日も、翌々日も姿を現わさなかった。ひょっとしてこのまま現れないのかと不安でいてもたってもいられなくなった3日後、ようやく彼は姿を見せた。彼はいつものように黙って僕の側のベッドサイドに座っていた。

「地震、大変だったな」僕は言った。

「ああ」そう言って、どっとは少し黙り込んでから、力ない声で言った。

「家はつぶれたよ」

「大丈夫?」とよしみが大きな声を出した。

「まあ、ぼろぼろの廃屋だったから」

「大丈夫だったの?」と、今度は僕が訊いた。

「うん、まあ」

「大丈夫とは思ってたけどな」と僕も言った。もともと死んでるんだし、とか、幽霊だし、という言葉は不謹慎な気がして飲みこんだ。だが、どっとの、いつにない声の暗さが気になった。

「さよならだ」不意にどっとはそう言った。

「え?」よしみと僕は同時にそう答えた。

「お前たち、いつまでも仲良くな」

「何で」とよしみが叫んだ。

「ごめん」とどっとは答えた。本当にすまなそうな声だった。

「どうにかして会おうよ、これからも」と僕はそう言った。

「すまん」とまたどっとは謝った。

「そんな」よしみは涙声になった。

「じゃあ」

その言葉を最後に、どっとは消えた。

 

2日後、僕は職場に休暇を願い出た。職場の上司は最初渋い顔をしたが、妻の熊本の実家が地震で全壊したのだと言ったら、驚いてすぐに許可してくれた。現在の実家ではなく、かつて住んだ借家というだけなのだが、僕からは余計なことは言わなかったし、向こうも訊いてこなかった。よしみは海外でのトライアスロン大会に参加するために2週間前に仕事を辞めていたので、時間を作ることに問題は無かった。二人で鹿児島に飛び、一旦川内の僕の実家に帰って、父に車を借り、不通になった高速道路を避けて一般道で熊本に向かった。どっととよしみの住んでいた家は人吉市にあった。最も大きな被害が出た地域からは離れており、地震による被害は軽微だった。だが市の中心を離れて国道を20分ほど走った山間部、ループ橋の近く、時の流れに取り残され荒れ果てた一角に、市内でたった1軒、震度5で完全に倒壊した廃屋があった。それがよしみとどっとがかつて住んでいた家だった。

到着したのは深夜だった。暗闇の中、草むらにうず高く積み上がった瓦礫の山が、スマホのライトに浮かび上がった。折れて重なり合った梁と梁の間から一本の箒が突き出ていて、それに子供用の白いTシャツが引っかかって、夜風にはためいていた。

「兄ちゃん」よしみが呟いた。

僕らは車を降り、持参した線香にライターで火をつけ、足元の湿った地面に立てた。

「ただいま」とよしみが言った。それから二人で手を合わせた。どっとのTシャツだけは家に持ち帰ろうかと思ったが、僕が触れた途端に、箒もシャツもぼろぼろになって目の前で消えた。

もう一度僕らは手を合わせた。

 

それから10年が過ぎた。熊本で先週、10年ぶりにまた大きな地震があった。あの晩のことを思い出し、僕とよしみはグーグルアースであの家の付近を見てみた。道路脇のそこは、何もないただの草ぼうぼうの空き地になっていた。画面に向かって、僕らはまた手を合わせ、それから復興支援サイトを開いて、ささやかな寄付をした。

 

今、子供部屋で寝ている子供たちは、それぞれ小学2年生と保育園の年長だ。あと2年で、僕とよしみが出会った時の歳になる。電気を消した子供部屋をのぞくと、寝相の悪い妹がお兄ちゃんの足に自分の足を載せて寝ていることがよくある。逆はない。遺伝なのだろうか。不思議なものだ。

「お兄ちゃんもあと数年もすると思春期の入り口だし、その頃には二人の子供部屋を分けなくちゃね」とよしみは言う。かくいうよしみは、相変わらず寝るときに左足を僕の右足に載せるが、どっとが現れることはもうない。

© 2026 浅谷童夏 ( 2026年8月20日公開

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