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あなたたち

牧野楠葉

現代詩→掌編、気合いいれて書き直したのでもう一度よろしくお願い致します。

エセー

6,118文字

あなたたち

 

 

「そういう話を、楽しそうにするんだね」

昨日、ジャム用の実のヘタを取りながら、あなたは言った。ヘタの汁で黒くなった、自分の指を見ながら。

六月の雨は朝からビニールを叩いている。ハウスの中は白く煙って、通路の先が見えない。高設ベッドの苺はもう仕舞いで、残っているのは親指の先ほどの実ばかりだ。小さい実は酸っぱいと皆言うけれど、正しくない。小さいまま赤くなった実は、酸っぱさの奥に、季節の最後の甘さを畳んで隠している。市場に出せないだけだ。私はそれを摘んで、ジャムにして、待っている。

あなたに話したのは、一人目と二人目のことだ。私が話した。梅の木。切り返した救急車。雪の日の、軽そうなキャリーケース。頼まれもしないのに、順番に、全部。話し終わったところで、あの台詞だった。

ハウスの横を夏の風が通って、ビニールが一度だけ膨らんだ。楽しそうに聞こえたのなら、たぶん、楽しいのだと思う。死んだ人の話をしているあいだだけ、その人はもう一度うちで働く。風と同じで、どこも傷つけずに通っていく。

そのことを、あなたに分かる形で言う言葉を、私は持っていない。だから、ここに順番に書く。日誌をつける手で書くから、嘘は入らない。

作業日誌は青い表紙の大学ノートで、祖父の代から数えて十四冊目になる。天気と気温と収穫量の欄しかない。だから人間のことは、収穫量の隣に書く。

四月六日、晴れ、最低気温七度、収穫三十一キロ。一人目が来た。

五年前のページだ。

農業求人のサイトに、祖父が死んだ年から同じ文面を出している。住み込み可、未経験可、給料は安い、山しかない。期間はいつでも、いつまででも。応募してくるのは、決まって大都会の男の人だ。電話の最後に、いつから行けばいいですかと訊かれる。いつでもいいのよ、と答える。この文面と、この返事で来る人を、私は採る。面接はしない。

ジャムは土間の竈で炊く。砂糖が溶けきって、噴く直前の鍋は、家じゅうでいちばん重い匂いを出す。木べらを底に当てて、焦げの一歩手前で火を落とす。灰汁は小皿に取って、舐めてから捨てる。酸っぱさの奥の甘さは、煮ても死なない。瓶は大鍋で煮沸して、布巾の上に伏せて乾かす。湯気で土間の窓が曇る。ラベルは私の字だ。字を書く手の、爪のまわりは薄茶色い。ヘタの汁は、石鹸では落ちない。品名、苺ジャム。製造者、私の姓。直売所の棚にひと月並んで、だいたい売り切れる。当番の女の人たちは、瓶を受け取るとき、かならず一度、私の顔を見る。

「また新しい人、来たんやてね」

挨拶のかたちをした点呼だった。うちはこのあたりで、男の人がよく替わる家、として数えられている。数えているのが私だけではない、ということだ。

「ええ人やといいねえ」

ええ人でしたよ、どの人も。そう答えると、当番の人は少し笑って、瓶を棚に並べ直す。それ以上は訊かない。悪意の一歩手前で止まるのが、この土地の礼儀だった。

 

 

一人目は三十四歳で、池袋でウェブの広告を作っていた。背が高くて、少し猫背で、癖のあるやわらかい髪をしていた。白いスニーカーで来て、それは一週間で土の色になった。

四月、一日四本のバスを降りて、停留所から二十五分の坂を、電話もかけずに歩いて上がってきた。玄関先で、リュックを下ろしながら笑った。

「思ったより、遠いですね」

遠いですよ、と私は言った。求人に書いてあります。

軽かった。軽トラの荷台にひょいと乗るし、ヘタ取りの手が速いし、正午のラジオの歌を一日で覚えた。古い歌謡曲ばかりかかる局で、彼は世代でもないのに、二番から先に覚えた。サビは誰でも歌える、二番を歌えるのが職人です、と言った。意味は分からなかったが、ハウスに歌があるのは、悪くなかった。

苺はヘタの側から食べた。先端がいちばん甘いから、最後に甘いのが来るように食べるのだと言った。そういう人だった。

二年目から重くなった。六次産業化。ブランド化。単価。ECサイト。このままじゃもったいないよ。夜、スマホの光を顔に当てて、彼はよその産地の成功例を読み上げた。名刺を勝手に作った。うちの屋号をローマ字にして、下に横文字の肩書きを付けた。補助金の申請書類を取り寄せて、私の印鑑のありかを訊いた。断ると、彼は初めて、もったいない、を私に向けて言った。

もったいない、の意味が、私には最後まで分からなかった。うちにあるのは天気と労働で、それは減らないし、増やすものでもない。夢なら、夢を見る人が都会で見ればいい。ここに持ってこられても、干す場所がない。

ハウスの裏手から山へ、梅と無花果の果実園が続いている。祖父が植えたきり、誰も増やしていない。売るほどは穫れない。

三年目の八月、一人目は果実園のいちばん奥の、梅の木の下で倒れていた。草刈機のエンジンはかかったままだった。救急車は農道で二回切り返して、二回目で脱輪しかけた。心臓だった、と後で聞いた。骨は埼玉の実家が持って帰った。

私物はコンテナ二箱だった。妹さんが軽自動車で取りに来て、玄関で泣いた。上がり框に麦茶を置いたが、口をつけなかった。グラスだけが、汗をかいていた。二箱を後ろの席に積んで、シートベルトを締めて、それから窓を開けた。

「あの」

はい、と私は言った。

「……いえ」

妹さんは、一度だけ私を睨んで、窓を閉めた。軽自動車は農道を、救急車より上手に下りていった。言いかけた続きを、私はいまも知らない。

八月二十日、晴れ、三十五度、収穫なし。一人目が死んだ。

私は泣かなかった。

 

 

二人目は梅田から来た。二十九歳。眉の整った、撮られるための顔をしていた。声が二種類あった。三脚の前で半音上がる声と、畝で腰を叩きながら出す声と。雨の日に、大きなキャリーケースを引いて来た。車輪が砂利で回らなくなって、最後は胸に抱えて坂を上がってきた。

最初の月から、畝の間で自分を撮りはじめた。三脚を立てて、誰もいないほうへ、おはようございます、と挨拶をする。私は最初、誰か来たのかと思って、ハウスの入口まで見にいった。農業男子、というのをやっていたらしい。

フォロワーが三千人を超えたあたりで、彼は苺を先端から食べるようになった。いちばん甘いところを最初に、カメラの前で。

ラジオの歌は、サビだけ覚えた。

一年半いて、二月の雪の日に、東京の会社に決まったからと出て行った。農業のDXをやる会社だと言った。玄関で、彼は手袋をしたまま、キャリーケースの持ち手を二度握り直した。握手は、どちらからも出なかった。ケースは、来たときより軽そうだった。

二月九日、雪、収穫十二キロ。二人目が死んだ。

日誌には嘘を書かない決まりだ。だから、そう書いた。

春に一度だけ、彼の名前を検索した。彼は東京で、元農家、と名乗っていた。動画の中で、うちのハウスが三秒映る。私の手も映っていた。ヘタを取る手。顔は映らない。手だけが、知らない人の数だけ再生されている。

一本だけ、最後まで見た。日誌と違って、あれは、閉じることのできない帳簿だった。書き直しができない代わりに、終わりもない。二人目は死んだのに、スマホの中でまだ、おはようございます、と言っている。

見終わって、私は日誌の二月九日を開いた。二人目が死んだ。

訂正は、しなかった。

十四冊目は、あと十数ページで終わる。十五冊目は、まだ買っていない。

祖父が死んだ日の欄は、私が書いた。十月二日、曇り、収穫なし。祖父が死んだ。帳簿は、書き手の死だけは自分で書けない。いちばん近くにいる手に、その一行を譲る。求人の文面に書かなかった仕事は、それだけだ。

 

 

三人目のあなたは、この春に来た。三十一歳、恵比寿。髪はまだ都会の切り方のまま伸びて、耳にかかりはじめている。夜、縁側で爪を切る。その音で、あなたの一日が終わったことが分かる。まだ軽い。苺は丸ごと口に入れて、ヘタだけあとから指でつまんで出す。器用なのか不精なのか、まだ分からない。ラジオの歌は、覚える気配がない。代わりに鼻歌が多い。知らない歌だった。あなたの歌は、あなたが持ってきたのだ。

昨日の夜、縁側で、昼の熱の残った庭から草いきれが上がってきた。あなたはスマホをこちらに向けた。求人サイトの、うちのページだった。

「これ、まだ出てるよ」

文面は五年前のままだった。住み込み可。未経験可。期間はいつでも、いつまででも。

「俺、もういるのに」

「うん」

「消さないの」

「消したことがない」

あなたは何か言いかけて、やめて、蚊取り線香の煙を手で払った。理由を訊かれたら、答えるつもりだった。訊かれなかった。どちらにとってよかったのかは、考えないことにした。

それから缶ビールを一口で三分の一減らして、あなたは訊いた。

「俺じゃなきゃだめってこと、あるの」

私は蚊取り線香の向きを直してから答えた。

「ない」

「……はっきり言うね」

「あなたがいなくなったら、私は別のあなたを見つけるだけ」

あなたは笑おうとして、頬が途中で止まった。缶を置いた。置いてから、長いこと何も言わなかった。網戸の外で、雨がまた強くなった。特別にした人は、いなくなると穴になる。あなたが特別でなければ、穴は開かない。私はそういうやり方でしか、待つことを続けられない。口では言わなかった。言うと、慰めの形になってしまう。

代わりに、日誌の付け方を教えた。天気、気温、収穫量。人間のことは、収穫量の隣に。あなたは黙って前のページを繰っていった。二人目が死んだ、の行で、指が一度止まった。何も訊かなかった。次のページを繰る音がした。

 

 

今日は終日、雨だった。収穫はない。夕方、雨がいちばん細かくなった時間に、私は上がり框に長靴を二足並べた。

「果実園の奥まで、おいで」

傘は一本で、半分ずつ濡れた。梅の木の下で立ち止まると、青い実の匂いがした。ここで、と言いかけて、やめた。この、と言った。

「この?」

この――。

続きは出てこなかった。虚空とか、呼吸とか、そういう言葉は、口に出すと、日誌に書けない嘘になる。黙っていたら、あなたが屈んだ。睫毛の先から、雨が一粒、先に落ちてきた。それから、私に接吻をした。雨より柔らかかった。この世で私が知っているどんな柔らかいものより、柔らかかった。一人目のときも、そう思った。二人目のときも、たぶん。

帰り道、あなたは一度も喋らなかった。長靴の音だけが、二人分した。

家に戻って、濡れた前髪のまま日誌を開いた。六月十九日、雨、終日、収穫なし。

その隣の欄は、空けてある。

 

 

七月の終わりに、熱を出した。

三十八度を超えたのは、祖父の葬式の年以来だった。三日、寝た。あなたは氷枕を替えて、桃の缶詰を開けて、ハウスの遮光と水やりをやった。氷枕は、頭を動かすたびに中で氷の角が鳴った。桃は汁ごと小鉢に移されて、スプーンを添えて枕元に来た。熱の舌に、桃は輪郭だけ甘かった。指示は最初の朝に全部出した。出し終えてから、眠った。よく眠った。病気は労働より疲れない、ということを、私は忘れていた。

四日目に熱が下がって、台所で日誌を開いた。

七月二十六日、晴れ、三十四度、収穫なし。

七月二十七日、晴れ、三十五度、収穫なし。

七月二十八日、曇り、三十三度、収穫なし。

字が、私のではなかった。数字の四の横棒に、癖があった。教えたとおりの、天気、気温、収穫。定規で引いたような三日分だった。

二十六日の、収穫の隣。

――彼女、熱。三十八度二分。

私は、人間の欄に入っていた。

付け方を教えたのは、私だ。

帳簿をつける者は、帳簿に載らない。祖父は祖母を書き、祖母を書き終えてから死んで、祖父のことは私が書いた。書く側にいるかぎり、私の欄はどこにもない。ないことが、書き手の証明だった。

載っていた。三十八度二分という数字で。測られて、記録されて、私は収穫量と同じ書式で、そこに並んでいた。

笑った。台所にひとりで、声に出して笑った。笑い声は換気扇に吸われて、外の夏に混ざった。

訂正はしなかった。嘘ではないからだ。

その夜、あなたに言った。日誌、つけてくれたのね。

「うん。……まずかった?」

「いいえ」

「人間のことは、収穫の隣って、教わったから」

あなたは扇風機の首振りを止めて、こちらに風を固定してから、続けた。

「あなたも、人間でしょう」

あなた、とあなたは言った。この家でそう呼ばれたのは、私が初めてだった。私はその言い方を、しばらく持って歩くことになった。

 

 

八月の終わりに、十四冊目の最後のページが埋まった。

町の文具屋は三年前に閉まっている。メーカーに電話で問い合わせると、その型番は廃番だと言われた。受話器を置いて、私は少しのあいだ、次の動作を思い出せなかった。

あなたが、スマホで三十秒で見つけた。

「あるよ、同じの。十冊セットだけど」

十冊、と私は言った。

「一冊だと、送料のほうが高い」

ECサイト、と言いかけて、やめた。五年遅れで、一人目の言葉がうちの土間に立つのを、私は黙って見ていた。

三日で届いた。段ボールは新しい紙の匂いがして、横腹に通販会社の、笑った口のかたちのロゴがあった。開けると、青い表紙が十冊、紙の帯で束ねてあった。持ち上げると、思ったより重かった。一冊三年として、三十年ぶんの重さだった。

「これで三十年もつね」

あなたの声は、軽かった。

軽いまま、いてくれ。そう思ったことは、日誌に書かなかった。書く欄がない。

 

十二月、初どりの朝は晴れた。

ハウスは夜のうちから暖房を焚いて、入ると息が白くなくなる。灯油の匂いの上に、苺の香りが薄く一枚、張っていた。外と別の国だった。高設ベッドの上には、季節がもう一周先に来ていた。

初どりの一粒は、売らない。いちばん近くにいる手に食べさせる。祖父は祖母に渡していた。祖母のあとは、私に渡った。一人目にも、二人目にも、渡した。

十二月の苺は、六月のジャム用とは別の果物のように香る。今年のいちばん赤いのを、ヘタごと摘んで、あなたに渡した。

あなたは丸ごと口に入れて、ヘタだけ、あとから指でつまんで出した。

ここ、どうやって見つけたの、と私は訊いた。来た人にそれを訊いたのは、初めてだった。面接はしない家だから。

あなたはヘタを指先から落として、少し考えた。

「動画。元農家って人の。ハウスと、手が映ってた。ヘタを取る手」

あなたは、私の手を見た。

「その手を覚えてて、求人を探したら、まだ出てた」

二人目は死んだ。死んだ人が、あなたを連れてきた。閉じることのできない帳簿が、うちの求人の、隣に並んでいたのだ。礼を言う先を間違えないように、私は黙っていた。

それから、あなたは初めてラジオの歌を歌った。鼻歌ではなく、あの局の古い歌謡曲を、二番から、少しだけ。

いつ覚えたのか、私は知らない。

家に戻って、十五冊目を下ろした。新しいノートは、開くときに、背の糊が割れる音がした。十四冊の、どれももうしない音だった。

十二月九日、晴れ、氷点下二度、収穫一粒。

隣の欄は、まだ書いていない。

残りの九冊は、玄関にある。

© 2026 牧野楠葉 ( 2026年8月17日公開

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