あくまで自分が考えた二種の小説
腥田をにゆり
「伊豆の踊り子」を読んだ時の記憶を蘇らせて、自分は読解力が低いのではないかと、当時は思った。一回だけ読んで、落胆したのだった。まず一つ、これ程持て囃されている作品は、言うほどの価値あるのか? というのが第一印象で、次に、なぜこうしたいかに平易なテーマなのに平易に読ませないのか、これが二つ。三つ目は、5W1Hが読んでいるうちに立ち上がらないのに、モダニティが失われていないと後から気づくのである。「古典だから」という気持ちで読もうとすると、度々このような視点を組み替えられるような、そんな不思議な小説である。モダニズム小説に入ると思うが、しかし当時書いた本人はおそらくこのような独創性に対しては、概ね無自覚的だったのだろう。彼からして、私的な世界観を構築しようとしか知覚しておらず、ただただ愚直にありのまま念写したにすぎない筈だが、結果として出来上がったのは、心性だけが普遍的であるという、文学史においても殆ど前例のない異界体験小説となった。
だから、私は一読して理解できなかった。小説のノウハウで構成されるわけではなく、強いていえば和歌か俳句を延々と書いたのに私小説として成立したという読後感に近い。
しかし、再読すると、ハッと急に作品の全体像が明確になる。
最も考えられるその小説の秘密は、まず情報は整理されているのに、それは伝達するために整理されるわけではなく、殆ど本筋において重要でない情報を大量に短い作品の中に詰め込んでいるため、読者は初読する時何を読めばいいのかと迷う。「伊豆の踊り子」は導線がないのだ。却って、全ての情報量は世界観と視点の必然性を強化するために一点に収束していく、だから最初に私が提示した三点の疑問も、このような独自性から殆ど説明できるのであった。少なくとも、「雨月物語」みたいな構造的な説話でも、「源氏物語」みたいな王朝文学でもないので、この小説の空洞は情報の整理方法で担保され、大きな穴が空いているような作品なのに、どこに穴が空いてるかわからない、という不思議でかつ「曖昧な」小説として成立した。
文学批評的に言えば、モダニズムという便利な言葉があるが、しかしこのような情報整理の仕方は仕来たりの枠に収まりきらないと思う。それと、もう一つの小説は、プロット駆動の小説であるが、一般的な小説は概ねこれに該当する。要は他者の眼線をいかにシミュレーションして、より効率的に伝える小説なのだが、これの濫觴はいわば記載文学で、記載文学の元を辿ると中国、韓国を経由して、やがて日本に伝来したと思われる。同時に、ドストエフスキー、バルザック等の心理あるいは社会小説を構築した海外作家も、概ね大陸的な性質を帯びており、川端康成、折口信夫といった日本作家の作品は、古来の神道あるいは世阿弥の夢幻能に近い異界的な性質を帯びて、——「現世(他者性)」的な小説、「異界(連続性)」的な小説という二種の小説があるとあくまで私はそう分けている。
だから、「伊豆の踊り子」がなぜ凄いのか? ということを、プロットや川端の美意識から説明しようとしても、私としてはどこか違和感を覚える。この作品より美しい作品はいくらでも存在する。ただ、異界体験をさせる純粋な発想的な勝利は、そうそうないのである。少なくとも現代の文学環境においては、「異界」的な小説は絶滅していく一途で、そう考えれば、大江健三郎がやろうとしたのも、大陸的なアプローチで「異界」的な連続性、空洞を獲得しようとしたのではないか。——しかし、現代において、他者と関わりながらも政治空間を際限なく、生活の至る所に侵犯することは既に猖狂した正義であり、この一つの正義の名のもとに異界が段々と希薄となって、やがてノマドみたいに現實から追放される運命だった。
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