新卒で入ってすぐに福島への転勤を命じられ、知らぬ土地で私と妻のふたり暮らし、生活に余裕はなく、娯楽と言えば仕事終わりに妻と行く夜の散歩くらいで、来る日も来る日もくもり空ばかりつづいて鬱々としていたはずなのに、あのころがやけにまぶしく思い出されるのは、妻の妊娠が確定した日にふたりで見上げた天の川があんまり美しすぎたからだろう。福島には三年いたが、あの日だけはくもひとつなく、夏の夜空が一文字に裂けて宇宙の外にある世界から光がどっと流れ込んでくるようだった。私は彼女の手を握りながら、これからさき何があっても大丈夫だと思った。生まれてくる子にも見せたいと思って二十年が経った。
その子が一浪して大学に合格した。直前に受けた模試の結果が絶望的だったので、また一年、息子の勉強の具合を気にして生活することになりそうだと思っていたのだが、予想が外れた。私はまごついた。息子の引越しのためにレンタカーで借りた車を走らせながら私は、福島への転勤を告げられたその日へと遡行してゆくのを感じた。
夢見心地のまま引越し作業を片付けて、気づけば三人で夕食をとっていた。下宿先で息子と別れ、妻とふたりで自宅に帰った。玄関に足を踏み入れると、昨日までたえず家庭に張り詰めていた空気がすっかり弛緩していることに気づいた。あれは殺気だったのだ。ここはながらく戦火にあった。
「ひさしぶりにふたりで散歩しよっか」
妻が言った。私は同意した。
だが、ここは東京である。空は晴れているが、そこはびっしりと立ち上る摩天楼の領分で、星の出る幕はない。天の川は遠く福島の空にしかない。
「天の川を覚えているかな」
と私は妻に問うた。
「さあ」と妻は言った。
「君の妊娠が分かった日……病院の帰り道でいっしょに見ただろう」
「そうだったかしら」
軽くいなされて、私は言葉が続かなかった。
「天の川のことは覚えてないけど、あの日めずらしくあなたが手を握ってくれたのを覚えているわ」
「ああ」
「わたしの手を引いて、どんどん歩いて行くんだけど、道に迷ったりして。『大丈夫だ、大丈夫だ』って何度も自分に言い聞かせるように言って、あきらかに動揺してるの。ああ、わたしがしっかりしないとダメなんだなって思った」
そう言って妻はクスクスと笑った。私は自分の顔が火照るのを感じ、妻の手を握ろうと伸ばしかけていた手を持て余した。
「福島は良いところだったなあ」
という私の声は街の喧騒に消えた。しばらくして突然に強く手を握られた。大丈夫、と妻がつぶやくのが、ふしぎとはっきり聞こえた。
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