暑い。疲れた。腰が痛い。
私は脚を引きずりながら、西武池袋線保谷駅から住宅街の隙間を隠れるように歩く。若くて健康なら十五分で歩ける距離だろうが、四十代も半ばを過ぎて炎天下で道路警備の仕事を終えた私の足では二十分以上かかってしまう。
昨日アパートに越してきたときに目星をつけておいた銭湯がある。夏の間は毎日通いたいところだが、そんな金の余裕はない。昨日は濡らしたタオルで身体を拭いただけだ。
番台で金を払い、脱衣室に入る。たまに若い客もいるが、ほとんどはシワシワのお婆さんである。自分の身体に目を落とすと、どちらかといえばシワシワのお婆さんに近い方だと判るのが辛い。
汗だくの身体を流し、湯船に入る。近くで五十絡みのおばさんがユーミンを口ずさんでいる。私は舌打ちすると、耳を湯に沈めてユーミンが聞こえないようにした。
それでもまだ鼻歌の響きがお湯を介して伝わってくるので、私は私で別の曲を泡と一緒に吐き出し始めた。
踏みつけられた奴
流れ落ちる夏
get me down, keep you away
that’s where I stay
錆び付いた胸の奥に、ほの赤くくすぶる炭のような灯がともる。アーティスト名は「ハングリータイガー」。誰も知らなくて当然だ。今思い出しても顔から火が出るほど恥ずかしい。でもあの頃は本気だった。私たちのすべてだった。
私がボーカルをしていた定番ナンバーを歌い終わって横を見ると、ユーミンのおばさんはもう湯船から居なくなっていた。
私にはもはや十代の頃のような声は出ない。当たり前か。でも、想い出すのは自由だ。頭の中で、私たちが一番輝いていた頃の映像を再生する。過去の栄光に縋り、酔いしれるのは、青春を精いっぱい謳歌した者の正当な権利だ。
私は茹で蛸のように火照った身体をざば、と湯船から持ち上げた。
銭湯からさらに歩いて五分、たどり着いたアパートは私の歳と同じくらいの築年数が経っており、建物が全体的に歪んでいる。たぶん、もう一度東日本大震災級の揺れがきたら倒壊するだろう。
一〇三という消えかかったプレートの貼られた、色褪せたプリント板の玄関ドアは風雨にさらされて端っこの方から腐食し始めている。私は鍵をドアノブの鍵穴に差し込み、ひねる。昨日入居したときには上手く開けられずに数分間格闘したが、ドアノブをしっかり握った状態でゆっくり鍵を反時計回りに回すと開くことが分かってから、すんなり部屋に入れるようになった。
中に入ると、唯一の灯りである蛍光灯の紐を引く。風呂なし四畳半の部屋が寒々しく照らされる。警備会社に斡旋された部屋は本当に最低限の居所だったが、寝に帰る場所があるだけまだいい。氷河期に沈められた半生を非正規労働に明け暮れ、行き着いた先としては必要十分だった。
ただ、この部屋の最大の欠陥に気付いたのは入居の日、すなわち昨日の夜だった。
隣室との間を隔てる壁が、段ボールかと思うくらい薄い。部屋にいると、隣の部屋にいる人の気配を、壁越しでもすぐそこに感じた。トイレの水音もテレビの音声も、まるで同じ部屋にいるように聞こえる。
向こうの音が聞こえるということは、こっちの音も筒抜けなわけだ。もっとも、この歳になって底辺をさすらう私に恥じらいも何もあったもんじゃない。そもそもこんな日に焼けたシワシワのおばさんなど誰も女として見てはくれない。
明日は夜勤だから今から寝て、ゆっくり起きればいいだろう。二日ぶりの風呂に入ってすっきりしたし、今日はぐっすり休もう。薄い布団を敷いて、電気を消し、毛布にもぐり込んだ。身体を丸めるようにして眠りに落ちようとする。
しばらくの間、隣の部屋でごそごそと人の動く気配があった。銭湯でユーミンが聞こえないようにした時と同様、毛布を耳のところまで引っ張り上げて音を遮ろうとする。
音は鳴り止まない。ささくれた畳を踏む足音、カーテンを閉める音、蛇口をひねる音、壁にもたれかかる音。早く何処か一箇所に落ち着いて静かにしてくれないかな、と思った。
疲れていたのだろう、その雑音の中でも私はうとうとし始めた。布団の奥底に引きずり込まれようとしたその時、また別の音がした。
私ははっとしてその音に耳をそばだてた。間違いない、ペグを回す音だ。それから弦を弾く音。ボリュームは控えめながら規則性のあるギターの音に、私は妙な懐かしさを覚える。Am-C-G-F……しばらくすると、か細い歌声が聞こえてきた。私は電気に打たれたように跳ね起きる。
「その歌は」
発した声が自分のものだとは思えなかった。いや、あの頃の自分が憑依して喋らせているような、不思議な感じ。
「その歌は、圭蔵じゃない?」
隣室の演奏が止まった。
「私よ、文香」
暫しの沈黙の後、壁を介して確かめるような声が響いてくる。
「文香か。久しぶりだな」
さすがに歳は感じさせたが、声質は確かに圭蔵のものだとわかる。ハングリータイガー。若かりし私たちの輝かしいステージの記憶。ライブでは主に私がボーカルを務めていたが、圭蔵が歌うこともあった。そもそも作詞と作曲はすべて圭蔵がやっていた。メンバーの中では演奏技術も音楽的センスもずば抜けており、将来は絶対プロになると思っていた。
「本当に懐かしいね」
私はそっちの部屋に行って話そうかと言ったが、圭蔵は今の姿は恥ずかしくて見せられないと断った。
「今の俺を見たら、お前は幻滅するだろう。せめて文香の中でだけは、思い出の俺のままでいさせてほしい」
何も考えずに会って話そうと提案した私だったが、逆もまた然りだと思った。こんな日雇い労働者に落ちぶれたおばさんの私を、圭蔵だって見たくはないだろう。
バンドをやっていた頃の思い出が、溢れるように蘇る。圭蔵との甘酸っぱい恋の記憶が、音楽とセットになって私の脳裏に焼き付いている。
「まだ音楽やってたんだね」
私はといえば、日々の生活に追い立てられてもうずいぶん長い間歌うことを忘れていた。
「文香、聞いてくれるか」
圭蔵は重々しく口を開いた。
「俺は、どうしようもない男だ」
そして、薄い壁越しに半生を語った。バンドを解散してから、私は進学して郷里を離れた。地元の専門学校に進んだ圭蔵とはしばらくの間連絡をとっていたが、時間が経つにつれ疎遠になり、私たちの関係は自然消滅した。その後も圭蔵は専門学校に通いながらオーディションを受けたりデモテープをレコード会社に送ったりしたが、全く相手にされなかったそうだ。徒に年月だけが過ぎ、いつしか圭蔵は仕事もせず実家に引きこもり、いわゆるニートとして四半世紀以上を過ごした。今般両親が相次いで病死し、相続税を払えない圭蔵は実家を手放し、働かざるを得なくなった。警備会社の仕事を見つけ、このぼろアパートに入居したのはごく最近のことだという。
「俺には才能なんかなかった。天才なんかじゃなかったのに、それを認めたくなかった。俺が世に出られないのは、俺の音楽を理解できないレコード会社の連中やリスナーのせいだと思っていたんだ」
私は目の前の壁を見つめながら、ただ黙って聞いているしかなかった。壁には何か液体をこぼしたような染みが幾重にも重なって沈着していた。震える声で自分語りをする圭蔵に、何と声をかければいいのか分からなかった。
「こんなことなら音楽なんかすっかり諦めて、普通に働いていれば良かった。でも、もう何もかも遅いんだ」
壁の向こうでギターを構える音がした。
「今日こうして文香に再会できたのは何かの縁だろう。俺はもう音楽の道は諦める。最後に一度だけ、歌ってみるから聴いてくれないか」
そう言うと、圭蔵はギターをかき鳴らし始めた。
踏みつけられた奴
流れ落ちる夏
get me down, keep you away
that’s where I stay
心なしか艶を失った声で、圭蔵は歌った。私の目の前で染みだらけの壁がかすんで見えた。
翌朝、私は外に出ると一〇四号室の扉の前に立った。よく見ると、プリント合板の扉が少しだけ開いている。ドアノブに手をかけてそっと引くと、やけに軽い扉が軋みながら開いた。
中は薄暗かった。人の気配はなかった。テレビもカーテンもギターも、そこにあるはずのものは何もなかった。
ただ小さな綿埃だけが、ささくれた畳の上で風に揺れていた。
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