松本は、そろそろ関根から連絡がある頃かなと思っていたが、やはり電話が来た。
『ご無沙汰です、松本先生』
『やあ関根さん、元気にしてた? 一年ぶりかな』
『結局前のレースから会えてなかったんで、一年ぶりですね』
最初の関根は同僚だったが、今の関根は初代から数えて十七代目だから、松本にとってはもう誰だかよくわからない相手ではあるのだが、種族が違えば世代交代のサイクルも違う。長命種の方で話を合わせていくしかないことは理解していた。
『そろそろ、スケジュールをと思っているんですが、どうしましょう』
『もうそんな季節なんだな。伊曽保さんはなにか言ってる?』
『とくには』
なにもないということは、今年もやれということなのだろう。いい加減面倒だなと思わないこともないが、松本としては自分のペースでスタートからゴールまで走ればいいだけなので、どうということはなかった。たいへんなのは関根の方だ。
『じゃあ例年通り、十一月の第三日曜でどうだろうか』
『そうですね。各方面通達しておきます。コースはどうします?』
コース。コースは毎年同じということはなく、主催者側の話し合いによるアレンジが許されていた。スポンサーの意向で遠回りさせられることも少なくない。今年のスポンサーは昨年と同じ、鶴崎酒造だ。フォックス食品が不況の煽りを受けて撤退してからは、メインスポンサーは鶴崎単独で開催されている。一時期ネット通販のグラスホッパーが派手にスポンサードを行った年もあったが、ああいうのは長続きしない。鶴崎酒造は初回からずっとスポンサーとして名を連ねてきた老舗であり、今回もすでに社長の内諾は得ていた。ちなみに地域大手企業にはアント運送もあるが、堅実第一の会社でこのようなイベントに出資することはない。
『コースは例年通りでいいと思うけれど、一応市の方に問い合わせてみるよ』
『お願いしちゃっていいですか?』
事務系の雑用は若い関根が受け持つものが多いのだが、各方面の調整のような仕事は、松本の顔の広さがものをいう。実際、今の市長も前の市長も、松本の旧知の人物である。トップダウンで話が進めば、いろいろ面倒が少ないのが行政なのだ。
『もちろん。打診してOKなら連絡するから任せておいて』
関根は礼を述べて電話を切った。松本は壁に貼ったままになっている昨年レースのコース案内を眺めて、記憶をたどってみる。先日コースになる市道を通ったときは、とくに目立った変化はなかったように思うが、確認はしてみた方がいいだろう。
松本は再び受話器を取り、短縮ダイヤルで440を呼び出す。旧式のディスプレイに「シチョウシツ」と表示され、呼び出し音が鳴る。
『かめちゃん、どうした?』
『よっちゃん、わしゃげんきげんきよ。例のレースのを準備をそろそろしないとならんくてね』
『ああ。そんな時期かえ。なんか問題?』
『いや、いつものコースでええんかなと』
『どうだろ。去年どこ通った?』
松本は恩田頼人市長に、昨年レースのコースをスタートから順に説明した。
『十一月から工事があるのは、小森んとこで受けている歩道工事ぐらいかな。通行に支障はないはずだ。ゴール近くの犬吠橋の工事は十月には終わっているから問題ないで』
『ああ、赤い鉄橋の工事か。誰がやっとるん?』
『鷲尾んとこだ』
橋の工事は鷲尾網近前市長の土木会社が受け持っていた。前市長は市の公共事業を自分の会社に優先的に回していたのが発覚して辞任に追い込まれたという経緯がある。小森建設は以前は鷲尾土木の傘下だったが、恩田市長に代わってからは、親恩田派に鞍替えして、うまいことやっていた。
『いま通行止めとかじゃなかったかね』
『防錆塗装やってるうちはええじゃろ。アルファルトを張り替えるときに1日2日止めるぐらいじゃないかのう』
『その間どうするん』
『迂回路があるけえそっちやな』
『葡萄町の橋までいかなならんか』
『そうだな。あの青い橋だ』
レース日にそこまで遠回りすると厳しいが、前の月で終わるというのなら心配はないだろう。松本は恩田市長に礼を言い電話を切った。次いで関根に今聞いた内容をそのまま伝え、例年通りのコースでレースを実施することを決めた。
***
今やこの街の伝統行事となったT&Rレースであるが、その発端は些細な口論でしかなかった。初代関根DATが、松本亀也のマシーンを鈍足と揶揄して、松本が反論、実際に向こうの山の頂上までレースを行って勝敗を決したのがその起源である。市民の誰もが知るとおり、関根氏が途中で沿道のチアガール(バニーガール)をナンパして郊外のラブホテルにシケ込み、うっかり寝過ごして松本氏の車両に追い抜かれてゴールしたという逸話によるものである。その際に相手をしたバニーガールがのちの関根DAT夫人であり、その後世代交代を繰り返して第十七代関根(現)に至る。関根一族はこのレースの沿道に花嫁候補を立たせて、レースにかこつけて嫁探しをするのが通例となっている。松本サイドとしては、そもそもこのレースの意義などないし、茶番に過ぎないのだが、関根氏との長年のライバル関係、友情関係の中では付き合わざるを得ない。松本亀也もそろそろ後継者を育てて隠居したいと考えていはいるのだが、残念ながらいまだ伴侶には恵まれず、独身亀のまま侘しい私生活を送っているのだった。
「松本先生、準備はどうですか」
「関根さんか。先生はよしてくれんかね」
「先生は先生ですよ。伊曽保先生は今年はご自宅での観戦だそうですね」
「わしが言うのもなんだけどご高齢だからねえ。このレースが始まった頃から生きているのはもう伊曽保さんとわしぐらいになってしまったよ」
「恩田市長はご同期では?」
「付き合いは古いが、同期ってことはないな。鷲尾と同い年ぐらいかな」
関根と松本がレース前に緊張感のない世間話をするのはもう様式美のようになっている。望遠で撮影しているテレビ中継には音声は届かないので、アナウンサーが適当にアテレコして視聴者を喜ばせたりする。
「関根さん今年の花嫁候補はアテがあるの?」
「まあ一応、なんとなく決めている子はいます。でもやっぱり今日のこの日のめぐり合わせってものを大事にしたいので、その場のフィーリングとインスピレーションを最優先にしたいです」
「なるほど。さすがは兎類だね」
松本はエンジンの点検をしながら、適当に聞き流した。
「先生はご結婚の予定はないんですか?」
ぎょっとして松本が顔を上げると、関根が赤い目でじっと見ていた。
「関根くん」
「はい?」
「わしは年上が好みなんだよ」
関根はあちゃーと額に手をやり、手を振ってチームのブースへ戻っていった。
初代関根が同じように去っていった日のことが松本の脳裏に蘇る。あのレースはまだ今のようにお約束まみれの茶番ではなかった。売り言葉に買い言葉。レースにストイックだった関根は、本気で松本に勝つつもりで勝負を挑んだのだ。あの頃の松本は今のように丸い亀ではなく、もっと尖った存在だった。一度食いつたら絶対に離さない「すっぽんのマツ」などと呼ばれていた。そしてよくモテた。頭が乾く間もないと噂されていたほどのプレイボーイだったのだ。そして、そんな放蕩の末に蕩尽寸前、一発逆転のチャンスを求めていたところに、ひょんなことから関根とのタイマンレースが決まった。松本は捨て身で有り金をはたいて伊曽保が裏で開催するブラックブックメーカーで自分にベットした。そして当時、密かに恋人だったバニーガールにこう言い含めたのだった。「沿道で関根にウィンクを送れ」。作戦は功を奏し、関根はまんまとレースを放り出してバニーガールを連れてシケ込み、2時間のロス。松本はマイペースのままゴールし、99倍のオッズで多額の賭け金を手にしたのだ。その後、バニーガールは関根のベビーを何匹も産んでラビットタウンのゴッドマザーとなった。松本は今は亡きバニーガールを思い出すとチクリと心が痛む気がしたが、それは気のせいだろう。レースはその後松本が連勝するにつれ事実上の茶番となりオッズも下がったが、関根陣営もこっそり松本勝利にベットすることでウィンウィンの関係を維持していた。
***
プーと予告音が鳴る。市長がスターターピストルを構える。
『オンユアマークス』
スピーカーから流れる宣告。
次の刹那、破裂音が鼓膜を刺激して、関根の脊髄が反応。クラッチが接続されパワートレーンのトルクが一気に動輪まで接続。後ろ向きのGと残像を放置して、うさぎ型の競技車は一気に数十mを駆け抜けていった。
巻き上げられた砂埃がすうと収まり、視界が十分に開けてから、松本は愛車をゆるりと加速させていく。あとはあの丘のゴールまでゆっくりと安全運転すればいい。その間、関根は意中のパートナーとしっぽりお楽しみになるという筋書きだ。
松本は、アクセルをほどほどに踏み、見慣れた街並みをのんびりと眺めながら悠々自適にコースを進む。ときおり沿道で旗を振る子どもたちに手を振り、ミッレミリアよろしく愛車を駆っていく。途中、街で唯一のラブホテルの軒先をちら見すると、奥の方にピンク色のスポーツカーが見えた。関根は予定通りの行動に移っているようだ。中心部の十字路を曲がって、切り通しを抜けるとその先に橋がある。先月工事をして美しく塗り直された赤い鉄橋だ。橋の向こうに人影が見える。
「関根くん?」
コースに立っているなんて、危ないじゃないか。クラクションを鳴らすと、橋の下に仕掛けられた音響センサーに反応し、大量のTNT火薬が炸裂した。松本亀也は炎に包まれ、鉄橋の残骸に巻き込まれながら谷底に沈むまでの数秒で自分の身に起こったことを考えたが、何もわからないまま死んだ。十七代関根は一族の積年の恨みを晴らし、恩田市長と鷲尾と小森は108倍のオッズのギャンプルに勝利したのだった。
鈴木沢雉 投稿者 | 2022-11-19 10:07
いやはや、鷲尾と小森もグルだったとは。
しかし後継者のいない松本を葬ってしまっては、レースが存続できませんね。たかが108倍オッズのリターンをワンオフで得るよりは、カモにしたまま継続的に利益を生む方法を考えた方がいい気がします。それとも鶴崎酒造の意向が何らかの形で関わっているのでしょうか。疑念が疑念を生みますね。
大猫 投稿者 | 2022-11-19 14:17
亀は万年、うさぎ一族は代々継承者を育てつつウィンウィンの関係を築いてきた……なのに目先の小銭に釣られて伝統のレースをダメにしちゃう大人の浅知恵よ。ためになる童話でした。松本が長生きし過ぎて飽きられた可能性もありますね。長生きも良いことばかりではないという教訓もしっかり受けとりました。
吉田柚葉 投稿者 | 2022-11-20 10:22
バツグンに面白かった。あと、「頭が乾く間もない」で笑ってしまい、男はこうしてしょうもなくなっていくのか、という学びがありました。
松尾模糊 編集者 | 2022-11-19 19:54
カメとウサギ、動物としては可愛いのですが、競争原理と賭博と利権が絡んですべてが歪んでしまいましたね。教訓としては現実的な気がします。
諏訪靖彦 投稿者 | 2022-11-20 08:33
ウサギの亀の童話を現代的になぞる程度の話かと思っていたら、いやいや、設定がぶっ飛んでいて笑ってしまいました。伊曽保先生ってなんだろうと思っていたら途中ではイソップかあと気が付きました。
小林TKG 投稿者 | 2022-11-20 09:23
いつかの合評会のテーマになったモータースポーツの事を思い出しました。個人的には辛い記憶ですけども(笑)。でも次またモータースポーツが来た時はこういうを、こちらを参考にして書こうと思いました。
曾根崎十三 投稿者 | 2022-11-20 10:50
私は一体なにを読まされてるんだ!という不可解な気持ちながら読み進める手を止めることができない魅力あふれる作品でした。
既存の童話アレンジ、というのは思いつきましたが、対象年齢のところで躓いていたのと、波野さんとバッティングしなくて良かったです。
毎度ながら文字りが面白くて電車の中でニヤニヤしました。マスク社会で良かったと心からの感謝です。亀の頭が乾く間もないって……!
Fujiki 投稿者 | 2022-11-20 12:58
しょうもない小ネタが平常運転でよろしい。伊曽保はイソップ、関根はラビット関根からか? 恩田頼人は何だろう。On the right?
波野發作 投稿者 | 2022-11-20 16:14
ライオン(しょうもなー
諏訪真 投稿者 | 2022-11-20 20:35
亀とウサギの世代差とか面白いなと。
個人的にはここから亀のリベンジが気になるところです。