1.「りんごの歌」
昭和50年11月 群馬県伊勢崎市の銭湯「広瀬川温泉」
ガラガラガラ・・・バタァンッ!と銭湯の引き戸が乱暴に閉められる。 「あぁかぁいぃ・・・りぃんごぅにぃ、くちびぃるぅよぅせぇてぇ・・・」 いつものようにその歌声が銭湯の中にこだますると、異様に背の大きな坊主頭の少年がバチャバチャバチャと洗い場を湯船に向かって走っていく。 ザバァッ!とお湯が割れて湯船からお湯があふれ出る音がする。 「おいおい・・・」と頭にタオルを乗せて湯船に浸かっていたお爺さんが呆れて湯船からあがってくる。いつものことなのだ。彼は近所でも有名な“知恵遅れ”で、うるさいだけで害のない少年だった。 僕は肩まで伸びた長い髪の毛を洗いながら、チラチラと少年の行動を見ている。 「あぁかぁいぃ・・・りぃんごぅにぃ、くちびぃるぅよぅせぇてぇ・・・だぁまぁあってみている・・・あぁおぅいぃそぅらぁ・・・。りぃんごはぁなぁんにぃもいわぁないぃぃけれどぅ、りぃんごぅぅのぉおのきぃもぅちぃはぁよおくぅわぁかぁるぅぅぅ」 「うふふふ・・・あぁかぁぁいぃぃ・・・か、美空ひばりの歌だっけ・・・(並木路子だって)」僕は、お湯の蛇口を目いっぱいにして洗面器にお湯を溜めると、洗い終わったシャンプーを洗い流した。 「あぁかぁいぃ・・・りぃんごぅにぃ、くちびぃるぅよぅせぇてぇ・・・だぁまぁあってみている・・・あぁおぅいぃそぅらぁ・・・」少年はまだ歌っている。 僕は何度も洗面器にお湯を溜めて髪の毛のシャンプーを全部洗い流すと、タオルを絞って股間を隠しながら湯船に向かって歩いた。すると少年は凄い勢いで湯船からあがって、またバチャバチャと走ったかと思うと、ガラガラガラ・・・バッターーーン!と出て行ってしまった。 「やれやれ・・・」身体を手ぬぐいでごしごしと洗っていたお爺さんがため息をついた。 僕は湯船のお湯に片手を突っ込んで湯温を確かめてみた。「あちいっ!」熱かった。このままでは湯船に浸かれない・・・。「ふう・・・」と数人のお爺さんたちが気持ちよさそうに湯に浸かっている。 「すいません・・・ちょっとだけ水入れますよ・・・」僕は湯船に浸かる老人たちに声をかけると「しょうがねえなあ・・・」「いいよ」「おう・・・」と返事が返ってきたので湯船の横の水蛇口をひねって水を入れて熱いお湯をうめた。ドボドボドボドボ・・・。冷たい水が混じって熱いお湯が一気に冷めるような音がする。 しばらくしてから蛇口を止めた。まだお湯は熱いが・・・仕方がない。ゆっくりと右足から湯船に入る。「あつうっつつつううううう・・・」みるみる湯船に浸かっていく部分から紅く色が変わっていく。ようやく肩まで浸かることができたが動けない。 湯船は深いのだが、湯船の入り口には腰掛けられる段差がある。そこに腰掛けて落ち着きたいのだが、そういう場所には必ずお爺さんたちが腰掛けて占有している。熱さにぶるぶる震えて(不思議と熱くても震えてしまう)我慢しながら腰掛けられる場所が空くのを待つ。 空いた・・・。「利根の川風ぇーーーー・・・」とかなんとか濁声を発しながらひとりのお爺さんが腰掛けていた場所から離れて湯船から出た。 僕は、そおっと中腰のままその場所目指して湯船の中を移動する。しかし少し動くと肌を刺すような痛みがある。のんきに鼻歌を歌いながらタオルをザバザバと湯船に入れたり絞ったりしている老人たちの皮膚感覚が理解できない。 ようやく腰掛けられるところに到達すると湯面から胸まで出すことができた。まだお湯に浸かっている下半身が熱いが、動かさなければ大丈夫だ。ほっとため息をつく。 「あっかぃいいいりんごぉにぃ・・・くちびぃるよせてぇ・・・」僕も思わず鼻歌が出た。
2.「真夏の夢」
昭和51年5月 群馬県伊勢崎市連取本町の「平和荘」
僕は平和荘の階段をわざとバタバタと大きな足音をたてて上りきると本多や川辺の部屋に向かって「あらぁ・・・ここって女子のアパートじゃないんだぁ・・・」「うそっお!キャハハッハハ・・・!」「キャハハ」と複数の女の子の声色を使って叫んで、また階段をバタバタと降りて階段下で耳をすましてしばらく様子を伺った。 するとガラガラ・・・バタンと部屋の戸が開く音がして、「おうおう・・・川辺ぇ、今、女の声がしたっぺよぅ」「おおっ・・・そうだよな」と本多と川辺の声が聞こえたので、僕は苦笑しながら階段を上って二人を見て笑った。 本多は僕の顔を見るや「おい、ワタナベ、今、階段を女が降りで行ったっぺよぉ?」と、いかにも色呆けの顔をして言った。僕は「え、そんな女見なかったよ」ととぼけると、「おかしいなあ」と本多と川辺が顔を見合わせて首をひねる。 僕はとうとう我慢できなくなって「ぎゃははは・・・今のは俺だよ、ばっかだなあ・・・」と腹を抱えて笑うと、「だって・・・女の声だったぞ」「だからこうやって・・・うっそお!キャハハハ・・・って声色を使ったんだよ」「げ、本当だ・・・その声だ、こんのやろう・・・気持ち悪りいなぁ・・・」と本多が僕の首に右腕をひっかけてぎりぎりと絞めた。 「げっげ・・・ぎゃはは、や、やめろう・・・」「こんにゃろーーーーー!」「本多ぁ俺にもやらせろ、絞めさせろ・・・」それでも本多が僕の首を離さないので、川辺は仕方なく僕の頭を冗談で軽くこづいた。 「ぎゃはははは!」「はははっ・・・」「やめろってば・・・」やっと本多の羽交い絞めから脱すると「女の声なんか出しやがって・・・気持ち悪りいんだよ」「本物だと思ったんだろ? 少しは夢を与えてやろうと思ったんだよ」「本多は女に飢えてるからなぁ・・・けへへ」と川辺が笑うと「なんだとこのやろっ!」 本多の羽交い絞めの矛先が川辺に向けられたのを確認して僕は自分の部屋に入って顔を洗った。 ジャバッ!と勢いよく蛇口から飛び出してきた水は生温くて手や脂っぽい顔にまとわり付くようでなんだか不快だった。 「今年の夏は暑いんだろうなぁ・・・」僕の手に絡みついた水はタイル張りの流しの排水口に吸い込まれていく。
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