事務所のドアをいくら叩いても、蒼月は現れなかった。不在もこれで二週間目だ。
足元に視線を落とす。壁際に、まるで誰かに供えるかのように花束が置かれていた。この間来たときにはなかったはずだ。
しゃがみこんでそれを観察してみる。薄黄色と桃色のラッピングにくるまれた小ぶりな花束には、メッセージカードが刺さっていた。
“Congratulations on your wedding”
――ああ、そういうことだったのか。
二度と会わない、関わらないことが、蒼月の用意した自分への「礼」なのだ。
花束を拾い上げる。可愛らしいラッピングを指定して店で注文する、裏社会の情報屋には到底似合わない姿を想像したら、思わず笑いがこぼれた。笑った拍子に涙もこぼれた。
ふと思い立ってドアノブに手をかけてみた。鍵はかかっておらず、あっさりと開いた。
事務所には何ひとつ残されていなかった。まるではじめから何も存在していなかったかのように、がらんどうの空間だけが静かに横たわっていた。空調を切られた地下室は少し湿気ていた。しんと冷たく美しい夜の気配は消えていた。
奥の部屋へと続くドアの前まできた。一瞬躊躇ったが、小さくノックをしてから開けた。
事務所の半分ほどの広さの部屋には、作りつけの小さなキッチンがあった。キッチンの奥には、何か重い物を置いていた跡の残る空白があった。そこだけ四角く切り取られたように白くなっている。きっと冷蔵庫を置いていたのだろう。あるいはワインセラーだったりして。
部屋からは微かにコーヒーの香りがした。
彼はたしかに、ここに居たのだ。体温の気配がしないなんて、そんなのは嘘だ。
彼はここで生きていた。蜃気楼のような人だったけれど、ちゃんと血の通った人間だった。
「蒼月さん。お祝い、ちゃんと受け取りましたよ」
どうか、貴方の一生に一欠片でも多く、幸福な瞬間が訪れますように。
花束を抱いて新聞記者は泣いた。梅雨明けの一報が街に流れた日の、夕暮れのことだった。
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