「あの、一歩進むために二、三歩ほど下がっても良いのでしょうか。人生的に」
資料と、それを収納するための湿ったダンボールで埋め尽くされている第一診察室に入って早々、申し訳程度に置かれている黄色い丸い椅子にすら腰を下ろさずに、赤髪患者は口を開いた。どうやら焦りの感情が脳を支配しているらしく、青ざめている表情には一刻の猶予無しという気概があった。
しかし、目の前の主治医はぴくりとも動かなかった。赤髪患者が先ほど待合室にて記入した問診表をじっくり睨んでいるだけで、生命力すらも感じられないほどに、不動だった。赤髪患者はそんな医師に対して再び口を開こうとしたが、その瞬間に不動だった主治医が、のんびりとした動きで赤髪患者の顔を見上げた。
「診察は、受けたのか?」売れない本屋の店主のような萎れた声質だった。
「ああ。尋問をされてる気分だったさ」
赤髪患者はとっさに、西部劇に登場するような一匹狼のガンマンの体勢を作っていた。それは自身に降りかかるであろう危機を回避するための護身術のようなものだった。右手を腰に当てながら、身体の右半身を少しだけ前に出すという小さな威嚇の体勢は、主治医のひじきのような細い双眼をぐわっと開かせ、さらにアヒルのような口から「とりあえず、お座りください」という丁寧な高音を引き出した。
主治医は赤髪患者の威嚇によって、すっかり怖気づいているようだった。赤髪患者が記入した問診表を握りしめる右手が小刻みに震えているのがそれを遠目で見ている患者にもわかった。
「では、失礼する」赤髪患者は目の前の黄色い丸椅子の横に正座をした。床には紙切れや埃以外に、主治医のものであると予測できるふけや抜け毛などが散乱していたが、赤髪患者は構わずに、というよりはそれらが一切見えていないような堂々とした動きで脚をたたみ、主治医の顔を見上げた。かつては侍が跋扈していたこの国の出身である自分にとって、相手から促された際に取る座りの体勢は正座以外にありえなかった。
「それで、どうしてここに来られたのですか? 今日は感謝の日ではありませんし、銅線を交換するためのピンセットも、まだこの街には支給されていませんよ」主治医は神聖さを重視する牧師のような、のっそりとした動きで立ち上がった。直立をするまでの数秒の間、主治医には確かに赤髪患者のことが迷える信者に見えていた。「あなたの中には山羊が居ない……」
「私はまだ何のウイルスにも侵されていません。路地裏になど、近づいていません」赤髪患者は膝立ちをしながら必死に琵琶法師の真似をした。女児のようなか細い声で訴え、主治医の目が牧師から医学者に戻ったのを確認してから、再び正座に戻った。
生還の主治医は二歩ほど進み、赤髪患者の目の前に直立をすると、患者の震えている顔の目の前で指を使った十字架を作った。無遠慮で何の気なしに行ったその動作の最中は、日向ぼっこに適した日光のような笑みを浮かべていた。
「どうしてあなたはここに来たのです?」主治医はあくまで医学の世界を渡り歩く第一人者としての尊厳を患者に見せつけた。それはどんな宗教の事情も熟知しておきながら、どんな宗教の思想にも染まることのない本物の医学者の目だった。また、瞳の中に浮かんでいる強い白い光には、自分は処方箋さえ持ち込めばどんな薬であろうと安価で渡してしまうようなぼけている老人医学者とは違うんだ、という意思がしっかりと刻まれていた。
「あの、新しい病院を紹介してほしいのです」
赤髪患者は頭部に浮かせている円形の蛍光灯をくるくると回転させ、さらに双眼の中の光を黄色と青色にして訴えかけた。「新しい病院が、私には必要なのですよ」
赤髪患者のそれは、この第一診察室に入りこんできた時に見えた焦りの感情だった。しかし今回はそれに加えて、例えば受験生がどうしてもわからない問題の解答を教師に訊ねている時のような、藁にも縋る思いがある一生懸命さが漂っていた。
主治医は一度だけ咳きこむと、主治医専用の黒い椅子に再度腰掛けた。そして椅子と一緒に設置してある白い机の上の液晶画面を睨むと、老舗居酒屋の隅の席にてただ一人で焼き鳥を食べている中年サラリーマンのような顔を作りながら、丸眼鏡をひょいと押し込んだ。
「いいでしょう。では僕が知る中で、最も優しい声を持つ女医の病院を、あなたに紹介いたします」
「本当ですか!」丸椅子から飛び上がった赤髪患者は、ラーメンを啜るような音で鼻水を鼻孔にしまい込んだ。「ちなみにどんな方なのですか、その女医とは」
「ええ。硝子のような瞳を持つ女です。おまけに長身だ」
主治医は液晶画面に微笑みかけていた。
「名前は、なんというのですか」
「知場です」
「知場っ!」
赤髪患者は再びラーメンを啜った。
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