教壇に立つ加奈子先生が赤いホログラム操作盤を指ではじくと、教室は真っ暗になった。椅子や机が見えなくなり、まるで空中に腰を下ろしている感覚だ。地面も天井もなく、加奈子先生の艶やかで腰まで伸びた長い髪の毛も、隣に座るクリっとした大きな目をしている靖子ちゃんも、闇に飲み込まれてしまった。自分の姿すら確認できない空間に放り出された。と、僕は思った。僕は怖くなって叫び出したくなったけど、僕より先に、隣から声が聞こえた。靖子ちゃんの声だ。
「先生、何も見えなくなってしまいました。宙に浮かんでいるような感覚です。生命についての授業の中で、教室をこのような環境にすることに意味はあるのでしょうか?」
さすが靖子ちゃんだ。僕が今感じているのは恐怖だけだけど、靖子ちゃんはその先の、先生が室内を真っ暗にした意味を考えている。
「私たちが向かっている先が海洋惑星だというのは知ってるわよね? ここはその星の恒星光が届かない海の底だと思って」
「でも先生、光エネルギーがないと生命は発生しませんよ」
靖子ちゃんがそう言うと、暗闇の中で加奈子先生の息つく声が聞こえた。それはため息ではなく、よく気が付いたねといった優しい響きをもっていた。
「生命が生まれるには必ず光エネルギーが必要というわけではないの。もちろん有機物が発現するにあたって光エネルギーはとっても重要な要素だけど、光エネルギーがなくても生命は生まれるのよ。このままだと真っ暗で何も見えないから、わかりやすいように光源を加えるわね」
加奈子先生がそう言うと教卓の前がボウっと光を放った。そこから発せられる放射光によって教室全体が穏やかな光に包まれて僕はホッとする。椅子の下にはボコボコと不規則な形をした岩肌の海底が広がっていて、近くに生物の姿は確認できなかった。
「ここに筒状の構造物があるの、わかるかな?」
加奈子先生は教卓の左下に海底からせり上がっている筒状の構造物を指さして言った。僕は先生が指さす先に視線を向けてから、そっと隣を見る。靖子ちゃんは真剣なまなざしでホログラム投射された構造物に目を向けている。僕は靖子ちゃんに気付かれないようにすぐに視線を戻した。
「この構造物の先っぽをよく見て」
加奈子先生の指先が細かく動く。すると筒状の構造物が数倍に拡大された。先端からは灰色の煙が噴き出ている。
「この構造物は先端の排出口から噴き出た金属が蓄積してできた物で、チムニーというの。みんな、チムニーの周りをよく観察して」
僕は先生が言うようにチムニーを観察する。すると排気口の周りで小さな生物がうごめいているのが見えた。
「先生、いぼいぼが動いています!」
僕は誰よりも先に声を上げた。クラスの中で一番最初に見つけたことを自慢したかったんだ。
「モロゾフ君、よくわかったわね」
加奈子先生が僕に向かって言った。靖子ちゃんを見ると僕を見て微笑んでいる。僕はぎこちない笑みを返してから加奈子先生に視線を戻した。
「そう、あれはチムニーから噴出される硫化水素や二酸化炭素がメタン変換して有機変化が起きたことにより発現した微生物を捕食して生きている生物なの。チムニーから噴出される熱水によって光合成の必要のない食物連鎖が成り立っているのね」
「地球の原初生物ですか?」
僕はその生態系からそう思った。
「いいえ、ゲノム解析の結果、そこまで遡れないことがわかった。そして、元々日の当たる場所にいた生物の可能性が高いともわかったわ。海底深く隠れてしまった理由はわからなかったけどね」
一呼吸おいてから加奈子先生が僕に言った。
「モロゾフ君、他に質問はある?」
加奈子先生の目を見ながら僕は次にすべき質問を考えたけど、いいのが思い浮かばなかった。すると靖子ちゃんが「先生」と言って手を上げた。靖子ちゃんは優しいし頭もいい。僕が質問を考えている時間を待っていてくれるし、質問が出てこないことがわかるとクラスのみんなが知らなければいけないことについて質問する。
「光の届かない海底でも生命が発現することや、食物連鎖が成り立つことがわかりました。でもこの環境で生きている生命が知性を獲得することはあるんですか?」
加奈子先生は鼻からそっと息を吐き出した。
「それもわかっていないの。私たちヒトがどのように知性を獲得したかわからないようにね。知性が環境により発現するのか、外的要因が必要なのか、私たちが想像しえないものなのか、それを見つけるために私たちは旅をしているのよ」
加奈子先生は靖子ちゃんにニコッと笑いかけてからまたホログラム操作盤をはじく。すると拡大されたチムニーが元の大きさに戻り、教卓の前の光源が光を失い、闇が訪れ、直ぐに周囲が明るくなった。元の教室に戻ると同時に終業を知らせるチャイムが聞こえた。
「今日の授業はとても重要なことだから、みんなお家に帰ったら復習するように。みんなの子供、いえ、海洋惑星に到達を果たす4世代後の子孫に正確に伝えなければならないことだから」
僕は先生の言葉を聞いて靖子ちゃんを見る。靖子ちゃんは大きな目をしっかりと見開き、加奈子先生に向かって頷いている。その目を見つめ、僕は自分の耳たぶが熱くなってくるのを感じた。
――了
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