十三 ひとひら

薄暮教室(第14話)

篠乃崎碧海

小説

8,823文字

いつの日か、君のいるところに手を伸ばす日がきたら――そのときにはまた、いつかの話の続きをしよう。

「先生」

 部屋の中ほどから呼びかけるも返事はない。待ちくたびれて眠ってしまったのか、柱に寄りかかる薄い羽織の背が寂しげに見えた。

 起こさぬように足音を忍ばせてそっと隣に座る。やはり先生は目を閉じていた。少し俯きがちに首をこくりと傾けて、口元は微かに笑んでいた。膝に置いていた手が落ちて、縁側の木に触れて冷たくなっていた。

「ほら。咲いたよ」

 落ちた手をとり膝に戻してやる。冷えた指先を何度か擦ってから、上に向けた手のひらに小さな花を乗せてやった。

 咲ききらぬままに枝から離れてしまった花は、先生の手の上に居場所を得た。誰にも見られることなく落ちて、それゆえ先生の手の上にやってこられた小さな一花。明日には萎んでしまうだろう花は、今は優しく先生のためだけに咲いていた。

「啓司」

 ほとんど声にならなかった。こんなにも唇に乗せるのが痛い音だと思わなかった。

「先生。……春が、きたんだよ」

 やはり先生と呼びかける方がしっくりきた。名を呼ぶよりも近くに感じるのは、一体どういうことなのだろう。あの老人が言ったように、彼はずっと昔から先生であったということなのだろうか。

 痩せた肩を引き寄せる。力をなくした体はそのまま倒れこんで、藤倉の肩にこつりと骨の感触を残した。

「……いくのか」

 俯いた顔を隠す髪が風にそよいでいる。目に見えないくらい少しずつ、魂の質量が溶けていく。砂時計の時間は止められない。さらさら、さらさらと、一粒ずつの重さと色を指先に残して零れていく。

「花の上、か。そこから何が見える?」

 落ちる先は花の上か。落ちるのではなく上へいくのか。

「いつか、俺も手を伸ばすよ。……だから、そのときは」

 どうか、受け止めてほしい。待っていてほしい。何十年先か、はたまた思いのほかすぐになるのかはわからないが。

 いや、先生はずっと先の未来でと言ったな。先生の言うことだ、きっとその通りになるだろう。

 薄く笑んだ形で時を止めた瞼に手を伸ばす。

 

「おやすみ、先生」

 そっと押さえる。熱をうつして、離れる。

 

 

四月拾七日

願はくば花の上にて春死なん その如月の望月の頃

 

 沢山の人に愛され、また愛した一人の教師が、花の上へと旅立った。

 この年最初の桜の咲いた、穏やかで優しい夕暮れのことだった。

2021年4月9日公開

作品集『薄暮教室』第14話 (全17話)

© 2021 篠乃崎碧海

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