十三 ひとひら

薄暮教室(第14話)

篠乃崎碧海

小説

8,823文字

いつの日か、君のいるところに手を伸ばす日がきたら――そのときにはまた、いつかの話の続きをしよう。

 雪下駄をつっかけて外に出る。玄関の石畳に高い歯が引っかかってカツンと間抜けた音をたてた。明日にでもこれはしまって代わりに草履を出しておこう、そう思いながら、まだ少し雨の匂いの残る夕の空気を吸いこんだ。

 道の真ん中にできた水たまりに淡い空が映っていた。日暮れの柔らかな風が吹く度にさざめいて、星が降るように瞬いた。縁側から見ていたときよりも土や草葉の気配を近くに感じる。すぐ目の前にあって触れられるようでいて、やはりあそこは外ではないのだ。体調が許せば先生をもう一度外に連れ出してやりたかった。

 教室の向かい側、ちょうど大人二人分ほどの高さの石垣の上にその桜はある。先生は少なくとも数百年以上はあると言ったが、単なる年数以上のものを蓄えて遥かな時を経ているようにも思えた。

 時間の感覚が溶け落ちるほど長い年月を重ねた幹はあちらこちらを伸び放題の苔や蔓に覆われている。枯れ落ちてしまったのか太く立派な枝はないが、幹から幾筋か細い若枝が伸びて、先にぽつぽつと白く小さな蕾をつけていた。どれも随分と膨らんできているが、まだ開いたものはない。

 やはりまだ咲かないか。花を探す視線はいつしか枝の間から覗く空をあてもなく仰ぎ見ていた。葉先に残った雨の雫がぽたりと頬を濡らす。つ、と一筋涙のように流れた。

 ふいに言い知れぬ感情が波のように去来した。堰き止められない何かが熱い吐息となって溢れる。唇が震えて、抑えた思いが噴き出さぬように咄嗟に噛み締めた。

 先生の前でこんな顔は見せられない。先生の前で声を震わせることは、脈拍を測る指を竦ませることは許されない。それは彼に宣告することに等しいからだ。もう永くはない、いつ呼吸が止まっても、次の眠りが永遠のものになってもおかしくないと覚悟して接しているのだと教えてしまうからだ。

 聡い先生のことだ、そんなことはもう十分すぎるほどにわかっているのだろう。その足が土を踏むことはもう二度と叶わないことも、些細な日常の動作ひとつで呼吸が止まるほどの喀血発作を起こしかねないことも、体の持ち主である先生が一番よく知っているのだろう。わかりきっていることを、周りの人間が丁寧かつ残酷にわざわざもう一度教えてやる必要などない。

 彼は生きたいと願っている。今日見る夕日が最後のものになるかもしれないと考えるのと同じところで、明日の朝日を望んでいる。決して絶望してなどいない。絶望した人間はあんな風には笑えない。人に力を与えることなどできない。

 それなのにどうして、先生の前で辛い顔などできようか。

「おお、ようやく咲いたかえ」

 ふと穏やかな声が聞こえた。見上げすぎて鈍い痺れを訴え始めた首を戻す。見ると通りの先からゆっくりと歩いてくる老人が、時が止まったかのように梢を眺める藤倉に笑いかけていた。

「いや、まだ咲いては……」

 初咲きの桜に心奪われているように見えたのだろう。曲がった腰をとんとんと叩きながら緩い坂を登りきり、どれどれと並んで見上げる老人に藤倉は慌ててまだだと答えた。

「明日にも開くのではないかと待ちわびていたところで」

「おや、そうかえ……んん、いやそこにほら、一輪……」

「え、どこです?」

「ほら、そこ……蔦の先からすこうし伸びてる枝の向こうに……ここのところめっきり目が悪くなってきとるから、見間違いかね」

 老人は揺れる指先で一点を指す。しかし藤倉にはただ枝の間に空が見えるばかりだった。

「見えないな……」

「すこうし屈んでみてごらん。儂の目の高さからだとちょうど、白い花が見えるような気がするんだがのう」

 藤倉は老人の隣で屈んでみた。屈むだけでは目線に足りず、片膝をついてもう一度老人の指す先に目を凝らす。

「……あ」

 咲いている。小さな花がひとつ、梢の先にかろうじてひっかかるようについている。柔らかそうな白い花弁は夕暮れの空に溶け入りながら、未熟な羽を真っ直ぐ空に伸ばしていた。

 先生に見せてやれる。春がきたと伝えることができる。長い冬がようやく明けたようで、藤倉は言葉もなく小さな花を見上げていた。

「集会所の桜はまだ固い……もしかしたら、この町一番の早咲きの花かもしれませんなあ」

 今年も元気に咲いてくれてよかった、よかった。老人は腰を伸ばすと、老いた木を見上げて笑った。

「この桜、いつからここにあるのでしょうね」

「さあのう……儂が幼い時分にはもう、今と変わらん姿でここにあった。あの頃からもう十分に老いた木だった……儂の生まれるずっと昔から、町と共にあったんじゃあなかろうかね」

 刻まれた年輪の中に、数多の人間の生活が溶け込んでいる。伝承にも残らない小さな営みを、この木はここからずっと見守ってきたのだろう。

「先生の容体はどうかね」

 教室の方を見遣り、老人は問いかけた。

「あまり芳しくは……今日は少し調子が良いようでしたが」

「それは何より。……あの子は春の似合う子だからね。桜をさぞ楽しみにしていたことだろうよ」

「先生を、昔からご存知でいらっしゃるんですか」

「そりゃあそうだ。この町で育った子どもはみぃんな、町の全員の子どもだからの。今でこそみな彼を先生と呼ぶが、儂のような老いぼれからしてみりゃ、あの子だっていつまでも子どもみたいなもんさな」

 ただ、と老人はぽつりと言う。

「あの子は……平野先生は、気がついたときにはもう先生であった、そんな気がしとる。そりゃあ彼にも子どもの頃はあったわけだが不思議とな、あの子はずっと昔からもう先生であった。人の前に立ち、教え導く存在になると決まっておった、そんな風に思ったりしての」

 ふと、この通りを幼い啓司少年が直次と連れ立って歩いていく幻を見た気がした。桜吹雪に染まる緩い坂道を駆け下りていく小さな弟と、後ろから少し早歩きで追いかける兄の姿。

 しばらくしてふいに兄は足を止める。華奢な背を揺らす喘鳴混じりの咳と、掠れた呼吸音。気づいた弟が一目散に駆け戻る。心配そうに見上げる弟に兄は笑いかける。大丈夫と囁いて不安げな弟の頭を撫でる。ざざ、と春風が走る。見上げた二人の上に降りかかる、薄紅色の花、花、花。

 時は過ぎる。期待と不安の入り混じった表情で桜を見上げる少年と、細いその背を後押しするように立つ男の姿。

 大丈夫。心配せずとも、啓司くんはきっと良い先生になる。長年診てきた私が保証する。男はそっと笑いかける。無理だけはしちゃいけないよ。行ってらっしゃい。少年は故郷を離れ、一人遠く都会へと旅立った。咲き始めの白い桜が背を見送った。

 また時が経つ。軽い鞄ひとつしか持たぬのに坂の途中で幾度も足を止め、咳き込む男は乾いた瞳で空を見上げる。教師になったがゆえに生来弱い身体を壊しきってしまった男は、かつて好きだった花の色さえも忘れてしまった。

 

 何度目かの春が巡る。桜の頃に旅人と教師は出会う。

 その先はまだ、誰も知らない。

 

 

 風が強い。今日は春一番かもしれない。

「あ」

「おや」

 それは瞬きよりも短かった。一際強く吹いた風に煽られて、咲いたばかりの一番花は呆気なく梢を離れた。二人の前を通り過ぎ、通りの真ん中に向かってくるくると舞い落ちたあと、転がって道の端に寄った。

「まだ咲いたばかりなのに、勿体ない」

 いたいけな花を藤倉はそっと拾い上げた。手の中でそれは静かに佇み、開いたばかりの柔らかな花弁を震わせていた。

 芽吹いた希望をあっさり奪われたように思った。期待した分痛かった。

「これでは、見せてやれない」

「いいや、そんなことはないさ。きっと、近くで見てもらいたくて早くに離れたんだろうよ」

 大丈夫、まだこれから沢山咲くんだから。明らかに落胆した様子の藤倉に、老人は優しく笑いかけた。

「あの子に、春を見せてやりなさい」

 花は風に吹かれてふわりと揺れた。そうだ、まだ希望はここにある。

 潰さぬようにそっと握りこんで、藤倉は踵を返した。

2021年4月9日公開

作品集『薄暮教室』第14話 (全17話)

© 2021 篠乃崎碧海

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