「きかせて、ください」
少ない夕食を終え、日に日に増える薬を文句のひとつもなく飲み下し、眠りに落ちるまでの短い間。深い透明な眼差しで、幼い子どものように先生は言う。
「そんなに面白いか?」
「藤倉さんの言葉の中に見える景色や見知らぬ人の気配は、本を読むよりも温かくて息吹をすぐ近くに感じるんです。まるで実際に見ていると錯覚しそうになるほどに」
そうは言うが、実際のところは増えた薬の副作用による気分の悪さを紛らわすためだということは知っていた。
「俺の言葉は、どこへいくのだろうな」
こうして過ごす時間が生み出すものはどこに仕舞われていくのだろう。手で触れて、目に見えるもの以外は、どうやってその存在を確かめればいいのだろう。想いを共有した相手と二度と会えなくなったとして、片割れを失った想いはどこへいくのだろう。
「私の中に。……私の心を通して反響して、そうしていつかは語る貴方自身の魂の中へも」
毎日話すうちに、特段面白いと思われる事柄は尽きてきていた。それでも、どんなに些細で取るに足らない話をした日でも、先生は笑って俺の話が好きだと言った。
「お前さんを通した言葉が俺の中に戻っていくのならば、俺の中にもお前さんの心の欠片が宿るんだな」
「ええ。貴方の言葉を通じているから、私の中にも貴方の記憶が居場所を得るんです。……ああ、自分で言っておいて少し恥ずかしくなってきました」
「ははッ、滅多なことは口に出せないな」
たとえ明確な証明方法がなくとも、自分という存在はこうしてこの世界のどこかに残っていくのだ。誰にも見向きもされなくて構わないと思っていた自分の存在も、こうして。
「……ある男の話だ」
話してもいいかと目で尋ねると、先生は続けてと囁いた。
「ある男は、東京の高校を卒業した。今から十年ほど昔の話だ。高校を卒業して、男は旅に出た。旅と言えるほどのものでもない、ほとんど家出、いや勘当されたとでも言うべきか? ……とにかく、男は自由になりたかったんだな。それで家を飛び出した。家柄も学問も雑多なしがらみも何もかも捨てて、誰も自分を知らない遠くを目指して旅立った」
誰のために言葉を紡ぐのかもわからないままに口を開いた。きっとこの言葉達はこのときこの場所で居場所を得ることが決まっていた、そんな運命にも似た思いに背中を押されて、開けば自然とこぼれ落ちた。
「男は各地を放浪した。元々旅は好きだったから、この上なく幸せな日々だった。気がついたらどこかに身を寄せることなんて頭から消え去っていて、放浪こそ我が人生とまで思うようになっていた。……しかし、だ。旅暮らしもすっかり板についた頃に男はふと気づいてしまった。家を飛び出したかつてほど何かに心動かされることがなくなったと。何を見ても、誰と会っても、何かを感じたふりをしているだけで本当は全てに無関心だ。いつかはどこかに身を寄せたいと思うのは仮初めでしかなく、本当は全てから逃げているだけなのだと。足を止めるのが怖いと気がついた」
先生は小さく頷いた。
「その人はきっと、寂しかったのですね。誰よりも愛してほしいと願っているのに先に愛を与えてばかりの優しい人は、心の空白が増えていってしまうから」
ふわりとした視線を感じる。散漫に見えるのは薬が効き始めているからだった。
「私は、一時の止まり木に、なれたでしょうか……」
毛布を薄く積んだ背凭れにくたりと沈み込む体は、日に日に重さをなくしていくようだった。想いを、願いを誰かに少しずつ預けて軽くなっていく。指の隙間をすり抜けて、空へと近づいていく。
「男はやがて、一人の教師と出会った」
藤倉は語り続けた。聞く人もいなくなった部屋に、訥々とした低い声が流れた。
「教師は病に冒されていた。人には恵まれているが裕福ではなく、療養所に入ることも、都会で良い治療を受けることも叶いそうにはない」
春。満開の桜が咲きほこり、しかしそれさえ朧になるような、陽春の出会い。夕暮れの光の中に見た一抹の翳りに、何かを見出した気がしたあの日。
もう根無し草には戻れなかった。幸せなことだと思った。
「ありがとう」
ひとつひとつ、絡まった帯を解いていく。軽くなった身体と預けられて地に足をつけた身体は、いまや互いに手に持った最後の帯だけで繋がっていた。
手を離すのは自分ではない。最後の帯が手元に降りてきたら、もう足を踏み出しても崩れることはないだろう。二度と帰るところを見失うことはないだろう。
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