さて、僕がワタキミちゃんの運転するベスパに轢かれたのは十一月中旬のこと。たしか午前十時ごろだったと記憶している。
聖良ちゃんに失恋して立ち直れないでいた僕は、自宅近くの海岸へ風の声を聴きに行っていた。もしもそこにいちゃついてるカップルがいなかったなら(電子葉巻の煙を彼らに送り込むことで気を紛らわせていたけれど)、あるいはもしその海岸の風の声が濁声じゃなかったのなら、僕はその海岸の防波堤にそれはまるで慰安婦像のように座り続けて、ワタキミちゃんの運転するベスパに刺されるという幸運を授かることはなかったろうさ。
「目ん玉ついてねえのか、ブタ! 養豚場には交通ルールの教習ねえのかよ!」
この台詞は倒れてる僕に向かってワタキミちゃんが言い放った言葉なんだけど、このとき彼女は自分が逆走してるってことにまだ気づいていない様子だった。
「今の君の言葉で目玉飛び出してしまったかも。僕の目に目玉ついてます?」と僕はワタキミちゃんの姿をはっきりとこの目にしながらそう尋ねたわけだけど、彼女の答え(僕の目玉についての)を待たずに僕は謝ったんだ。それはね、どういうわけか体を張って彼女の逆走を止めようとした自分のほうに非があると気づいたからだよ。あやうく彼女を殺してしまうところだったんだ。華奢な女の子の運転するスクーターと僕が衝突したら僕を轢く女の子のほうの命があぶない。
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