摩子がバスルームから出てくるのは思いのほか早かった。入ってから二分くらいで出てきた。僕は摩子がバスルームから出てきたと分かったからカーテンを閉めた。
僕は振り向いて彼女を見るといったようなことはしなかった。バスルームから出てきた美女をチェリーボーイが目の当たりにするのはあまりに刺激が強すぎるんだ。
ほどなくして僕は摩子にベッドに座るよう命令された。したがって僕は彼女に背中を向けたまま、それはまるで将来に対する不安から頭痛に苛まれる蟹みたいなおぼつかない横歩きでベッドまで行って、そうして腰を下ろしたんだ。
困り果てたのはベッドに座ってからさ。というのも、座るポイントを確認したとき髪をアップにしたバスタオル一枚姿の美女の全身を偶発的に目にしてしまったのさ。彼女をまじまじと見ることはできないし、かと言って彼女をまったく見ないこともできない(僕は健全な男子なんだ!)。一方の摩子はというと、彼女はおしゃべりに興じてたよ、上機嫌で。冒頭で述べた肯定と否定の話だとか、普通という名の自己顕示の話だとか、アダンの木にまつわる神話とか、勝てば官軍というのは誤謬だけれど負ければ賊軍というのは無謬だって話等々、摩子はまるで矢に向かって的を投げつけるかのような感じでいろんな話を僕にしてたっけ。ママのことを訊かれたのもこのときさ。
「そういえばお母さんは元気? 荻堂亜加利さん」
僕は「元気だよ」とそれだけ言ってママの話を広げなかった。バスタオル一枚姿の女性とベッドの上で母親の話をするなんて不謹慎じゃないか。あと、摩子が芸能人を呼ぶように僕のママの名前を口にした理由についてはね、まあなんていうか、僕のママはちょっとした有名人なんだ。9.11のときも3.11のときもいろいろやらかしちゃったし、ときのアメリカ大統領と不倫しちゃったこともあったし――そうそう、新型コロナウイルスを沖縄に持ち込んだのは欧州で豪遊して帰ってきた軍用地主の息子のこの僕だって噂が立ったことがあったんだけど、それは誤った情報なんだ。欧州で豪遊して沖縄に新型コロナウイルスを持ち帰ってきちゃったのは僕じゃない。僕のママだ。
そんなことはさておき、ややあって摩子は脚を組みかえ「加害者の気持ちも分からないような奴に愛を語る資格はない」っていうちょっと刺激的な話を始めちゃったんだけどさ、彼女が脚を組みかえた瞬間、僕は彼女の左脚の内腿にあるそれに気がついてしまったんだ。言ったはずさ。僕は健全な男子なんだ。バスタオル一枚姿の美女が脚を組みかえようとしたら顔はそこを向いていなくとも眼球だけを瞬時にそこへやることが可能なんだ。そんなの朝飯前なのだ。
「それって」と僕は摩子を一瞥してから彼女の左の内腿を指差して尋ねたのさ。「トランプ?」
「ああ、これ」と言いながら摩子は左脚を上げてそれを僕にちゃんと見せてくれた。きわどいところまで見えて鼻血が出そうだったよ。「このあいだベルリンで入れてもらったの。ファーストタトゥー」
摩子の左脚の内腿にあったのは、トランプのハートのセブンのタトゥーだった。そのトランプはブリッジサイズで、絵柄は日本でも一般的な意匠のものだった。
僕は彼女に「どうしてハートのセブンなの?」と訊いた。すると摩子はルーカス・クラナッハの描いたユディトのようであり、またそれとはまるきり違うようでもある面持ちでこう答えたのさ。
「セブンは幸運の数字だからね。ラッキーセブン。ハートはチェリーボーイハンターとして生きる決意の表れっていうか――まあそんなとこ。トランプのデザインを選んだのはなぜかというと、これは私の役割をシンボライズしたものなの。亜男くん、トランプの札にはそれぞれ役割があるでしょ。エースにはエースの、クイーンにはクイーンの、ジョーカーにはジョーカーの。私はトランプの札の中で自分をハートのセブンだと思ってるの。私はハートのセブンとしてエースやクイーンを支える役割を担いたいなと思って」と摩子はそう言ってから僕にこんなことを訊いたんだ。「亜男くんは自分をトランプの札に例えると何だと思ってる? 自分にはどういう役割が与えられてると思ってる? まあ亜男くんはまだ自分の役割を自覚できてないと思うから願望でもいいよ」
「僕はプレーヤーかな」
僕がそう速答したのはウォーカーヒルでポーカーをやり過ぎたせいなんだ。摩子に見透かされていたとおりさ。僕は自分の役割なんて考えたこともない。僕の言った「プレーヤー」という返答には、特別な意図や深い考えがあるわけじゃないんだ。僕はおしゃべりする九官鳥のように何の考えもなくただその言葉をくちばしっただけなんだ。
「プレーヤー……」と言って摩子は俯いた。
「うん、プレーヤー」と僕は折り返してしまった。しかも軽い口調だったかもしれない。「スペードのエースだろうがダイヤのクイーンだろうが持ってればいいってものじゃないからね。要らないと思ったときはディスカードしなきゃ。あ、そうか! プレーヤーという役割! うん。プレーヤーという役割を果たしたいのかも、僕は」
摩子は僕に何の言葉も返さなかった。彼女は俯いたままだった。
僕は摩子の身と彼女の内腿に配られたカードの身を案じた。なぜって、摩子はそのカードを握り潰していたのさ。だから僕は摩子に「具合でも悪くなったのかい?」と声をかけた。そうして彼女の背中に手を添え当てようとした。下心などまったくない。むしろ僕はその手に大いなる人類愛を宿したつもりで、それこそその手を補助輪として彼女に使ってもらいたかったんだ。それなのにさ……摩子は僕のその手を――補助輪を拒絶した。
摩子が僕に罵声を浴びせ始めたのはそれからさ。このとき摩子の吐いた罵言は、とてもじゃないけど僕の口から発することはおろか記述することもできないよ。たぶん子供がそれを浴びたらショック死してしまうだろうさ。摩子が僕に浴びせた罵声はそのくらいのレベルのものだったんだ。このとき摩子の吐いたそれの中で生温かったものをひとつだけ挙げるとね、「クラスの全員がお前を嫌っていた! 先生も!」という台詞くらいかな。
僕は脱衣所に駆け込んだ。そうして急いで服を着て部屋を出たんだ。というのもさ、僕の悪口を言い尽くした、もしくは僕を罵るのもさすがに飽きたと思われるころ摩子が僕に「消えて」と命じたから……。
帰巣本能は損傷を免れてたよ。ホテルを出た僕は放心状態ながらも北へ向かっていた。僕は那覇市から北谷町にある自宅マンションまでのおよそ十五キロの道のりを歩いて帰った。僕がそんな距離を歩くなんて通常ではあり得ないことだよ。
摩子とはそれっきりさ。それっきり。でもさ、上原摩子こそ僕の運命を変えた人物だと言ってもそれは決して言い過ぎじゃないんだよね。どうしてかって? それはね、大学の卒業に必要な単位とチェリーボーイの卒業に必要な単位を同時に取得するのは困難であると僕に自覚させ、そうして大学の休学を僕に決断させたのは何を隠そう彼女――上原摩子その人なんだ。そうさ、この話は僕が大学を休学する一か月半ほど前の話、デスティニー婆さんの絵に衝撃を受けるほんのちょっと前の話なんだ。
摩子に拒絶されてから四か月ほど過ぎたある日のこと、僕は僕のことを嫌っているらしい高校の元クラスメイトの女子とアメリカンビレッジでばったり会って摩子の近況を聞くことができた。打ち寄せる波にも避けられてそうな顔――具体的に言うと、子供の絵描き帳によく見られる顔をしたその女子にさりげなく「摩子っていま何してるか知ってる?」と尋ねたところ、その女子はちょうど成人式後の同窓会のことで摩子と連絡を取り合ったらしかった。その話したがりな女子の話によると、摩子はワーキングホリデービザを取得して、ベルリン市内のカリーヴルスト店でアルバイトしているとのことだった。摩子がチェリーボーイハンターとして生きているのかいないのか、さすがにそんなこと訊けるはずなくてさ、それは分かんなかった。摩子の近況を聞けたことは嬉しかったさ。けど、成人式後の同窓会の連絡が僕に一切ないこともついでに知る羽目になって悲しくもなったよね。
でもまあ、断る手間が省けたってもんさ。その同窓会の連絡が僕にきていても僕はその会に出席できなかったわけだから。なぜって、僕はその時期ある女性と婚前旅行中でドバイにいたのさ。
チェリーボーイハンターの摩子〈了〉
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