「シャンインルゥ、ティエンアイルゥ……スーチュアンペイルゥ」
ランプシェードに淡く照らされた地図の上を、二本の人差し指が辿って行く。北京語を綺麗に発音している男の声は柔らかく低く、その息で女の髪がわずかに揺れる。
「ペイチントンルゥ……ナンチンルゥ、ピースホテル、和平飯店!」
男が笑いを含んだ声で頭を女の頭にこっつんと打ち付けると、弾みで頬杖が外れて女は地図の上に突っ伏した。男は女の背中に覆いかぶさって、髪を掻きやって細い首元にキスをした。女はビクッと反応して短い吐息をつく。男の唇はそのまま耳へ這って行き、上海市観光地図が二人分の体重でガサガサ鳴った。
ここ和平飯店で出会ったと思っていたけれど、実は二人はもう少し早い時間に顔を合わせていた。山陰路にある「魯迅故居」の十一時からのコースで一緒に見学をしていた。山陰路から甜愛路の緑の並木道を通って四川北路の繁華街に抜けるまでの道のりを、それと知らずに前後して歩いていた。そこからバスに乗って南下し、川を渡って北京東路を過ぎればその先に上海のメインストリート南京路。その果ての外灘を望む和平飯店、ここに二人とも宿泊していた。
和平飯店のベッドは清潔で柔らかだ。窓の外はすぐ黄浦江。川沿いに十九世紀の租界時代の建物がライトアップされ、きらびやかなクルーズ船が行きかっているけれど、カーテンは閉められたままだ。
オールド・ジャズ・バー、和平飯店名物の老人ジャズバンドの演奏はハッキリ言って下手くそだった。けれども曲目は誰もが知っている有名曲ばかりだし、シャンデリアに金色の楽器がピカピカ光って観光客のお祭り気分をどんどん盛り上げていた。明るく賑やかな「シング・シング・シング」が始まると、我慢しきれずに一人また一人とダンスフロアへ飛び出して踊り出し、ジャズマンが年にも似合わぬ肺活量でトランペットやサックスを大音量で鳴らし立てれば、これまた年甲斐もない激しいドラムソロが決まって興奮は最高潮に達した。狂騒状態のまま曲が終わると盛んな拍手や指笛が飛んだ。
フロアが急に暗転してミラーボールが回り始めて静かな曲が聞こえてきた。チークタイムに入ったのだ。踊り足りない人々は適当にペアを組んだ。ロマンティックな三拍子のメロディは「白い恋人たち」、それから「パリのめぐり逢い」、「太陽がいっぱい」……少し間延びしたフランス映画の主題歌メドレーが甘い煙のように流れてフロア中に充満した。
彼が彼女の手を取ったのは偶然だったし、彼女が素晴らしく踊りやすい相手だったことも多分偶然だった。彼女が彼のキラキラした真っ黒な目にドキッとして、ヒールの足元を滑らせて胸元に倒れ掛かったことも、咄嗟に支えた彼女の腰がすごく華奢だったことも、押し付け合った胸と胸の激しい鼓動、汗ばんだ熱い肌……衣服を通さずにそれを貪り合うまで十分とかからなかったこと……よくある偶然だったのかもしれない。でも二人はそれよりも前に会っていた。そのことを、なかなか通じない言葉を交わしながら確かめ合った。
「I am from VietNam, Lam」
「I am Tomoka, from Japan」
肌の奥の奥まで味わい尽くしてから、そういえばと名乗り合ってみたけれど、二人とも相手の名を覚えられなかった。
汽笛が低く聞こえて、彼女がすうっと身体を起こした。汗だらけの身体を手で指して苦笑し、シャワー、と言いながら浴室へ消えた。彼はそれをぼんやりと見ていたが、ふと濃い眉をひそめ、長い睫毛を下に落とした。
浴室を出た彼女はタオル地の白ガウンをきちんと着ていた。柔らかい髪を軽く束ね、テーブルへ行ってお茶を淹れ始めた。喉が渇いてたまらないのか、龍井の緑茶の色が出るのを待ちきれずごくごくと飲み干した。それからもう一杯淹れたお茶を彼にも勧めた。
彼はガウンを着てベッドの向こう側に立っていた。ランプシェードを挟んで、お互いの表情が薄ぼんやりと見えている。彼は彼女を見ながらおずおずと枕の下へ何かを差し込んだ。
何心もない様子で枕を上げた彼女は、そこに何枚かの百ドル札があるのを認めると首を傾げた。と、次の瞬間ハッと息を吸い込んだ。優しげな顔がたちまち憤怒の形相に変わり、切れ長の眦が吊り上がる。過ちに気が付いた彼が慌てて近寄ろうとしたところへ空の茶碗が飛んできた。自分の国の言葉で何ごとか罵った後、彼女は床に落ちていたバッグから何かを掴みだして、彼の顔めがけて投げつけた。
赤い日本国のパスポートに「上海フリーツァー四日間」の滞在日程表が挟まっていた。彼はパスポートを開いてゆっくりと彼女の名前を読んだ。
「SUZUKI TOMOKA、リン、ムー、ヨウ、チャー(鈴木友佳)……」
呆然とした彼に背中を向けて、彼女は脱ぎ散らかした衣服を拾い集めていた。パスポートを凝視している二つの黒い瞳から涙が溢れ出ているのにはもちろん気が付いていない。
彼は走り寄って背後から抱きしめた。
「佳々、佳々……」
何かを叫びながら抵抗する彼女を力づくで前を向かせ、彼は自分の胸に手を当て、バカ、と言って、自分で自分の頬を叩いた。更に彼女の細い手首を取って彼の顔を叩かせた。バカ、バカと言いながら。それしか日本語を知らなかったのだった。
長々とバカ、バカと聞かされ続けて彼女、友佳も終いには笑い出した。そうして彼の首に抱き着いて、流れる涙を拭ってやった。いつの間にか友佳の優しい白い顔にも涙が流れていた。
「チァーチァ」
私はチァーチァというのか? と尋ねた彼女に、彼はうんと頷いてぎゅっと抱きしめた。濡れた頬をくっつけたまましばらく二人は抱き合っていた。
悲しみの塊が溶けて、代わりに新しい欲情が突き上がって来ると、彼は彼女を抱きしめたまま持ち上げてベッドまで運んだ。ガウン越しに岩のように昂った男を感じた彼女も腰から恥丘がジンジン蕩けて流れてしまいそうだった。さっきシャワーで洗ったはずなのにもう何がなんだか分からない。男は女のガウンの裾をまくり上げ、女は男のガウンをはだけて両脚を腰に巻き付けた。沈むたび、動くたび、甘い痺れが熱い電流となって、腰の奥から脳髄まで一気に駆け巡る。ほどなく女は細い悲鳴を上げて痙攣を始めた。見下ろしていた男も堪え切れずうめき声を上げた。明滅する光に似た強烈な快感に身体をのけ反らせて一声叫ぶと、頭を下げて急速に暗闇へと落ちて行った。崩れ落ちてあえぐ二人をランプシェードが淡く照らしていた。
ほんの近くに汽笛が聞こえて、驚いて目を覚ましたら朝の八時を過ぎていた。カーテンを開けても外は薄暗い。小雨が降っているようだ。二人ともお腹がぐうぐう鳴っていた。
彼は彼女の手を引いてホテルの裏通りへ行き、人でごった返す朝の屋台でいろいろと買い込んでそのまま外灘へ出た。小雨のせいか人出が少ない広場のベンチに新聞紙を敷いて彼女を座らせると、熱々の白い饅頭に油条(揚げパン)を挟んで渡した。大きな豆乳のカップは二人共有で、ここに饅頭を浸して食べる。
「美味しい!」
思わず日本語で言った彼女の顔を見て、彼も豆乳を口の周りに付けたまま嬉しそうに笑った。外で見た彼女は別に美しくもない。細面の切れ長の目の下には隈が出ているし、口元には小じわが寄っている。彼は浅黒い丸顔で愛敬はあるけれども美男の部類ではない。
霧のような細かい雨が、黄浦江を行きかうクルーズ船の視界を曇らせるようで、汽笛だけがむやみに聞こえて来る。そんな中で朝食を食べ終えて油紙で手を拭うと、二人でレインコートを頭から羽織り身体を寄せ合って長い時間座っていた。何も言わないし身動きもしない。そっとくっつけた頭と頭はまだ熱を持っている。、繋いだ手先からはまだ電気が流れて来るし、膝と膝はいつでも炎を吹き出すくらいに熱い。残っているわずかな時間をかき集めるように、二人はできる限り身体を寄せ合った。
ふと彼がポケットを探ると、小さな手帳を彼女に手渡した。深緑色とえんじ色のそれは二冊のパスポートだった。深緑色のはベトナムのパスポートで、彼の顔写真と共に彼女には読めない名前が印字してあった。もう一つは中国のパスポートでかなり古ぼけており、使用不可の穴が空けられていた。開けると三、四歳の子供の写真があり名前は「林友佳」、出生地は「上海」とあった。
古いパスポートの写真を顔の横に並べて彼はにこにこと笑った。
「子供の頃に上海を離れた。すごく久しぶりに上海に帰って来た。そしてあなたに会った」
「私たち、同じ名前だったの」
「うん、僕も、あなたも、佳々(チァーチァ)」
彼女の目から涙が溢れた。
二人は一年後にまたここで会おうと約束をして別れた。女は今日の午後の便で帰国するし、男はこの後、出張でロシアへ行く。どちらにも帰らなくてはならない場所があり、捨てることのできない人々がいる。それでも二人は再会できると信じていた。何万キロ離れても、もう指先は互いの隅々まで知っている。同じ名を持つ二人はきっと、何度も何度も出会うに違いないのだ。
松下能太郎 投稿者 | 2020-03-27 23:00
男女の交わりの描写では、肉感的かつ詩的な切り取られ方をされているなあと思いました。海外旅行で自分のパスポートを他人に投げつけるのはとても危険な行為だなあとヒヤヒヤしました。
浅野文月 投稿者 | 2020-03-28 00:11
素晴らしい作品だと思いました。
私も上海には二回ほど行ったことがあるので、多少行っていない方よりは入り込めた感があったかもしれませんが、上海独特の不思議なオリエンタルな雰囲気が漂っています。最後のオチも素晴らしいと思いました。
欠点を挙げるとしたら、まず、副題はいらないかと思います。『佳佳上海夢』だけで充分です。もう一つはセックスシーンの描写が(申し訳ないです)上手くない。他の人が書いているように、それまでの文体と違っていると感じました。
ただ、上記2点を含めても良い作品だと思いました。
駿瀬天馬 投稿者 | 2020-03-28 11:32
>外で見た彼女は別に美しくもない。細面の切れ長の目の下には隈が出ているし、口元には小じわが寄っている。彼は浅黒い丸顔で愛敬はあるけれども美男の部類ではない。
という部分がいいなと思いました。
まるで映画のような一夜が明けて、朝の光の下で見たお互いの姿が急に(二人にとっても、読者にとっても)現実味を帯びて描かれていて、それでもなおお互いを愛しく思っている気持ちがわかり、夢からさめてもその先へ続いていく物語という感じで良いなと思いました。
Fujiki 投稿者 | 2020-03-29 10:53
情感に満ちた雰囲気がいいし、やはり文章がうまい。ただ『二十四時間の情事』のオマージュであれば、もっと死の匂いが欲しいと思った。二人それぞれの過去について何か示唆があったほうが、一夜の情事のせつなさがぐっと引き立つと思う。
松尾模糊 編集者 | 2020-03-30 11:38
最後別れる前に饅頭を食べるシーンが最高ですね。夢が覚めて現実に戻る朝の倦怠感も感じました。名前で物語が作れるのは強いですね。中国語はこれから必須かもしれません。
Juan.B 編集者 | 2020-03-30 12:31
文字通り、そこに行って何かをした人間でなければ書けない小説だった。一夜なのに尾を引きそうな別れの部分も、惹き立っている。元の映画はまだ見た事が無いが、確かに上海の租界の雰囲気はフランス映画によく合うだろう。俺もいつかは上海に行きたい。