図書館のあの子

小雪

小説

2,996文字

図書館に通っている君たちなら、誰もがこの出会いを経験した、あるいはしたいと思っているのではないだろうか。断言する。この出会いにときめかないものは、本好きではない。

向かいの席の女の子が、何やら重たそうな本を抱えて戻ってきた。

ルイ・ヴィトンのバッグで席を取っていた大胆な彼女。僕は、盗まれないかとちょっと心が落ち着かなかったからホッとした。でも、彼女はそんな僕の心配をよそに、黙々と本を開き始めた。本のタイトルは『罪と罰』。無学な僕でも、ロシアの有名な作家の代表作だってことは知っている。もちろん読んだことはない。

 

ぺらり、ぺらりとページをめくる音が聞こえる。平日の昼の図書館は実に静かだ。僕たちの他には、一個先の六人掛けのテーブルに一人。向こうで、顎に手を当てながら本を探している人が一人。司書が一人。グループで来ている人たちはいないためか、館内で会話は全く聞こえない。実に居心地がいい。

そして「僕たち」、とつい調子に乗って一緒に括ってしまったけれど、僕と彼女に面識はない。じゃあ、なぜ目の前に座っているのかって? 僕にも分からない。僕は、自分が気に入って使っているこの窓側の隅っこの席を、いつものように座っていたんだ。そしたら、彼女が後から目の前にバッグを置いた。それで今帰ってきて、本を読み始めたというわけである。他にも席は空いていたはずなのに。もしかして、僕に気があるのだろうか? いや、考えすぎか。

 

薄めの化粧に、緩やかにパーマのかかったロングヘアー。決してオシャレに疎いというわけではなさそうな彼女が、どうしてこんな時間に一人で難しそうな本を読んでいるのだろうか。あ、いや、別に、図書館がオシャレじゃないとか、女の子が難しそうな本を読むのがおかしいとか言っているんじゃないんだ。いや、言っているのか。うん、だから僕はモテないのか。年齢イコール彼女いない歴は伊達じゃない。下手な詮索はやめよう。……でも気になる。

確か、『罪と罰』の著者の名前はドストエフスキーとか言ったっけ。僕はちょっとした好奇心から、手元のスマートフォンを見た。ウィキペディアによれば、十九世紀後半のロシア小説を代表する文豪であるらしい。「その著作は、当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に影響を受けた知識階級(インテリ)の暴力的な革命を否定し、キリスト教、ことに正教に基づく魂の救済を訴えているとされる」。ふむ。分からん。

もしかしたら、彼女は大学生なのかもしれない。彼女が所属しているゼミやらなにやらが、ロシア文学やらなにやらを専門としていて、課題とかで嫌々ドストエフスキーを読まされているのかもしれない。それを証拠に、彼女は何かを必死にメモしている。読んではメモして、読んではメモして。読んで――にしては、ちょっと顔が真剣じゃないか。どうやら嫌々読んでいるのではなさそうだ。

 

……気が付いたら、同じページを開いたまま三十分が経っていた。慌てて僕は手元を見る。しかし、なんだか落ち着かない。読もうと思っても文字が頭に入ってこないのだ。それでも、僕は集中して読み始めた。「そこで弟子は、机の上のその異様な鳥も、やはり地獄変の屏風を描くのに入用なのに違ひないと、かう独り考へながら、師匠の前に畏まって……」だめだ。机の上に鳥なんかいたか。師匠って誰だっけ。誰が今、考えているのだろうか。僕は今、本当に『地獄変』を読めているのだろうか。

必死にページにしがみつくも虚しく、次に進んでは戻り、次に進んでは戻りを繰り返す。目の前で、ページが軽快にめくられる音が聞こえる。ちらとそちらを見ると、メモ用紙にしていたノートが終わってしまったのか、右手でページを繰りながら、左手でバッグの中をごそごそと探って新しいノートを取り出していた。僕は恥ずかしくなってきた。彼女はあんなに本にのめり込んでいる。僕は――いったい何をしているのだろうか。

しかし、『地獄変』を読もうとすればするほど、ますます彼女のことが気になってしまう。僕は無理やり先に進んだ。だが、物語は全然頭に入ってこない。再び彼女の方を見る。彼女は、本に指を当てて、集中して読んでいる。僕も真似して本に指を当ててみる。そして、ゆっくりとなぞってみる。ん? あれ、前の行はなんて書いてあったっけ。ダメだ。結局、読めていないじゃないか!

 

無理。もう無理。ちょっと気分転換をしてこよう。僕は、本を潔く閉じて立ち上がった。こういうときは、集中して読める本が良い。古文はダメだ。外国文学もダメ。学術書なんてもっての外。――というわけで、入り口付近にある新書が置いてあるコーナーに立ち寄ってみた。さて、何を読もうかな。あれなんか読みやすそう。これなんか……あ、『本を集中して読む四十八の方法』だって。今の僕にピッタリじゃないか。これを読めば、彼女の前で本を読めるのだろうか。

僕はまた、ちらりと彼女の方を見た。残念ながら――本当に残念ながら――新書コーナーから彼女の姿は良く見えた。ちょうど彼女が伸びをしているところだった。大きな口を開けて両腕を思いっきり上に上げている。かわいい。あんな顔もするのか。真剣な顔もいいけど、あくびしている顔が僕は好きだ。

もし、僕がもし、彼女に話しかけて、彼女が笑顔で答えてくれて、ひょっとするとデートなんかで図書館なんかに来たら、一体どんな話をするんだろう。ドストエフスキーの好きなところでも語ってくれるのだろうか。もしかしたら、僕はとっても嫉妬深くて、笑顔でドストエフスキーを語る彼女を見て、ドストエフスキーを相手に嫉妬してしまうかもしれない。はは、きっと彼女はそんな僕を見て首をかしげるだろう。そうしたらなんて弁明しようか。「僕もドストエフスキーと同じく実存主義に賛成するよ」とかって言っちゃおうか。うーん、ちょっと引かれるかな。

……キモいな。僕は手に持っていた『本を集中して読む四十八の方法』を開いてみた。目次を見る。「静かな場所を選んで本を読みましょう」という項目が見えた。まったく、のんきなもんだ。そんなんで本が集中して読めたら、警察なんかいらないんだよ。そんな平和ボケしたことを言ってないで、早く、あの彼女をどうにかしてくれ。どうにかして、彼女を僕の頭の中から消してくれ。例えば、本を読むのをやめさせてくれ。帰らせてくれ。いや、帰らせるだけじゃ不十分だ。殺してくれ。殺すのは倫理的にダメだと言うのなら、おならでも勧めてくれ。そうしたら幻滅するから。いや、しないかもしれないけど。……僕は彼女と付き合いたいんだよお!

ふとまた彼女の方を見た。あれ? いない。さっきまでいたのに。本も、バッグも置いていない。どこに行ったのだろうか。――と、振り返った瞬間、僕の肩に誰かの手が置かれた。「ひゃうっ!」と情けない声を上げて振り返ると、果たしてそこに彼女はいた。彼女は笑顔で、僕に話しかけた。
「さっきから真剣に何を探しているんですか? あっ、その本。『本を集中して読む四十八の方法』ですよね。偶然ですね。実は私もその本を読んだんですよね」
「は、ははぁ」
「でも、やっぱりダメです。全然役に立ちませんでした。だから今日は、こうして話しかけてみたんです。目の前に座ってみたんです。あなたがあんまりにも本に集中しているものですから。……でもちょっとだけホッとしました。あなたも、同じ悩みを抱えていたんですね」
「あ、は、はい、そ、そうです」
「もし良ければ……一緒に本を読みませんか?」
……神よ。

2019年10月3日公開

© 2019 小雪

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