ざわざわ

愚人

小説

3,640文字

ある湿っぽい夏休みの朝、三年C組の女生徒がコタツのコードを首に巻き付け自宅の二階から飛び降りた。二階の窓からぶら下がった女生徒は糞尿が垂れ流しだったと、勝手口に座り込んだ酒屋の親父が僕の母さんに得意気に話していた。

僕はそんな酒屋の親父の下品なあご髭をそっと見つめながら、どうして女生徒は夏だというのにコタツのコードを選んだのだろうと思うと、不意に脇の下がざわざわとした。

僕の脳裏に、狂ったように蝉が鳴きわめく夏の朝、蒸し暑い部屋の押し入れの奥から一心不乱にコタツのコードを引きずり出す女生徒の阿修羅のような形相が浮かんだ。

それが女生徒の人生最後の行動だったのかと思うと、とたんに僕の世界観が変わった。

その日から脇の下のざわざわは止まらなくなった。次第にざわざわは全身を駆け巡り、僕は居ても立ってもいられなくなった。

さっそくインターネットで自殺の名所を検索した。ズラリと連なる情報を次々に目で追って行くと、僕の家のすぐ近くにある巨大病院の名前がポツンと載っているのに気付いた。その巨大病院は僕が生まれる前からずっと廃墟のままの悲しい建物だった。

深夜零時、立入禁止と書かれた金網を乗り越えた僕は、廃墟の病院に忍び込んだ。

その廃墟の病院には未だ消毒の匂いが漂っていた。埃が舞う暗闇の中を、割れた窓から差し込む月の灯りを頼りに進んだ。荒れ果てた病室をひとつひとつ覗いて回っていると、今にもその破れたカーテンの向こうからコタツのコードを首に巻き付けた女生徒が出て来そうな気がして背筋がざわざわした。

いくつもの階段を下り、そして上った。病院の中はまるで迷路だった。壁に殴り書きされたスプレーの落書きが唯一の目印だった。

一階の廊下に出ると、廊下の隅に目玉を見開いたままの赤ちゃんの人形が転がっていた。その人形を何気に蹴飛ばすと、ひっくり返った人形の後頭部がライターのような物でジリジリに焦がされており、それを見た時、初めてここが怖いと感じた。

長い廊下の突き当りの窓に、近くを走る高速道路のオレンジ色した街灯がぼんやりと浮かび上がっていた。暗闇にぼんやりと輝くオレンジの光は、まるで『未知との遭遇』のワンシーンのように幻想的だった。そんなオレンジの光の中から、ふとガサゴソと人が蠢く気配と、男女の熱っぽい息づかいが聞こえて来た。

そんな気配を感じたのは、『手術中』と書かれた赤い看板がぶら下がる手術室からだった。ヤッてる、と心がざわざわした。今までの恐怖と幻想感は消え去り、猟奇的なエロスだけが僕を包み込んだ。

廊下に散乱する砕けた注射器や銀色に輝くピンセットをジリジリと踏みしめながら廊下を進むと、手術室の鉄の扉が僕の前に立ち塞がった。

そんな鉄扉には、『廊下での雑談・喫煙は禁止します』とペンキの剥がれた文字が書き連ねられていた。そんな鉄扉にそっと耳を押し付ける。手術室の中からは何も聞こえて来ず、鉄扉の冷たさだけが僕の頬に伝わった。

鉄扉を少しだけ開けられないものかと、まるで民家の玄関を物色するコソ泥のように鉄扉を隅々まで調べた。しかし、鉄扉を支える蝶盤はチョコフレーク色の赤サビに侵され、恐らく少しでも扉を開こうとすればB級ホラー映画にありがちな軋んだ音を激しく響かせるであろうと予想でき、うかつに手は出せないと僕を諦めさせた。

と、その時、不意に背後から、誰かが「ちっ」と舌打ちするのが聞こえた。ビクンっと背筋を飛び跳ねた僕が慌てて後を振り向くと、手術室の廊下を挟んだ向かいにある座敷の小部屋に、ぽつんと人が座っているのが見えた。

その座敷の入口には、『手術待合所』と古臭く書かれた木製の札が錆びた釘で打ち付けてあった。それは恐らく昭和初期頃に書かれたと思われる程に黒ずんだ札だった。

その部屋の座敷であぐらをかいでいる人は、暗闇の中で「ちっ、ちっ」と何度も舌打ちをしていた。それが僕に対しての舌打ちなのか、それとも奥歯に食べカスが詰まっているのかは定かではないが、しかしその舌打ちは無性に僕の神経をざわざわとさせた。

高速道路のオレンジ色の光がぼんやりと差し込むその部屋を、僕はそこに立ちすくんだまま恐る恐る凝視していた。すると、いきなり部屋の中の人がそんな僕に向かって、おいでおいで、と手を振った。逃げるタイミングを失ってしまった僕は、排水口に吸い込まれる汚水のようにその部屋に吸い込まれてしまったのだった。

その部屋は、まるで田舎の田園地帯にポツンと佇む『鄙びたバス停』のような雰囲気だった。座敷の畳は完全にダメになっており、歩く度にスニーカーの踵がグニャと沈んだ。天井からは割れた電球の付いたソケットだけがぶら下がっていた。

部屋は全体的にオレンジの光に包まれていた。高速道路の街灯が薄っぺらい擦りガラスの窓に反射し、サイケデリックなステンドグラスのように輝いていた。

そんなオレンジの光に包まれている人はおばさんだった。年齢は全くわからないが、確かにその人は女であり歳も若くはなかった。

おばさんは、ダメになった畳の上にペタリと座っていた。くしゃくしゃになっている毛布や布団を乱暴に撥ね除けると、オレンジの光線の中に大量の埃を狂喜乱舞させながら、そのポッカリと空いたスペースをジッと見つめて「座るかね」と呟いた。

おばさんの横に腰を下ろした僕は冷たいコンクリート壁に凭れながら無言でざわざわしていた。

正面の壁に貼ってある『献血のお願い』と書かれたポスターには看護婦の格好をした桜田淳子が笑っていた。

過去何十年にも渡り、この『手術待合所』には、愛する者の手術を神仏に祈る思いで待つ者達が、悲痛な表情でジッと潜んでいたに違いない。そう思うと、ふと桜田淳子のその笑顔が無性に不謹慎に思え、首筋がざわざわして仕方なかった。

おばさんは、僕に何やらスーパーのお惣菜パックのような物を差し出しながら「食うかね」と言った。そのパックの中にはドロドロとした奇妙な物が山盛りにされていた。香りは無く、色は窓から注ぎ込む街灯のオレンジ色で掻き消されていた。

「いらない」と小さく首を左右に振ると、おばさんは指でソレをグニグニと摘みながらぺちゃぺちゃと食べ始めた。

おばさんは酷く汚れたおばさんだった。パサパサと音がするナイロン地のジャージに左右柄の違う靴下を履いていた。

その身なりや匂いからして、恐らくホームレスだろうと思った。

ほとんど前歯は無かった。背中まで伸ばした髪は潮風に晒されていたかのようにごわごわと固く、肌は土人のように黒かった。そんなおばさんの全身からは、雨の日の犬小屋のようなニオイが漂い、僕はそのニオイを嗅ぐ度に後頭部をざわざわとさせていた。

おばさんはその変なものを半分残したまま畳の上に置くと、いきなり僕のズボンの股間に手をあて、そこを手の平でスリスリと撫で始めた。

「ヤメて下さい」と恥ずかしそうに言うと、「ヤメません」と言った。

初めて陰部を舐められた。そのまま噛み千切られるのではないかという恐怖心がざわざわと僕を襲った。

しかし僕の陰部はすぐに固くなった。おばさんはそんな僕の陰部を見ながら「それみなさい」と怒ったように呟くと、パサパサと音を立てながらジャージのズボンを脱ぎ始めた。

オレンジ色の光に照らされるおばさんの生足は、毛を毟られた鶏のように貧弱な足だった。

おばさんは、腐った畳の上に、いつの時代のものかわからない『アサヒグラフ』をぺしゃりと敷き、「ここに尻を乗せるかね」と言った。

素直にそこに尻を乗せながら仰向けになった。ざわざわは下半身に集中していた。

おばさんはボロ雑巾のような顔で僕を見下ろした。そして自分の指でワレメを広げながら僕の上に乗って来た。僕を跨ぐおばさんの股間からは、『魚松』の裏の空き地に積み重ねられた発泡スチロールと同じ生臭さが漂っていた。

腐った畳がユサユサと揺れると、足下に転がっていた齧りかけのリンゴがゴロゴロと転がり、その度に一匹の蝿が飛び立っていた。

あっという間の童貞喪失だった。快楽とか欲情とか興奮といった感情は全くなく、ポスターの桜田淳子にそのシーンを見つめられている事だけがただただ恥ずかしく、僕は空しいざわざわ感に包まれた。

精液とおばさんの汁にまみれた陰部をそのままズボンの中に押し込んだ。そこで初めて尻の汗でぐっしょりと湿った『アサヒグラフ』の表紙が田中角栄である事に気付き、ふと娘の田中眞紀子に申し訳ないと思うと、なぜか無性に笑えて来た。

おばさんはパサパサと音立てながらズボンを履くと、再びスーパーのパックを僕に差し出しながら「食うかね」と言った。

「食う」と言ってそのドロドロとした物を指で摘んだ。変な味がした。ドロドロの中にコリコリとする物を奥歯に感じた。それをプッと吐き出すと支那チクだった。

桜田淳子のポスターを見上げた。いつしかざわざわは消えていた。コタツのコードで首を吊った女生徒に少し近づけたと、ふと思えた瞬間だった。

 

(ざわざわ・終)

2012年4月23日公開

© 2012 愚人

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