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白装束姿の中也を見た野々村香は初めとても胡散臭そうな表情を浮かべたが、綺麗な顔立ちの彼と目があうと、何故か慌てたように俯いた。結人はそんな様子を観察しながら、対価のない日曜日の時間外労働にも関わらず、これから行われる「儀式」に胸が高鳴ってくるのを感じた。果たして本当に上手くいくのだろうか?不安はあるが、やるだけのことはやってみよう。それにしても半日の間に中也はこのような小道具をどこから借り寄せてきたのだろう。長年の付き合いではあるが、彼についての謎は未だに多かった。中也は大げさな白装束以外にも細長い棒の先に白いふわふわとした紙が大量についているものも持参していた。これは大幣と書いて「おおぬさ」と呼ばれるものだと先ほど中也から教わった。
「彼が昨日の夜に電話でお話しした友達の中村中也です」
「初めまして。少し騒がしくなるかもしれませんがよろしくお願いします」
野々村香は困惑気味に二人の男の顔を交互に眺めてからお辞儀を返した。
「それで、大河はどうなっているのでしょうか?」
「呪われているとおっしゃっていましたね」
「昨日桃田先生が帰ってからもまた吐いてしまって。その時だけ顔を見ることができるんですが、掃除が終わるとすぐに部屋を追い出されるんです。コーラだけは飲めるみたいなんですが」
「なるほど。まあ、たぶん大丈夫です。結人が頑張って準備してきてくれたんで」
中也は何故かとても嬉しそうに笑った。それを見て結人は今朝の格闘を思い出し、危なく野々村香の目の前で彼の頭をどつくところだった。まったく、なんて性格だ。中也は結人に困難が降りかかれば降りかかるほど嬉しそうに笑ってその話を聞きたがるのだった。去年の冬、結人が奈緒の浮気を疑って相談した時も「だめだ、ちょうどいい」と言って笑い転げていた。もちろん彼自身にも相談相手を間違えたという過失はあったが。しかもその浮気騒動には中也が関わっていて、結人のために二人で誕生日プレゼントの手作りアルバムを作っていたというのだからタチが悪い。野々村香はもう一度中也の姿を上から下まで眺め回し、不安げに結人へ向き直った。
「それで、どうするのでしょうか」
結人が今から何をするのか説明しようとすると、それを遮って中也が自信満々の表情で大幣を振った。
「呪いを解くのです」
それ以上の説明はいらないということなのだろう。野々村香はまだ不安げだったが、爽やかな彼の笑顔に押し切られそれ以上何も聞き出すことはできなかった。それから二人は彼女の後ろについて階段を上がった。
部屋の前で中也は「それでは」と言って桃田に目配せを送る。頷いて、桃田は母親の方を向いた。
「しばらく下で待機していてもらえますか?」
「でも」
「そうしないと、うまくいかないかもしれません」
「じゃあ、私はどうしていればいいでしょうか?」
気に入ったのか、中也はまた大幣をわさっと振って笑顔を向けた。
「掃除の準備でもしておいてください」
「掃除?本当に、いったい何をするんですか?」
そのやりとりでもう面倒になった中也は結人の背中をわずかに押した。
「野々村さん、大丈夫です。危ないことはしません。何かありましたらすぐ呼びますから」
でも、といつものように逡巡する野々村香の背中を押して半ば強引に階段を降りさせた。その間に中也は清めの塩を準備し、どこか楽しそうに結人を振り返った。
「よし、いっちょやったりますか」
「だな。僕もはやくこれを処分したいし」
忌々しそうに小さな袋を掲げる結人を見て少し笑って、睨みつけられた中也は居住まいを正した。頷きかけ、扉の方へ顎をしゃくる。結人は一つ咳払いをしてから扉をノックした。
「大河くん、起きてる?」
「さっきからうるさい」
「ごめんごめん。今日もコーラ持ってきたよ、開けてくれる?」
「お母さんが買ってきてくれたから今はいらない」
ほほう、といきなり序盤の作戦が崩れた中也は嬉しそうな声を上げた。結人は相方の方を振り返る。
「どうする?」
「正攻法でいきますか」
結人が正攻法って何だと思っている間に中也はドアノブをガタガタ揺らしながら「悪魔よそこにいるのはわかっているんだぞ!」と叫び出した。結人は下から母親が上がってこないかと階段を振り返る。案の定、階段の下から野々村香が顔を覗かせていた。結人は当惑した笑顔を浮かべながら大丈夫ですと頷きを返しておいた。そしてふたたび結人をみると彼は「いや違った、悪魔じゃなくて呪いだっけ」などと言って自分の演技の入りに不満を示していた。つまり何もかも思いつきで行動しているのだ。
「大丈夫か?」
「わからん」
それでもしばらく仕方なく悪魔設定でわめいていると、さすがに怖くなったのか中から「開けるからやめて!」と大河の叫びが聞こえた。
「想定通りやね」
「うそこけ」
ややあって鍵が開く音がし、おそるおそる大河が顔を覗かせた。
「だれ?」
「よう、君が大河か。俺は呪術師だ」
困り眉で引きつった表情をする大河を見て結人は中也を押しのけて笑顔を向けた。
「大河くんこんにちは。この人は僕の友達だから安心して。とりあえず中に入っていい?」
と結人が取り繕おうとしている間に中也は大河を抱えて部屋に押し入るのだから呆れた。それでもとりあえず第一段階はクリアだ。そしてここからが本番である。
「だれ?」
「呪術師さ。大河に呪いをかけた女の子よりも強い、ね」
「なんで知ってるの?」
「呪いを使うとね、わかるやつにはわかるんだよね」
大河はそう聞くとやはり自分が呪われているのだと思ったのか泣き出しそうな表情になった。
「まあ安心しろ。俺はすごい呪術師だから。そんなガキンチョの呪いさっさと解いてやるよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと。ただ大河もちょっと頑張らないといけない。覚悟はあるか?」
大河が不安げに顔を向けてきたので、結人はしっかりと頷いてやった。パジャマ姿の大河はふうっと長い息を吐くと、中也に頷いた。
「死にたくないな?」
「死にたくない!」
「よし!まずは少し準備するから待ってろ」
言うが早いか中也は大幣を振り回しながら部屋の四隅に向けて清めの塩を適当に投げつけ始めた。その様子を大河は口をあんぐり開けて見つめていた。それも無理はない、と結人は思った。初対面の白装束の大人がいきなり奇声を上げながら自分の部屋に塩を撒き散らしているのだ。一体何を言えるだろうか。それにしても少しパフォーマンスが過ぎるのではないか、と思ったがその男の表情を見るにただ楽しくなっているだけなのだろうと想像した。しばらくして満足したのか、中也は急に真面目な顔になり、大河の前に仁王立ちした。小さい子供はその変な大人を目を丸くして見上げていた。
「さて、準備は整った。大河はどうだ、いけるか?」
「え?うん」
結人の目には明らかに大河の心の準備は出来ていなかったが、認知心理学者のくせにそんなことは気にしないらしい中也はさっそく少年の後ろに回り込んで抱きかかえるように腹の前で手を組んだ。
「感じるぞ。ここに呪いの権化が巣食っているんだな。それはおそらくゴキブリの姿をしているのだろう。今追い出してやる」
そして中也は戸惑う大河の後ろでビートルズの「Help!」を歌い出した。それが彼流のお経らしい。そろそろ笑い出しそうな結人は中也の目配せを察し、慌てて準備を始める。ここからはタイミングが肝だ。
「がんばれよ大河」
中也は耳元でそっと囁くと、何が何だかわかっていない大河の横隔膜を後ろから締め上げて刺激した。ハイムリック法と呼ばれる故意に嘔吐させる方法だった。握った拳で抱きしめるように締め上げるのを何度か繰り返す。驚いた大河は目をひん剥いて苦しそうに暴れるが、数回繰り返すと口が顔から飛び出そうとするように嘔吐した。ここ数日ほとんど何も食べていないと聞いていたので出てくるのか心配したが、ビシャビシャの胃液が床に撒き散らされた。そしてタイミングを見計らって結人は袋からそれを解放した。
「大河!見ろ!」
中也が指差す先には吐瀉物の中から今這い出してきたようにゴキブリがもがいていた。それを見た大河は思わず悲鳴をあげてベッドに飛び上がった。そして逃げていくそれをなんと中也は大幣で叩き潰してしまった。振り返った彼は実に満足そうな笑みを浮かべていた。
「これでお前の呪いは解けた。どうだ、俺すごいだろ」
しかしベッドの上の大河はショックのあまり失神してしまっていた。結人は慌てて少年に駆け寄り肩を揺する。
「大河くん!大河くん!」
「こいつちゃんと見たんだろうな」
「おい、お母さん呼んでこいって!」
「大河!」
呼びに行く必要もなく叫び声を聞いた母親は階段を駆け上がってきていた。
「まったく、これで記憶まで失ってたらとんだ骨折りだぞ」
「何してるんですか!」
「ああお母さん。たぶんこれで片付いたと思いますがね」
白装束姿で一人満足げな男を押しのけて母親は息子を抱きしめた。
「大河、ああ、どうしてこんなことに!」
「大丈夫ですよ。たぶん起きたらお腹減ったとか言いだしますから、とりあえず床掃除して、ご飯でも作っておいた方が……」
「帰ってください!ああ、大河、どうしよう、パパに電話しないと。病院、ああ日曜日だから……」
中也は結人を見て肩をすくめた。「帰ろう」とその変人の背中を押す。結人は野々村香に「失礼します、何かあったら連絡ください」と伝えて野々村家を後にした。
「やばかった?」
「まあまあやばかった。やっぱり事前に説明しておくべきだった」
「そうかー、だよなー。ありゃビビるよな親なら」
「ビビるよ。悲鳴聞いて駆けつけたら失神してんだから」
車内ではさすがに中也も罪悪感を覚えたのかしばらくしゅんとしていた。周りを気にしない行動をとるくせに、怒られることにはあまり慣れていないのだ。大胆なのか繊細なのか、さっぱりわからない。
「あれで治るといいんだけど」
「治らなかったら僕明日から職場でやばそうなんだけど」
「だよねー」
「てか中也もあれでゴキブリ殺しちゃってよかったのか?借り物でしょ?」
「うん、やばい。あの時はなんかテンション上がっててね、気づいたらやってた。どうしよ」
お互いやってはならないことをしでかしてしまった気分で車は静かに帰路を走る。そのまま衣装を返しに行くという中也を最寄り駅で下ろしてから、結人の不安はますます募っていった。ハローワークって日曜はやってないんだっけ、と検索するほどに。しかし十二時ごろに泣きながらかかってきた野々村香からの電話でそんな憂慮は綺麗さっぱり拭われた。
「さっきまで心配になる程ぐっすり眠ってたんですけど、というか本当に気が気でなくて、正直に言うと訴えようとしてたところなんですけど、起き出すとあの人が言っていたようにお腹減ったって言いだして。もうすっかり元気になったみたいで、今もまだカレー食べてます。それはもう貪るように。本当にありがとうございました!それで、あの、白装束のお兄さんに謝っておいてもらえませんか?私、とても失礼なことを……」
「それはよかった、本当に!あいつのことなら大丈夫です、すぐ伝えておきますので。とにかく大河くんのそばにいてあげてください」
「はい、はい、ありがとうございます、本当に、どうなることかと、まだわけがわからないのですが。また説明していただけますでしょうか?こういうことがもうないとも限りませんし」
「わかりました。こちらこそ説明もなしに、申し訳ありませんでした」
「いえいえそんな!本当にこちらこそ申し訳ございません。え?おかわり?また?ちょっと待って、それでは、失礼します、火曜日には塾の方へ茜を連れて行きますので」
電話を切った結人は、思わずベッドに倒れこんだ。本当に良かった。いや、余韻に浸る前に中也に電話しないと。それで結人は体を起こし、さっそく電話をかけた。まるでそれを待っていたように相棒はすぐに出た。
「治った?」
「治ったって!大成功じゃ!」
「そりゃよかった。塾辞めなくて済んだな」
「ほんとに!さっきまでこれからどうしようか本気で考えてたもん、マジで。治ってなかったらどうなってたことか」
「そんときゃ二人で探偵事務所でも開いてたな」
「中也と?お前信じらんないもん。突然どっか消えたりしそうだし」
「えー?まあ俺もそう思うけど。ま、これで一個貸しな」
「ああ。ん?まあ、そうだけどさ。それなら僕はお前にいくつ貸しがあるんだろう」
「おいおい、そんなの申告しないとカウントされないんだよ」
「申告制なの?ずりいな、聞いてないぞ」
「社会人に聞いてないは通用しないんだよ」
「社会人にもなってないやつがよく言うよ」
電話の向こうで大きな笑い声が聞こえた。その時、結人の頭にふとある疑問が浮かんだ。
「でもさ」
「ん?」
「その女の子はどうしてそんなことをしようと思ったんだろう?」
しばらく沈黙が続いた。そして中也は、どこか嬉しそうにこう言った。
「まだ事件は終わっていない、か」
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