男と女性

yohei

小説

28,282文字

どこかの新人賞に出して、落ちたやつ(群像だったような気がする。ここなら佳作もあるし、いけるんじゃないか、と思ったが、その前の段階であった)。ネタの使い回し。よく出そうと思ったものだ。

 

わたしにとっての一日が、今日も始まる。爪の中に不快感(これはきっといつものように、寝ている時に頭をかいてしまったのだろう。たまに血の色がまじっていることもある)を抱きながら布団をかぶってしばらくうだうだしたあと、手を馬油のせっけんで念入りに手を洗い(今まではふつうの殺菌石鹸で洗っていたのだが、手が荒れてしまったので変えた)、そのあと充電器につけたままで携帯の電源をつける。
つけてしばらくは、携帯のうごきが安定しないので、顔に化粧水と乳液をつけたあと、わたしは顔のマッサージと筋トレをしはじめる。目を大きく見開き(口も同じようにして)その次は反対に目と口を真ん中に集めるように力を入れる。それが終わったあと二重まぶたをつくるマッサージをして(アイプチやアイテープは皮膚がのびる、ということをきいたのでやめた)涙袋をつくるマッサージもし、やっと携帯を見た。
さいしょに(というかそれしかやることがないのだが)メールのかくにんをする。
いくつかのメールがきている。〈AUをご利用のお客様へ メールボックスにメールが溜まっております。下記より不要メールの削除をお願いします〉〈送金完了しています〉わざわざどうも。
そして日本人のともだちすらほとんどいないわたしにアレクサンドル、ナターシャ、マリエ、ティターニャが〈ハイ〉〈ハロー〉とあいさつをしている。
国際人の気分になっているなか、見慣れないメールがきていた。G君からである。どうもわたしの数少ない友達から、メールアドレスを(無理矢理)聞きだしたらしい。そしてわたしと友達になりたいようだ。まいったなぁ、やめたほうがいいですよ、といいたい気分になった(わたしは萩原葉子の『いらくさの家』や円地文子の『朱を奪うもの』〈紹介文には《近代女性の性・喪失・生を描いた、円地文子『朱を奪うもの』三部作の第一部。自伝的作品とも言われる昭和三十年代のベストセラーにして著者の代表作。女性必読の書。》とかかれていた〉の主人公のように人見知りなのである)のと同時に、なんかこんな文章見たことあるな、と思い、履歴をあさってみた。〈件名 忘れてるならそれでもいいです 本文 俺も正直言うと記憶があいまいですから(汗)これを言ったら正体がばれちゃうかもしれないけど一年前のライブのリハーサルで頭打って実はその時にここ数年の記憶がちょっと無くなってるんです(笑)一部のテレビのニュースでも報道されてたけど本人です。どうです? 思い出してくれましたか?〉この内容がもしほんとうなら(笑)ではすまされないだろう、と笑いながら、わたしは時間をみる。そろそろ朝ご飯を食べなくては。
チアシード(これは昨日水につけておいたもの。いつもはヨーグルトをかけて食べるのだが、切らしていて、というか私が父のを勝手に食べているのだが、そういうわけで青じそドレッシングをかけてたべた)とカモミールとラベンダーをブレンドしたハーブティー(いつもはセントジョーンズワートなのだけれど、今日は気分がいいのでカモミールとラベンダーのブレンドティーにした)。
母のつくったお弁当をもち、朝ご飯でつかったティーバッグを再利用して水筒にお茶を入れた。母は脳味噌のような栗をゆでている。魔女みたいだね。脳味噌ゆでて。
「何回もいうと怒るよ」
そう母はいい、そのあと
「魔女じゃなくて縄文人といいなさい」
といってきた。
これいじょう関わるとめんどうなので、わたしは学校にいくことにした。わたしはいつも五十六分か〇四分分の電車に乗らなければ、きがすまない。ハンカチにラベンダーのエッセンシャルオイルを一滴垂らし、ポケットにいれた。
駅に近づくにつれ、おなかが痛くなってくる。
わたしはハンカチのにおいをかいだ。
でんしゃに乗ると人混みの圧迫感から吐き気もしてきた。わたしはいつもそうなのだ。いままでにでんしゃのなかで吐いてしまい、めいわくをかけたことなんて一度もないのに。
でんしゃにのって一五分ほどたつと、また昨日のように、おなかが痛くなってきた。少し前ならおならを小出しにすることで、痛さをごまかしていたのでだが、一度だけ、爆発音を電車内に響かせてしまい、その経験がとてもはずかしかったので、今では超小出しにすることでごまかしている。
乗換駅まで耐えることができたよろこびを噛みしめつつ、わたしはトイレに入った。利用客の多い駅なのでトイレの数はそこそこおおいのだが、利用客のほうがおおいので、わたしは少し待つことになる。すいません。わたしはふりかえる。もらしてしまったので、先に行かせてくれませんか? あらそう。大変だね。でもわたしはまだもらしてないの。ちゃんと並んでね。そういうと残念そうな顔をしてうしろにならんでいった。これはいじわるだろうか。
わたしは便秘と下痢を繰り返すタイプなので、おなかが痛くなったときには一気にでてくれる。ただ、残尿感ならぬ残便感はぬぐえない。
もうすこしでてくるかな? と思いながら、わたしは昨日図書室からもってきた文芸同好会(一応偏差値三八の高校でも本好きはいるのだ。ライトノベル限定かもしれないが)の同人誌を読んでみようか。

同じクラスのふたりがそれぞれ一編ずつ短編を書いている。そのどちらにも、《きついのぼり坂》という言葉がでてくる。
このあたりの学校は急な坂道の上や下にある、ということがおおい。学校説明会では愉快な校長が
「この坂を三年間往復すると、エベレストをのぼったのとおなじくらいの長さになるんだよ」
と衝撃的なことをおしえてきた。なんで周りのみんなは笑っていられるんだろう。
わたしは小学校、中学校の朝会では必ず(というのも変なのだけれど)倒れていた。そんなわたしがエベレストに上るんだと。話を聞いているだけでも高山病になりそうである。なんとか倒れずにすんだが。
そういうわけで学校についた。まだ教室には数人しかいなかった。だまって座ると、G君がにたにたと気持ち悪い笑顔を浮かべながら、近づいてきた。そういうわけだから、と彼はいう。ちょっとはなしてみると、まぁ悪い子ではなさそうである。小顔で一重だけれども目はかなり大きい。鼻筋もある。背はわたしより低い。あと体型はガリガリ(ついでにいうと、体育の着替えのときに見たのだが乳輪がかなり大きい)。芸能人クラスではなくても、クラスのなかにいたらかっこいい子、といった感じか。
G君が席についたあと、勝手にメルアドを教えやがった人間の屑が教室にはいってきた。
「どうして勝手にメールアドレスを教えたのかい?」
と諭すようにいうと、
「だって無理矢理聞いてきたんだもの」
と答えてきた。わたしがあきらめたところで、A子さんが教室に入ってくるなり
「うわ、暑い」
と季節はずれなことをいい、冷房をつけた。屑君、今日の宿題やった? 一応やってはみたけれど。じゃあ見せて。いやです、自信ないですから。自信があろうとなかろうと、「やった」という事実が重要なんだよ。わたしはドリルを開いて、問題を見た後、すぐに閉じてしまったんだ。だから見せて? いやです、自信ないですから。
と、ここでB子さんが入ってきた。
教室に入った瞬間、いや、入る前からすでにかんじていたのだろう、
「うわ、寒い。誰だよ、この時期に冷房つけた奴は」
わたしはだまった。
「あっAちゃんおはよー」
元気な声が聞こえてきた。
わたしは笑いながら、
「いいものがみれたねー」
と、よろこんだら
「なにがですか?」
と返されてしまった。もういいや。
彼は不思議そうに笑った。
小津安二郎の映画でこんなシーンがある。父親が学校はどう? ときく。
子どもは、
「学校に行くのも面白いし、帰ってくるのも面白いけど、その間がどうも気に入らないね」
という。わたしも同じである。
家に帰るまでの電車のなかで、一応G君からのメールがこないか、かくにんしていた。なにもこなかったけれど。

学校の最寄り駅をでて、ドラッグストアの前を通ったとき(前にここで「絶倫ゴールド」という商品をみかけたことがある)ふいにくすぐられ、ついつい変な声を出してしまった。なんだG君か。わたしは彼と知り合いになってから、彼の観察をよくしている。どうも彼は、正義感にあふれた嫌みったらしい学級委員の人と仲がいいらしく、お兄さま寒いよー、とかわいそうなことをいいながら、よくだきついたりしていた。
前に読んだ富岡多恵子の『波うつ土地』という小説(ずいぶんと男をばかにした小説で、ちゃんとわたしにもかなり当てはまっているのが腹立つ。ただ母にみせたら「こんなもん、あたりまえでしょ」といわれてしまった母のはは、つまり祖母も「うちもおなじ」といっていた)に確か不器用とかそういうことではなく、しゃべることがないんじゃないのか、と意地悪く考えてしまう、といったようなことがかかれていたと、記憶している。
確かにその通りで、今更(というのは二十一世紀にもなって)天気予報のはなしや政治経済の話をするのも変だし、かといって共通の趣味を見つけるのも難しい(たとえば趣味は「読書です」「ゲームです」といったって読書の場合なら実用書や文藝作品にまずわかれるし、実用書だとしたら、それはかなり広範囲に広がるわけだし、もちろん小説もそう。ゲームの場合ならシミュレーションだかシュミレーションだかが好きな人もいれば、RPGが好きな人もいるしシューティングやアクションゲームが好きな人もいるし、と)。世間話はばかばかしいし、となると目についたことをはなすか、そういえば、と自分が面白いと思った体験をはなすか、といったことぐらいしかないのだが、自分が面白いとおもった体験をはなして、相手が笑ってくれた、ということが一度もないので、それは危険な行為だし、目に付くもの、といってもそんな毎日あるものじゃないんだから、話術や面白い動きのできる人以外は黙っているのが一番いいんじゃないか、とわたしは考えて、黙っている(たまになにも考えずにだまっているようなやつもいるけど。ただ傍目にはその愚鈍なやつとわたしとがおなじように映るのが気にくわない)。
ただ今日は、ほんとうにたまたまなのだが、さいきんあたらしく開いたスーパーに「早出しみかん」というものが置いてあった。
「ねぇみてみて」
わたしはいう。当然かれは
「あれがどうしたの?」
といった。
「早出しみかんってことは遅出しみかんがあるってことでしょ? っていうことはそのあいだは中出しみかんなんじゃない?」
彼は困ったように笑った。
「早・中・遅……早いと遅いの間は」
と考え込んだ後、
「うん。やっぱり中か」
でしょでしょ。わたしは、大笑いしてしまった。
やっぱり高校生男子には下ネタが一番受ける。
わたしにとって一番いやな行動、それは媚びた発言をすることである。一重瞼の女子がイケメンの教師(特に世界史と英語)に質問をしているのをよく盗み聞きしている。いや、したくてしているわけではなく、「黒板係」のために聞こえてしまうのだ。
わたしだったら、
「質問するよりも自分でしらべたほうが早いよ」
とアドバイスを送るのだが、彼女らは、勉強をしたいわけではなく、話がしたいのである。
つまりわざわざ質問をするために、勉強をするのである。
前に世界史の教師に質問をするシーンをみたことがある。その子は図書館でトルコについての本を読んでいた。トルコといえば、その教師が大学院で専門分野として研究していたもの。それをわざわざ聞いている。本当は答えも知っているくせに。
しかし、わたしも彼と会話を楽しむために、同じように本を読んだ。『きのうはけふのものがたり』(講談社学術文庫、宮尾訳)を久々に取り出したので、ほこりをかぶっている。
わたしは付箋が張ってある箇所を開く。
《ある人が、急に医師を目指して医書を集め、ゆっくりと読んで納得できないところに付箋を貼る。女房がこれを見て、「その紙は、なぜ付けられる」と尋ねると、夫はそれを聞いて、「これは不審紙といって、納得できないところに貼って、あとで師匠に問うために付ける。このことから不審紙という」。女房はそれをそれを聞いて、「よくわかった。わたしも不審がある」といって、紙を少し引きちぎって唾をつけ、夫の鼻の先に、ぴったりと貼った。「これは何の不審だ。わたしの鼻に不審はない」という。女房はそれを聞いて、「そのことは、世間でいわれている慣わしで、男の鼻が大きいのは決まって男根が大きいというが、お前の鼻は大きいのに男根が小さい。これが不審だ」。夫はそれを聞いて、「その通りだ。また、わたしもお前に不審だ」という。夫はそれを聞いて、「世間でいわれている慣わしで、頬先が赤い色の者は、決まって女陰が臭いというが、お前の頬は白いのに、女陰が臭い」といった。》
そういえばイケメン英語教師は鼻がでかい。
《ある家で比丘尼に風呂を焚いてほしいといわれた。
御寺領の百姓たちが集まって、風呂を焚くことになった。
まず風呂の熱さ加減を知るといって、床屋の長男が風呂に入ってかがんでいると、
「方丈様がお出で」という言葉を聞いて、
「叱られてはたいへん」と思い、顔を両手で隠して風呂から上がった。方丈様はそれをご覧になって、
「おお、先には入るとはたいしたものだ、あれは誰ぞ」というのを、方丈様に仕える尼のかう蔵主が聞いて、
「顔は隠していますので、誰だかわかりませんが、まらは門前の床屋の孫太郎のものです」といわれた。
さてもさてもよく見てわかるものだ》
《ある比丘尼たちが寄り集まり。いろいろな物語りをして楽しんでいるところへ、いたずら者が出かけ、戸の節穴から、とても大きく勃起させた男根を、思いっきり突き出した。
庵主の比丘尼がこれを見つけて、
「あれあれ、ここに何だか知らない虫が出て来た。そこの金火箸を焼いて持ってきなさい。つまんでとり捨てよう」
という。
いたずら者は金火箸の焼ける音が来るのを聞いて、急いで男根を引込めると、比丘尼はあわてまごついて、
「今さっきまで、ここにあった魔羅がない」といわれた。》
わたしが身振り手振りちん振りを加えてはなすと、彼はげらげら笑ってくれた。
逆にわたしたち、というよりも彼に一番受けないというか、嫌っているネタは恋愛事情についてである。
うちのクラスには童貞くさいやつがかなり多いのだが、それでも何人かは彼女がいたり、またいることをにお(「匂」じゃなくて「臭」)わせていたりする奴がいる。そういうひとたちを見ると、彼はなぜか敵意を示す。君がもてないのは顔が不細工だからだよ、といいたくもなるのだが(それか性格を直せと)仕方なく、
「どうせ高校でつくった彼女なんて、長続きしないよ」
と慰める。
そのあと、『クロイツェル・ソナタ』(岩波文庫、米川正夫訳)についてはなしてあげた。
「どんな話なの?」
うんーとね、表紙には確か《嫉妬にかられて不貞の妻を殺した不幸な男の告白談》ってねかかれていてね、そうそう、特に結婚問題についてを《縦横無尽に解剖・批判して》いるんだよ。
彼は目を輝かせた。
「こんど貸して」
私はうんいいよ、とうなづき、『クロイツェル・ソナタ』と『ぼっけえ、きょうてえ』(岩井志麻子、角川ホラー文庫)を貸してあげよう、と思ったところで、廊下からものすごく迷惑な叫び声が聞こえてきた。
「うるせーな猿」
わたしたちの後ろに陣取っている女子グループのリーダーが、舌打ちをする。そのあとぶつぶつ
文句をいいだした。
「オー怖いねえ」
と、わたしのほかの知り合い(もともとはGくんのともだちで、がいこつのような顔の子とエキセントリックな子。わたしはその掃き溜めグループに、ごみとして迎え入れられた)がいう。
なんて野蛮なんでしょう、と婦人のように考える。
「そういえば思い出したんだけれどさ『手のひらを太陽に』って言う歌あるでしょ」
と彼に言う。
「なんで今思い出したんだい?」
「まあまあ、それはともかくとして、歌詞に♪みみずだっておけらだってあめんぼだって、ってあるでしょ。みんないきているんだって」
わたしは続けて、
「きっとやなせ先生はみんな友達で生きている、っていうのを知らせるためにはどんな馬鹿な動物をだせばいいんだろう? って考えたんだろうね」
みんな黙ったのでわたしも黙る。今日なら冗談をいってもみんなわらってくれるだろうと思ったのだが失敗に終わる。(ちなみの先週の帰り道で性病の話になり〈セックスなんてしたことないくせに〉がいこつが「梅毒」などということばをはつげんしたので、わたしも冗談でセックスって痔になりそうだよね、と発言したら本気で引かれてしまった)
周りが三人だけで話し始めた。まぁよくあることなので、わたしは気にせずに座り続ける。そうだよなぁ、みみずは土づくりで役に立つわけだし、おけらは飛べるし、泳げるし、地面も掘れるしで有能だし、あめんぼは水に浮かべるし、そのような技術がほしいか、と問われたらそれはまた別の話なのだけれど、わたしは普段ほめられることがないので、いいなぁ、とは思う。
「ねぇがいこつ君」
わたしは、
「君は人からほめられたことがあるかい?」
と尋ねた。
こんなちょうしなのでわたしは、黙ることが多くなってしまった、とはいってももともと会話になんて意味なんかないしね、と思っているので、今日の帰り道も彼ら三人についていくことにした。もちろん前三人、うしろひとり。前の三人が楽しそうにはなしているのをきくのも割とにたのしいものである。そうやって歩いていたら、彼は振り返る。
「あれ? いたんだ?」
とG君が言う。
この場面で
「いたよ」
というと負けたようなきがするし、
「いたんだよ」
は面倒くさいし人のようだし、
「いやたまたま」
といううそをつくきもなかったため(たぶんできないけど)、わたしは黙って早歩きをし、その場から離れた。

わたしは久しぶりに生物部のかつどうに参加した。
わたしのほかには先輩が一応二人(一人はほとんどきてないのだけれど)と同級生が五人くらい(入部したり退部したりと、入れ替わりでよくわかってない)いる。
はじめてはいってきたときには、プラナリア(いっぱい切っても大丈夫なやつ)やウーパールーパー、そしてイモリやドクターフィッシュ(古い角質を食べてくださるさかな、わたしが手を入れると、すぐに気づいてよってきた)などがいたのだが、イモリは脱走し(その後冷蔵庫の裏で干物状態になったものを発見)、ドクターフィッシュは大量死(原因不明)、プラナリアは水を交換する際にいっしょに水道にながしてしまう、などとさまざまな試練がおきて、いるのはウーパールーパーだけになってしまった。
これでは生物部ではなく死物部である。おそらく先生はそんな心理状態になり、気が動転したのだろう、グリーンヒドラ(クラゲを逆さまにしたような生物、とても小さい)をかいはじめる、クマムシを採集する、アジの解剖をするなど、誰も喜びそうにないことをしはじめた。
ここに来る必要はもうない、わたしはそう考えて、ほとんどさぼっていたのだ。
そう考えているのはわたしだけではなかったようで、部活動に参加しているのはいつも三人くらい。
ただわたしは先生がイヤだから、さぼっていたので、生物が嫌いなわけではない。前にそうしていたように、まずはウーパールーパーをかんさつしはじめる。ウーパーというように、まるで胎児のようなかわいさがあり、その小さな目はあまり見えないらしく、ふさふさした耳のような部分で餌を確認し、たべるという。
ただウーパールーパーをいっしょの水槽にいれると、この耳をえさのミミズかなんかと勘違いしてかみついてしまうらしく(なんとかわいらしい)そのためにプラスチックの板を入れて、別々にわけてかっている。
餌は熱帯魚ようの魚粉ペレットを与えている。ただ言ったように目が悪いのでスポイトに吸いつけて、めのまえにもっていってあげる。
そうすると、ぱくっ(本当にぱくっ、と)と食べるのだ。
前に地理の先生(わたしが一年生の時に避難訓練があり、その時ちょうど地理の授業が行われていた。ただうちのクラスがふざけすぎていると一年生代表のばばあの先生におもわれたようで〈じっさいそうなのだが。しかもうちのクラスの担任が裏声になりながら「こらー」と怒りだし、ますます追い打ちをかけてくるので、不真面目な生徒たちが爆笑。〉避難訓練がおわったあと、わたしらの教室に乗り込んで説教をしはじめた。当たり前だがみんな聞き流していたように思う。おわったあと、実際災害にあって死ぬ可能性があるのはどっちなんだろうね、とみんながおもっているなか、地理の先生も「ふざけちゃだめだよ」という。しかし、話を聞いているうちに、先生も聞き流していたことがわかって、みんなから大人気になったといういわくつきの先生)が、
「ウーパールーパーはかわいい」
といいながら、あそびにきたことがある。
「えさ、あげてみますか」
先生は目を輝かせた。
ただ、意外と難しいものでなかなか上手にたべてくれない。うちのウパちゃんは頭がいいからね。馬鹿からはえさをもらわないのかな? と考えているうちにあきらめ、
「またくるね」
という。
その次にグリーンヒドラにえさをやる。
ブラインシュリンプというグリーンヒドラよりもかなり小さい生物(しかも卵からかえったばかりがほとんど)を、まずは真水で二回洗う。というのもこいつらは塩水でなければ孵化しないのだが、グリーンヒドラは真水でなければいきることができないため。
餌をスポイトにいれ、グリーンヒドラ(ただのヒドラとは違い、光合成もするというなかなか高性能な生物のようである)の水槽に注入し、つまようじでシュリンプを口元というか触手元に向かわせる。
これがまた楽しいもので(わたしはなかなか残酷である)、週三回の活動がなかなか楽しくなり、さぼるのをやめるようになってきた。
先輩がわたしたちにこれらのような活動内容を教えたように、今度はわたしたちが後輩に説明する番がやってきた。
いつもスカート丈の長さばかりをかくにんしていて、しかもみんなから嫌われている理科のせんせい(ちなみに吹奏楽部の顧問でもある。女子が多いから)が、
「生物部の見学がしたいんだって」
とふざけたことをいう。
「もうおわったので」
といっても聞かない。めんどうなので
「吹奏楽部につれていってください」
と丁寧にいってやったのにそれでも、というので、しかたなく、先輩と先生が来るのをまつことにした。はやく帰られるとおもったのに。
その日はなぜかいつもさぼっている人たちがちゃんときている。これはチャンスだ、と先生は考えたのだろう、説教をしはじめた。
まぁ放っておけばすむ話だ、わたしは瞑想をしはじめる。
そうするとなにも耳にはいってこない。先生はよく、あれだけ口が動かせるものだ。
ただそれが三十分も続くとなると話は別である。
わたしは瞑想をしすぎて、心の奥に迷い込んでしまったらしく、眩暈をおこしてしまう。
まぁ放って置けば治るだろう。眩暈なんて朝の電車で毎日おこしているのだから。
しかし一時間ほどして(よく話が続くものだ、と不思議に思う)、ほんとうに危ないじょうたいになり、イスに座る(先生はわたしの顔色がいつもよりもおかしい、ということに気づかないくらい、集中してしゃべっているようだ)。
仕方なく、
「ちょっと気持ち悪いので」
と、じっさいはちょっとどころではなかったのだが、水を飲めば治るだろうと、立ち上がり、歩き出した瞬間、わたしは倒れた。
気がつくと、わたしは廊下でねていた。小太りの先生が、
「大丈夫?」
ときいてくる。はいっと答えるのも変だと思ったので、曖昧にしておいた。小太りは続けて、
「朝ご飯はちゃんと食べた?」
と聞く。一応食べはしたのだけれど、先生の基準では食べていない、のうちに入るかもしれない。
どうも先生はわたしが倒れたあと、けいれんをおこしている、とさわぎたてたため(本当は唸っているだけ)、そこそこの事態になってしまったようである。先生が十数人はきている。救急車もよんだらしい。まいったなぁ、ほっときゃ治るのに。
「ところで誰がついていきます?」
みんなが目をそらした。それに気づいた屑くんは、
「じゃあ僕がついていきます」
と、手をあげる。みんなハハハ、と笑い出した。
結局、生物部担当の先生が、あーあ、きっとわたしの話が長かったんだわ、と事の重大さに気づき、のることになった。
救急隊員は
「今日の日付はわかります」
という。
わたしは正直に、
「えーと、うん? いやーわかりませんねー」
と答えた。これは昨日の晩ご飯を思い出せないのと同じ感覚である。
はじめての救急車は結構揺れるもんだ、と思った。
先生は反省したような顔をしていた。これからは一度にではなく、少しずつ言うようにしよう。
けっきょく細密検査をしても、なにもいじょうはみつからなかったらしい。先生の話が長かったのが原因です、などといったらわらわれてしまうだろう。
やはり、というか当たり前なのだが、入院せずに帰られるらしい。母がきて、高いお金を払い(もったいない)、タクシーで駅まで向かう。母が先生にお金を渡そうとする。わたしからしたらこいつのせいで倒れたのだから、お金を払う必要などない、ということになるのだが、先生は、
「いえ、補助がでるので大丈夫です」
と、嫌みったらしい口調でいうので、母はあきらめたように、
「まぁまぁ、それでも」
と言うしかなかった。
しかし、本当に死ななくてよかった。もし死んだら、文部科学省かなんかが出していそうな「部活動死亡事故記録」などに「野球部 三十人」「サッカー部 二十二人」「バスケットボール部 十八人」「柔道部 三十六人」「生物部 一人」とのることになり、
「どんなじっけんしてたんだよー」
やら
「危ないことでもしようとしてたんじゃないのー?」
やらと、
笑い物になることは確定である。ふーよかった。

ほんとうによかったよ。Gくんは前に貸した『ぼっけえ、きょうてえ』と『クロイツェル・ソナタ』を返してそういった。
「ぼっけえ、は岡山で最上級の強調表現として使われているみたい」
続けて、
「きょうてえの方はお年寄りが使っているだけで、若い人はあまりつかわないみたいだね」
しかし、わたしは昨日倒れた身分である。本当に元気がなかったので、あっ、そう、といつも以上に心のこもってない返事をし、体育の授業も一応はでたのだが、ぼけーっ、とつったっていることしかできなかった。また特権階級をいかし、部活動もさぼって、家で寝転がりながら本を読む。
わたしは『ジェイン・オースティンの手紙』(岩波文庫・新井潤美編訳)をとった。《シャーボーンのホール夫人は昨日、予定日の数週間前に死産してしまいました。何かショックを受けたからだということです。うっかり夫の姿を見てしまったのでしょう》《舞踏会はとても小さかったけれど悪くはなかったです。全部で三十一人で、女性は十一人だけ、うち独身はたったの五人だけでした。出席していた紳士方については、私のパートナーのリストを見ればお分かりでしょう。ウッド氏、G・ルフロイ氏、ライス、ブッチャー氏という方(第十一近衛竜騎兵の人ではなく、海軍軍人で、テンプル家の友人だそうです)、テンプル氏(兄弟のうち最悪ではない方)、ウィリアム・オード氏(キングスクリア村の牧師さんの従兄弟)、ジョン・ハーウッド氏、そしてキャランド氏。彼はいつものように帽子を手に持って現れ、キャサリンと私の後ろに立っては、話しかけられたり、なぜ踊らないのとからかわれたりするのを待っていました。最後にはうるさく言って彼を踊らせました。とても久しぶりだったので会えて嬉しかったわ。彼は舞踏会の花形で、一番の人気者でした。あなたはどうしているか、と訊いていましたよ。全部で二十の踊りがあり、全部踊りましたがまったく疲れませんでした。あんなにたくさん、しかも楽しく踊れたのには大満足》
《ブラムストン夫人の身動きできない窮屈なお宅は、昨晩は彼女、H・ブラックストーン夫人、その二人の娘と私で満杯でした。二人の姉妹は好きになれません。そもそも最初から好きになるつもりがなかったので、せっかく嫌いになっても自慢はできませんが。ブラムストン夫人はとても愛想のよい、親切で騒々しい人でした》
《彼女の夫はたしかに不細工です。その従兄弟のジョンよりも不細工なほどですが、》
《さて、あなたの質問にお答えします。伯母様とミス・ボンド(詳細不明)の仲が悪くなった理由として私が聞いたことは、去年の夏、伯母様がバースを去る前、彼女に会いに行かなかったことのようです。世にも不思議な仲たがいです》
本のページをめくっていると、携帯のバイブがなった。わたしは手に取る。「ミュート」にしていたつもりだったのに「バイブ機能」になっていたんだ。
設定を変えたあと、せっかくだしメールをみてみようと、アプリのアイコンをおそうとしたら、間違えてSMS(わたしはいまだにこれがなんの略称なのかがわからない)アプリをひらいてしまった。
するとG君からメッセージが届いている。二ヶ月ほど気づかなかったことになる。〈おーい?〉〈お? これ届いてる?〉〈メールアドレス変えてその連絡をメールで送ったら返って来ちゃったから〉〈一応こっちで連絡しましたー!〉〈期間限定スペシャルセールのご案内〉わたしは返信する。〈今気づいた。そういえばもうすぐ誕生日なんだってね。何ほしい?〉しばらくして、〈うううん〉〈なんかメールとかこっちとか帰ってこないから嫌われたのかと思って話さない方がいいのかなって思ってた〉わたしも〈大丈夫、嫌ってないよ。なんかごめんね〉そうすると〈いやこっちこそごめん〉〈ガイコツ男の件みたいになっちゃったのかと思ったのとさ〉どういうことだろう、〈おれがガイコツ男と話してるときこっち来なかったから嫌われたのかな? って思っちゃっただけだから〉あらまぁ。〈最近いじめてこないなー、って思ってたらこっちが悪かったみたい。次から気を付ける〉すると、〈ってかいじめって酷くない。愛のある絡みと言って欲しい〉つづけて、〈てかメッセージの方で送ったよーって会って言えばよかった……〉〈プレゼントかーブックカバーなら学校で使えて良いかも……〉〈でもいつも読んでるハヤカワ文庫のやつはふつうの文庫より少し大きいから面倒くさいかな……〉〈あなたはいつ誕生日? 連投ごめん〉わたしは誕生日を伝える。そしてブックカバーね、わかった、とも。〈うむ! ハヤカワ文庫が入るサイズ〉そうだなー、今度高円寺にいくし、探してみようかな。〈そうだ、模試会場どこ?〉〈そっかーじゃあ会えないね〉
わたしは約束通りにかってきた。彼が好きなそうなので、猫柄のものを。わたそうとしたら、今日は学校を休んだようだ。
「大丈夫?」
「うんただの腹痛、たぶん夜更かしのせい」
ならいいけどさ。学校のストレスもあるのでしょう。大変だよね。わたしもそうなんだけど。
わたしはやはり、彼と話すのが楽しいと思い、
「恥ずかしいからあんまりいいたくないのだけれど、尊敬しているよ」本当に。
「おおっ。ありがとう。ところで、僕もなんか本貸してあげようか」
うんありがとう、といい二冊ほどかしてもらうことにした。
わたしはプレゼントをわたし、彼はわたしに本を貸してくれた。
こうなると、すぐ読んで感想を送らなければ、と思うのがわたしの性格である。二日で読み(あまりおもしろくないというか、ただ単にわたしにはあわなかったのかもしれない)、とはいっても感想を送ろうと考え始めた。
どうしようかとなり、ストーリー構成をのべ、いやぁまさかあの人が犯人だなんてね。
「そうでしょう」
そういうと彼はうれしそうにしたので、まあいいか。こんなもので。
坂道を下りながら、今度本を返すときに、また新しい本(西原理恵子の『できるかなV3』)を貸してあげるよ、と約束した。
前二人、後ろ二人の四人。最近は会話術として「自虐ネタ」というものをしった。わたしって常識がないでしょ(去年ならハハハとつけていたところ、受験生の身分ともなると「就職」ということばが浮かんで笑っていられなくなる)。だからさ、治験でもやろうかね。いいんじゃない? 君にお似合いだよ。スーパーの近くを通ると「みかん」の三文字が目に入ってきた。Gは目の前を歩く女子を見て、足が太い、と失礼なことをいった。そういえばさ、今日人前でお尻を掻いている女子がいてさ、どう思う? そういえばもどう思うも何も、といった感じなのだが、とりあえずごまかす。わたしはよく人前で、パンツの中に手を入れて掻いているから。やっぱりするの? きょせい(漢字が思い浮かばない)。うん、そのうち、ただお金がかかるからね、すぐにはできないのだけれど。ああ、調べてみたんだ。うん。
「それにしてもきれいな青空だね」
G君はいった。
わたしもそう思う。
「このあとマクドナルドにでもいかない?」
「もちろん」
そういったところで、わたしたちのあいだをサッカーボールが通り過ぎていった。
わたしたちはしばらく目で追いかけた後、G君が、おいっ、といってボールを追いかけた。元気だなぁ(いやーわたしは鈍感なもので)。
みんなあきれてぶつぶつ文句をいうひともいたが先生は笑っていたので、これでいいのだろう。
体育が終わった後、少し用事があったので(用事があったのはわたしで、彼はいっしょについてきてくれることになった)、わたしたちはほかの人たちとは、少し遅れて着替えることになった。
「トイレに入ろうか」
まあいちばんいいところだね。わたしは汚れて汗くさくなったTシャツを脱ぐ。彼はわたしより少し遅れてTシャツを脱いだ。
わたしは彼の背中をみつめる。ついつい抱きしめて、乳首をつまんでしまった。
彼はあわてだし、わたしも驚いてついついにがしてしまった。彼はこまったように笑う。
わたしは、両手を彼に見せて、
「汚ねぇ」
と一言。彼は舌打ちをしたあと、わたしをくすぐってきた。やめろ、とさけびながらわたしはもう一度乳首をつまんでやった。
彼はよろける。
「きもちいいでしょ」
と聞くと、否定してこなかった。
わたしはさっさと着替え終えたのだが、彼は警戒してなかなか着替えようとしない。もうあきらめた、という態度をわたしが見せると、やっとハーフパンツ脱ぎだした。
「よっしゃ。チャンス」
わたしは彼の股間をもむ。彼はまたよろけた。《「お児さまの実家が貧乏なので、表立った席のときは、何から何までが借り物となる。借りられぬものは、ちんぽだけだ。ああ、気の毒に」と三位がいうと、児がそれを聞かれて、「ほんとうにくやしいです。でもそのちんぽも、わたしのものではないようです」「なぜ、そういうのだ」「人が見ると、馬の物だ馬の物だとばかりいうので」といった。》(『きのふはけふのものがたり』講談社学術文庫・宮尾訳)
わたしは、
「手を洗わなきゃ」
といった。彼はまたあきれた様子。その後二人でわらいあった。
「次の授業って修学旅行の最終確認でしょ」
「そうそう」
「わたしって飛行機が苦手なんだよね。閉所恐怖症で」
「僕も細いから、明日の、先に送る荷物を学校までもってくるのが苦手」
次の日、ほとんどの人はスーツケースを指定された部屋においているのだが、物好きな人はボストンバッグを持ち運んでいる。
沖縄になんとかつき(と思うのはわたしくらいだろうか?)まずは制服で、博物館などをあるきまわった。
彼の乳首をつまんだことで、足に水虫ができてしまった(おそらく呪いである)。靴下には黄色い汁が染みている。ばれたらいやだなあ。
今日はクラス全員でまわるのだが、教室の休み時間でもそうなるように、いくつかのグループに分かれた。
「平和学習ってねぇ」
「ほんとうね」
「イヤだねぇ」
わたしたちは続けて、
「だいたいさ、うちのクラスの担任がおいつめたせいで学校をやめちゃった子がいるのにさ、彼からなにをおそわればいいのだろうね」
「まああの子もメンタルが弱すぎたと思うけど」
「確かGと同じ茶道部だったんだってね」
「なんかいやな言い方だね」
「お茶たてながらちんちんもたてて」
自分で言って、わらってしまったのだが、ほかのみんなはいつものことだ、と無視をした。
「H先生が夏休みあけにいなくなったのもいじめらしいよ」
「あとさ、夏休みの自習(強制参加)で英語を教えていた先生いたでしょ。あのひともいじめでやめたらしいよ」
「ああそれで」
わたしは納得した。先生がなぜか本を丸々一冊コピー(表紙などもすべて、使うページだけで十分なのに)したのは、学校に対する嫌がらせのためということが。
「ある先生が残業のしすぎで倒れたこともあったしね」
「雑用係でしょ。出世は見込めないね」
わたしはそう断言した。
「さっさとホテルにいって寝たい」
部屋につくとまず荷物をおいて(スーツケースになれていないので部屋の中でも転がそうとしてしまった)、そのあとわたしは自分の約束を守り、しっかり寝た。
夕食の後、わたしがまた布団(ベッドは奪われた)で寝ているときに、ほかの部屋にいるG君から、奇妙な映像がおくられてきた。四人で体をくすぐりあっているのである。うらやましいなぁ、と思いながらくすくす笑っていると、さりげなくベッドを奪った屑君が
「なんで靴下をはいているんですか?」
と尋ねてきた。
「これはね、呪いのせいなんだよ。だからね、せっかくの海も入れないし、ビーチサンダルは、はけないし本当につらいんだ」
「よくわかりません」
そりゃそうだろう。そしてわからないままでいいのだ。
修学旅行が終わった後みんなは思い出にふけっていたのだが、わたしはずっと寝ていたので、日常の続きである。
最近知り合いになった、あまり友達のいないUくん(いつも悲しそうな顔をしている)はそこまで楽しめなかったようだ。
「でもああ見えて彼には頭も顔もいい彼女がいるんだよ」
わたしは衝撃を受けた。そのあと彼はちいさな声で、今度ラブホテルにいくんだってさ。え?
わたしは吐き気を覚えた。
「君は、あのこと同じ大学にいくのでしょう。彼女といつまでつづくのか、みとどけたら?」
わたしが面白がると、
「大学受験までつづくといいけど」
だって。
あのかなしそうな顔のUくんがラブホにいった、というのはクラス中の男子の話題となった。みんなはばかにしているのだが、それでもやっぱり尊敬するよね。うん、とGはいった。このあと大学説明会にいくのでしょう? 一応そのつもりだけど。まだ時間あるの? うん。じゃあもう少しだけ話そうか。
話続けているうちに、彼はなんだか説明会にいくの面倒くさくなっちゃった、といった。まずいんじゃない? いやいいよ。ふーん、とわたしは帰ろうとすると、そっちは時間ある? ときいてきた。うんいくらでも。ちょっと寄りたいとこあるんだけど? どこ? ホテル。おおそれはいいね。明日帰ることになるけど。もちろん大丈夫。ちょっと待ってね、親に連絡するから。わたしは今日は友達の家に止まるので、夜ご飯と朝ご飯はいりません、と丁寧に連絡のメールをした。
わたしたちはホテルに向かってあるく。最初はラブホテルのつもりだったのだけれど、勇気がでなかったので、ふつうのホテルにすることになった。その前に、ここよってみない? わたしは服屋を指さす。いやーさすがにせまいんじゃないの? においもほかの客が気にするだろうし。いやいや、試着室でセックスするのではなくて、君のための女性服を探そうかと。彼は納得したようにああ、と声を出す。だったら、こういうふつうの服じゃなくてコスプレがいいな、ということになり、わたしたちはアニメグッズを販売している店に向かった。わたしもしたほうがいい? そういう趣味はないのだけれど。うーん、ならいいや。おっこれは君が好きなアニメのもの。そうだね、これでいいや。そのあと近くにドラッグストアがあったので、わたしはずっとのんでみたかった「絶倫ゴールド」を飲み、彼には「凄十」を渡した。
彼が一万円、わたしは五百円、あわせてちょうど一万五百円でとまれるホテルをみつけられた。
まずは荷物を置き、ベッドにすわって、さすがにここでやるのはまずいよね。当たり前である。前戯だけにしておいて、本番は風呂の中でやろうか。窮屈そうだけど。
わたしは携帯をコンセントにつなぎ、さらに小型スピーカーをセットした。
「見てみて、三P」
彼はちらっと確認した。
「じゃあ着替えてくるね」
そういってユニットバスに向かう。別に目の前で着替えてもいいのに。
彼が着替えている間、わたしは暇なので、携帯で流す曲のリストを作成した。彼がコスプレをするアニメの歌などを選んだ。
彼がでてきたのでさっそく音楽を流した。
わたしは彼を押し倒す。
「あっああ、やめて、わたしはまだ小学生なのに」
大声で、
「小学生なのに」
わたしは人形浄瑠璃ふうの笑い声をだし、乳首をさわった。
「あぁだめ小学生なのに」
「ほら、たってきたぞ、そんなに気持ちいいのかい?」
わたしはさわり続ける。彼は気持ちよさそうにからだをくねらせる。わはは、と笑いながらわたしはポーチ(コスプレセットのなかにはいっていた、マスコットキャラクターのもの)からコンドーム(どうやってつかうのかわからない。これでどうやってちんちんを包むのだろう)とローションをとりだした。
アニメソングが二曲ほど流れ終わった後、彼は変な音楽が流れ始めたことに気づき、指摘する。何これ? ああ、しまった。アニソンと間違えてチョンコ節をいれてしまった。それは見事な歌声だった。はーちょんこちょんこ。
《赤いふんどし平家のみ旗
中に實盛おわします

明日の天気をオソソに聞けば
私しゃ上みた事がない

お前のオソソは奈良漬オソソ
しわの中には カスがある

あんましたいので交番にゆけば
お前どころか わしゃしたい

汽車の窓からちんちん出して
汽車賃出したと大威張り》(参考・上方座敷歌の研究)
はーちょんこちょんこ。
そのとき、わたしは謎の光につつまれた。万物流転。万物流転。
ここはどこだろう? 天国だか極楽浄土だかのようだけど。
どこかから、わたしを迎えてくれているような音楽が聞こえてくる。
《「オム マ 二バトメ ホム」
「ペイーッ ペイーッ」
ププー プププー デンデン カーン
「パーダム パーダム」
ジャラン ジャラン ジャラジャラ
ガーン ポラーン
「ペイーッ ペイーッ」
「田紳有楽 田紳有楽」》(藤枝静男・『田紳有楽』より)
「ちょっとナニしてるの」
「ちょっと酔っちゃったみたい。ピーヒャララ」
わたしたちは前戯を終え、風呂に入ろうと、服を脱ぐ。彼は、ただ細いだけの体で、くびれなどはなく寸胴体系であった。これでぬけるかなぁ?
わたしたちはいっしょにはいり、ローションを塗りあう。ほう、これが馬の物か。
わたしが彼の乳首とちんちんばかりに塗っているのを注意してきた。はいはいちゃんと塗りますよ。ねぇだっこして。いいよ。わたしは、小さい子におしっこをさせるような持ち方で彼を持った。そして本当にやらせた。
「体脂肪率三パーセントだっけ」
「いや五パーセント」
たぶんふとももと脳味噌にあつまっているのだろう。
「でも血管はふといのでしょ」
「そうなんだよね」
わたしはすぐ倒れるからうらやましいなあ。
一度彼をおろし、今度はさっきのまま、床に寝かせたような姿勢をとらせる。
《ある人は女だけを好み、まったく若衆の世界を知らない。仲間たちがいうには、「あなたは田舎者だ。きっといままで、若衆の行為なども知るはずがない」といって笑うと。「そのことは、まったくわからない。だが若衆がする行為を見たが、理解できないことがある。何だか必死に指で取っては喰っていたが、どうにも納得がゆかない」といった》(『きのふはけふのものがたり』講談社学術文庫・宮尾訳)
そのあと、わたしたちは抱き合って、陰部を突き合わせ、そうすると、勃起してきた。そのときである。彼から男の匂いというか、精液? のにおいがしはじめた。しばらく耐えていたが、限界がきた。
「ねぇもうやめていい」
彼もうなづいた。
わたしたちはシャワーで体全体に塗りたくったローションを洗い流す。
「一番情けない瞬間だよね」
わたしはつづけて、
「一人で帰る?」
と聞くと、
「いや、せっかくだし」
「そう、じゃあわたしもとまっていく」
わたしたちは抱き合って寝た。においがなければ大丈夫なようで足をからませたりもして、それがまた悲しかった。彼のかわいらしいイビキがきこえてくる。わたしはいい夢を見させてやろう、と子守歌を歌ってやることにした。その兌を開き、その門を開けて、その鋭を起たせ、その糞をだせ。題名は『スカトロの尻』わたしは彼のパジャマの中に潜り込み、腹筋、わき腹、乳首、そしてわきをなめようとして、「何してんだ」と、舌打ちをしたあと、どなりだして、あたまをひっぱたいてきた。
「なにしてんだ」
「うすしお味」
続けて、
「気持ち悪くなってきたからうがいしてくる」
といった。おはよう。

おはよう。本当に悲しいね。もうすぐ卒業だなんて。G君が卒業アルバムのフリーページに何か書いて、というので「誰?」と書いてあげた。卒業式をあげたあとわたしはお兄さまとG君がでしゃばってつくったクラスの写真のスライドショーを見ている。わたしはあまりない思い出を思い出した。その後せんせいから一人ずつメッセージカードを渡される、一人名前を間違えられた人がいて(二年間も同じ担任だったのにね、かわいそうに)やっぱりろくでもない担任だ、とおもいつつ、カードをもらうと、裏側には、
〈心が変わると態度が変わる
態度が変わると行動が変わる
行動が変わると習慣が変わる
習慣が変わると人格が変わる
人格が変わると運命が変わる
運命が変わると人生が変わる
皆さん、すばらしい人生を送ってください!〉
などという嫌みったらしいことがかかれていて(全く、どの口が言うか)表側には、
〈クールでポーカーフェイスのあなた。
たまに見せるはにかんだ笑顔が素敵です。もっと笑顔を〉
と、かかれており、それはわたしがアルバムの写真撮影なかなか笑顔がつくれず、みんなから笑顔をがんばって、といわれたことへの当てこすりには間違いないのだけれど、そういえば〈素敵です〉の一言で、G君に渡したい本があったことを思いだし、
「ねえ、これ」
と中村うさぎの『さびしいまる、くるしいまる』と柳美里の『柳美里不幸全記録』と岩井志麻子の『悦びの流刑地』(帯コメントが竹中直人、わたしはこのひとが大好きである)や『ごぜのなくいえ』そしてその他に西原理恵子やわたしの好きなジャーナリストが書いた本何冊かを無印良品のビニール袋に入れ、渡した。とても重かったので、帰りはかなり楽になるだろう。彼もありがとう、といった。読んだら感想聞かせてね。
その夜、わたしは彼にラインでメッセージを送った。〈もう会えないのかな。せっかく親友になれたのに〉すると、〈いやいや、時間があったらまた会おうよ〉と返してきて、その文章に雑さを感じ〈そうやって気楽にあおうよ。とか書かない方がいいよ。本当に好きで好きでしょうがない、って人にだけそういうものを送るものだよ〉とこれまた妙なことを書いてしまい、ここは自虐ネタでごまかそうと〈最近精神科に通い始めたんだよね〉と送った。〈そうだそうだ、あと西原理恵子の『ちくろ幼稚園』に図書カード千円分いれておいたよ。ほら今まで君にいっぱい迷惑をかけてきたからね〉このそうだそうだに、自分の心が「うそつけ、最初からそう書こうとしていただろ」と突っ込んできたのを無視し、西原理恵子のギャグをもじって〈でもさ君に今までかけてきた迷惑を図書カード千円分で返すとなると何年間、かかるのだろうね? 応仁の乱からかな〉と送り彼を笑わせようとした。これからもなかよくしようね。
彼は、あなたはちょっと疲れているんじゃない? とわたしが送ったメッセージのスクリーンショットをわざわざとっておくってきた。これはおそらく友達に見せて、ほんとこいつ面倒なんだけど、と笑い者にするためだろう。
こういった事情もあり、わたしは彼のツイッターがみたくなりG君の名前で、検索したのだが、でてこなかった。しかたなく、たまたまでてきた、同じクラスの人のアカウントをコピーし、あるサイト(だれと仲がいいのか、誰をフォローして、誰にフォローされているのかが、かくにんできる)に張り付けて検索した。少し探すとG君のアカウントがみつかったので、今度は彼のフォロワーの欄をのぞいてみる。すると彼の裏アカウントもみつけることができた。とりあえず、どのアカウントにも、あいつ面倒くさい、とったつぶやきはみられなかった。
まず、本アカウントのフォロワー欄をみてみると、どうやら大学の友達探しをすでにはじめているらしい。まだ三月なのに。同じ学部学科で検索し、とりあえずは、といった感じでどんどんフォローしていっている。
わたしは
「大学で友達できるか不安だな」
という正直な心の叫びをGに送った。
「ツイッターでもやってみれば」
あんまり気がすすまないので。そういえば本はもう読み終わった?
「いやまだ開いてすらいないよ」
知ってるよ。ツイッターに友達から借りた本をはやくよまなくちゃ、ってつぶやいていたからね。正確には頼まれてもいないのに貸したんだけど。
あっそうだ、君の好きなバンドのメンバーが新聞広告にのっていたよ、と写真を送る。彼はお礼のメッセージを送ってきた。わたしは自虐ネタとして、はーあ、こんな常識のないやつに友達なんてできるのかね?
悩んでいたことがほんとうになり、ちゃんと友達はできなかった。G君に連絡してみると、どうやら趣味があう友達ができたようだ。
カメラ好きだっけ? と送ったところで、卒業前の食堂で行ったパーティでのクイズ大会で、ロシア語で「camepa」は日本語でなんでしょう、という問題をだしていたことを思い出す。
今日は新宿御苑で写真部のあつまりがあったんだよ。Gの友達のツイッターに〈大学生になっていきなりカメラに興味を持ち始める現象はなんていう名称?〉とあったことを思いだし笑った。
わたしはトイレでカレーを食べたんだよ。そしたらね、となりからとても大きなおならの音が聞こえてきてね、ほんと、こっちがカレー食ってるのに、うんこするのやめて欲しいよね。食堂に一人で食べられるコーナーくらいあるでしょ。うんあるけど。
このままではらちがあかない。彼ならきっとわかってくれるだろうと、ガイコツ男に連絡をいれた。久しぶり、大学は山梨県だったよね? 確か一年生の間はここから離れる、というのをきいたような覚えがある。理系の大学にはそういうところが多いらしいので、あまり驚かない。
誕生日プレゼントのミルクティー(一箱)は気に入ってくれた? うん、とってもめいわくだったよ。それはよかった。そしてG君ってやさしいよね。とも送っておいた。わたしから直接いうよりも他人が、そういえばあの人が君のことやさしいってほめてたよ、といってくれるほうが、きっとうれしいだろうから。いろいろあるけどがんばろうね。
わたしは家の近くにある精神科に通っている。最初は学校のちかくのところに通っていたのだが、もうそちらのほうにはいかなくなったので、変えた。
ふつうの、というと語弊があるかもしれないが、ほとんどの病院では名前をよばれるのだが、精神科では受付をすませた後、番号札を渡される。部屋には前にカイロプラクティックや鍼灸に通っていたときにも聞いたことのある、ヒーリングミュージックが流れている。つくりこまれた造花。番号が呼ばれたので、ドアをあけて入る。わたしは先生に、どういう症状があるのかを、箇条書きにしてまとめた紙を渡す。〈電車に乗るとおなかが痛くなる〉〈人混みというよりは圧迫感が苦手(すわっていても気持ち悪くなることがある)〉〈笑い声が聞こえると、まるでわたしが馬鹿にされているように感じてしまう〉〈誰かに見られているような気がする(特に姉からの視線をよく)〉〈人前でうまくしゃべられない(緊張してしまう)〉このようなことでエー四用紙の表一面を埋めるぐらいの量を書いた。
「これは、わたしがあずかっていてもいいですか」
実験台にでもされるのだろうか? いいですけど。
最初は軽い薬から始まり、その後エビリファイ、レクサプロと徐々に強くしていく。三割負担を一割負担にする制度がある、ということは教えてくれたのに、病名は教えてくれなかった。しかもレクサプロは比較的あたらしいくすりなので、ジェネリックもなく、少し高いのも気になる。アルバイトをすればいいのだが、応募の電話や面接に対応できるように病気を治さなければ、という難しさ。まるで知恵の輪のようである。
それでもいままで各駅停車にしか乗れなかったのだが、座れば急行にも乗れる、というのは大きな進歩だった。家から駅に向かおう、とドアを開けると先生がスポーティな格好でランニングをしている。普段は白衣なのできづかなかったが、健康的な体つきであった。そうでもないとやってられないのだろうか? 目があった。わたしは気まずさから「通う精神科を変えよう」と心に誓った。
もらっていた分の最後の薬が飲み終わり、急にゼロにするのは不安があったので、セントジョーンズワートのサプリを買い、飲み始めた。また電車に乗る練習もしたかったので、Gに連絡した。
「今月で都合のいい日ってある」
かいたあとで、しまった、都合のいい悪いは感覚で決められるものだ、と気づく。
「いやまだわからない」
「テレビゲームのイベントがあるから一緒にいきたいんだけど」
そうおくったあと、この日は? この日ならどう? と何日かの予定を聞いてみた。彼は曖昧な返事をする。わたしはいらいらして
「もういいです。あなたを誘うことは今後一切ありません」
と送った。
わたしは一週間あやまり続けた。
「ごめん。自分勝手だったよね」
これを七回送ったことになる。そのあとまた送って、ようやく
「この期間は電源切っていたから」
とかえってきた。
「自分で誘っておいて、怒り出すとかほんとに自分勝手すぎ」
わたしは開催期間中のすべての日の予定をきいてやろうか、とおもったのだが、ここはしっかり謝っておいた。
「ごめんね。でも君ってほんとうに優しいよね」
ここはまた自虐ネタを、と思い
「精神科に通っているから、もうすぐふつうの人になるよ」と送った。
彼はまた優しくなった。
「Gって本当にスタイルいいよね」
「それ本当によく言われるのだけれど、単に下痢でやせてるだけなんだよね」
よく言われるって何様だ、と思い、またやせているからといって女子にもてるわけでもない、というのを彼を見て理解した。
今度はふざけて
「Gとセックスしてー」
と三回連続で送った。
「乳首コリコリしてー」
「服のなかに手をいれさせて」
これは毎日一回以上。
一ヶ月ほど続けると、
「気持ち悪いからやめてくれない」
といってきた。
わたしはゲームイベントのこともあったので、君って優しいのではなくて、冷たいのだよね。しかも周りにはイエスマンしかおかないし。わたしがどれだけあんたにあわせてきたのかわかってるの。好きでもない本を読ませれるし、悪口が嫌いなようだから、仕方がなく自虐ネタに切り替えたり。わたしの怒りはおさまらなかった。本当はわたしのことが嫌いなんでしょう。ずっと思っていたけど。わたしにあわせるのが面倒だから、予定がわからないとかいって、こっちには図書カード三千円にブックカバーに本にいろいろしてあげたのにさ、なんでわからないの? もういいです。絶交です。絶交。さっさと本返せ。どうせ読んでないのだろう。わたしに興味はないのだから。
彼はわたしが言ったとおり、冷たく、はいわかりました、絶交しましょう、絶交。
どうぞラインからわたしを消してください。あっそうだ本は返してもらうので、その日にちだけ教えてください。わたしはここで相手が(きっと)謝るのを待っていたのだが、
はいわかりました。明日の六時なら大丈夫です。N駅の喫茶店前であいましょう。と送られてきた。
彼の誕生日がもうすぐだったので、わたしは「純露とみっくちゅじゅーちゅのおいしさを広める会」の会長(会員はわたしだけ)として、それらをかってから、喫茶店の前で待った。彼は涙目(これは主観ではなく客観的にみてもそうだろうと思う)でこちらに向かってきた。本を返して、わたしはプレゼントをわたそうとすると、いやいや、といって断ってくる。わたしは黙って帰ることにした。
その夜わたしはなかなか寝付けなかった。無理矢理(というかなんというか)精神科に通うのをやめたので、また不眠や腹痛の症状が戻ってきたのだ。それに加えてあの出来事。ベッドのなかでごろごろしている時間の長さは普段の何倍にも感じられる。わたしは好きな恋愛ソングをかけた。すると目から涙がでるわ、鼻から鼻水がでるわ、口からしゃっくりがでるわ、尻から屁がでるわで、わたしの穴という穴すべてがフル稼働しはじめた。あーあ『死の棘』で大笑いしてたあのころがなつかしい。彼もこんな夢をみたのだろうか。《故に得て、親しむべからず、亦た得て疎んずべからず。得て利すべからず、亦た得て害すべからず。得て貴ぶべからず、亦た得て賤しむべからず。故に天下の貴と為る》(『老子』蜂屋邦夫注釈・岩波文庫)
わたしは夢の続きを探し始める。『南回帰線』(ヘンリー・ミラー・講談社学術文庫。わたしはずっと「なんかいきせん」だとおもっていた)《ぼくは欠陥には好意的だったが、ぼくをそうさせたのは同情心ではなかった》《何か役立つつもりで人を助けたことは一度もない。ほかにどうしようもなかったから、助けたまでのことだ》《どうにも迷惑だったのは、世間はたいていぼくを一目見ただけで、やさしくて思いやりのある、義理堅い誠実な好人物と思いこんでしまうことだった。あるいはぼくにも、そうした美徳はそなわっていたかもしれない。だが、かりにそなわっていたにしても、それはぼくが無関心だったからにすぎない。人をねたむことを知らなかったおかげで、やさしく思いやりがあり、義理堅くて誠実な好人物うんぬんということになってしまったのだぼくはねたみの餌食にだけは、ついぞ一度もなったことがなかった。だれをも、どんなことをもねたんだことは一度もないのだ。ねたむどころか、ぼくはだれにもどんなことにも、憐れみしか覚えたことがない。》《まわりじゅうだれもがあくせくしていたが、ぼくはついぞ足掻いたことはない。苦労しているようにみえたとすれば、それはだれかを喜ばせようとしていただけのことだ》《苦々しい気持ちに駆られ、ぼくはしばしば彼らを非難するための、理由を探し求める。なぜなら多くの点で、ぼくも彼らと似たようなものだからだ。長いあいだ、ぼくは彼らの愚から逃れたと思っていた。だが時のたつにつれ、自分もさして変わらぬこと、否それどころか、彼らよりも劣ることに気づいた》《みじめだったり、ぐちをこぼしたかったり、泣きたい気持ちのときでさえ、ぼくは世界に共通な、普遍的なみじめさを味わっているような錯覚を覚えたものだ》次は『虹の記憶』《初めて聞く女のまとまった言葉は深く、陰影に富んでいた。女が一見鈍重にみえるのは、繊細さが極まって、動きがとれなくなったからのようだった》『仮の宿』《あんたはつくづく甘ちゃんだね。いいかい、人間ていうのは決められた道をひとりでとぼとぼ生きていくものだよ。人生、だれかとつるんで賑やかに弥次喜多道中というわけにはいかないんだ》《いいえ、自分でしでかしたことですから自力で這いあがらなければなりません。いまさら他人さまにすがるわけにはいきません》わたしは「親友」ということばに、ばかばかしさを覚えるようになってきた。
何度も同じページを読んでいくうちに、開き癖がついてきた。『クロイツェル・ソナタ』《たとえば「いま何時だね? もう寝る時分だよ」とか「今日の晩食はなんだね?」とか、「どこへ出かけましょう?」とか、「新聞に何が書いてあるかね?」、「お医者さまを迎えにやらなきゃなりませんわ? マーシャが喉を痛めましたの」といったようなものです。こんな風に、お話にならないほど狭くなった会話の範囲は、ほんの毛筋ほどでも外へ踏み出そうものならすぐ途端に喧嘩の火の手が上るのです》《当時わたしは少しも気がつきませんでしたが、こうした憎悪の期間は、われわれが愛と呼んでいるもののお期間に相当して、ぜんぜん規則的に同じくらいな程度で襲ってきました》そうだそうだ。ほんとうに。《憎悪の期間の次には、愛の期間が続くのです。猛烈な愛の期間が終わると、今度は長い憎悪の期間が来るのです》えっ。
《殊にわたしが苦しんだのは、妻はわたしに対して不断のいらだたしさよりほか、なんらの感情をも抱いていないことが、はっきり分っていたからです》
〈わたしってやっぱりへんだよね。精神科もかってにやめちゃったしさ。でもこんなわたしにもやさしくしてくれたあなたって本当にたくましいというかやさしいよね。もうわたしの連絡先、消していいよ〉
わたしは思いつき、こんなメッセージを送った。ここまで謙虚な姿勢を見せれば、またやり直せるかもしれない。
ところがこんなわたしのようすをみて、彼は調子にのったのだろう(どこまで偉そうなんだ)、既読無視をして、そのままにしやがった。こっちが素直に反省したらこのざまだ。
《ある者が、浄瑠璃を好んで、朝から晩まで語っている。「花のやうなる御姿」とか、「かりょうびんがの御声」とか、いろいろと褒めた言葉でいうのを、女房はいつもいつも嫉妬深く思っていた。あるとき女房に、「帷子のほころんだのを縫ってくれ」というと、「お前がいつも褒めている、浄瑠璃という女に縫わせるがよいに」という。隣の者がいうには、「その浄瑠璃は五百年前の人物のことで、余計な嫉妬である」というと、女房は、「千年前のことであっても、いう理屈があるから、いっておかないと我慢できない」といった》『きのふはけふのものがたり』(講談社学術文庫・宮尾訳)
しまいには、昔の小説や思想家の名言を聞いて、「これはわたしのことをいっている」だとか「いまのわたしとおなじだ」というのが、とても図々しいことなのではないか、と考えるようになる始末。まったく。
そういうわけで、わたしは大学で、絶対にはなしかけられても返事をしないときめたのだが、もともと話しかけてくれる人がおらず、その根性はどんどん腐っていた。
うーむしょうがない。親友をつくらなければいいのだから、知り合いをつくりまくろう。なんて流されやすい奴、と思ったのだが、しょうがない。昨日の涙と屁はもう流れ去ったのだから。
わたしはまた富岡多恵子の『波うつ土地』を参考にして(あれだけ会話に意味はない、とばかにしたのに)、会話術を身につけることにした。自分改良講座である(ほかにやってくれるひとがいないもので)。
確か「アーソーですか」というセリフがたくさんあった気がする。わたしはそれを参考にして、
「ああ」
「ああそうなの」
「ああそうなんですか」
「あーそうだよねー」
またそれを発展させて、
「うん」
「うんうん」
「ええ」
「えーえー」
「ええそうなの」
「えーそうなんですかー」
「おおー」
なんかいくらでも作り出せそうな気がしたのでこれぐらいにして、鏡に向かって練習をしはじめた。ほとんど会話をしてこなかったせいで、目は死んでいるし、顔に締まりがない。笑顔をつくってみると、ぴくぴくけいれんしはじめた。まあそのうち、なおるのだろう。
「へぇ君は千葉県出身なんだ。わたしは田園都市線で」
「ああ、川崎ね」
「そうだね、そういわれるといやな気分になるけど」
「きみの趣味は」
「楽器」
「うんうんへー」
「バンドもやってるんだ」
「だから何」と思ったのだが、きいたのはこちらがわなので、そんなことを言ってしまってはかわいそうである。
「えーバンド。いいねぇ」何がだ。
今度は自虐ネタをいってみる。
「きみって確かにイケメンだねえ。赤く染めた顔が似合っているよ」ここで笑ったら台無しである。わたしはこらえる。
「えーきみだって髪型変えたらかっこよくなると思うよ」よし、いまだ。
「いやーわたしって運動音痴だから」
「そうなの?」
「うん、高校で体力テストってあったでしょ」
「うん」
「あれで下から四番目」
よかった。これは自虐ネタの範疇のようである。
家に帰ってから、わたしは自虐ネタと自罰ネタ(正確にいうとネタにはなってないのだけれど)の区別をつけはじめた。
〈精神科に通い始めた〉
〈きみって本当に優しいよね〉
〈めいわくばかりかけてごめんね〉
〈ほんとうはわたしといっしょにいるのなんていやだよね〉
〈今月予定あいている?〉
これは全部自罰ネタなので、もういわないし、書かないようにする。次に自虐ネタを考えはじめる(みんなここまでやって、会話をしているのだろうか。わたしは生きていく自信をなくした)。
〈今日うんこもらしちゃってさー。だから今日ノーパンだよ〉
〈昨日多摩霊園いったらさ、職質されちゃって〉
あと、図書カードを渡したことについて、わたしは相手への愛情を伝えるのにお金かプレゼントを渡すしか知らない、というとんでもない事実に気づき始めた。みんなそんなに気にしてないのに。だとしたら西原の応仁の乱ネタを使うときなどもそうだけど、「ワキガ対策クリーム」「水虫クリーム」そして相手の顔がでかかったら「美顔ローラー」を
「君にぴったりだとおもって買ったんだ」
というふうにすれば自罰行為にはならないだろう。
「その髪って自分で染めたの?」
「いや美容院。きれいにそめたかったからね」
「へえ」
「ところできみっておしゃれな髪型だけど、どこで切っているの?」
「わたしはセルフカットだよ」
「うそ?上手だね。でもなんで」
「パニック障害でつらいから」ではなく
「中学生、高校生時代に病んでいた時期があってね、あっ今もそうなんだけど、それでね、ほらリストカットってあるでしょ? あれを自分の髪の毛でやっていたんだ」
相手は心配そうな顔をしはじめた。
「そしたらどんどんうまくなっていってね。いまでは完全にセルフ」
うまくかんきゅうをつけたおかげか、相手は大笑い(普段はそんなことをするような人じゃない)。ちょっと不安だったけど、よかった。
わたしは図々しさに拍車をかけていき、最初は携帯代、定期代、そして(実家暮らしなので)食費や部屋代など払っていたのだが、どんどん値切っていき、最終的にはお小遣いをもらうことになった。あーよかった。これで遊びながら精神科に通える。
わたしはGと、完全に別れるために、パンツと下着を脱ぎ出す。そして彼の姿を思い浮かべた。ちんちんはむくむくとたちあがる。
《少荘な身を暖かい衾の裡に置けば、毒草の花を火の中に咲かせたような写像が萌すからである。お玉の想像もこんな時には随分放恣になって来ることがある。そう云う時には目に一種の光が生じて、酒に酔ったように瞼から頬にかけて紅が漲るのである》『雁』森鴎外
こんなにきれいなものではなかった。四時間ほどこすり続けると(右手が死ぬかと思った)さらさらな精液がとくとくと流れてきた。そのあと連絡先から彼を消し去った。
わたしは今まで払っていた一万円という重みがなくなって、かなり軽くなった携帯の電源をつける。メールやラインなどがあわせて九百件もきていた。わたしはすべて無視していたことになる。
見てはいけないものを見てしまった、と思い携帯をしまってわたしは本をかばんから取り出す。鷺沢萠の『ケナリも花、サクラも花』(新潮社)をよみはじめる。《かなりの時間が経って、そのこと自体も、また自分の気持ちとしても冷めてきたころになってやっと言えるようになることというのがある。たいていの場合、現場でのショックが大きければ大きいほどあとになるとそれの持つギャグ的要素は強まり、また、どうせ言うんだからせいぜいおもしろ可笑しくしてやれ、というような生来の哀しい性も手伝って、真剣に悩んでいたことも周囲のみなさんに笑いを提供する単なる面白ネタになりさがってしまうことが、わたしの場合は多い。
もちろんそうでない人もたくさんいると思うのだが、わたしはわたしと同じような種類の人間を親愛をこめて「捨て身のヤツ」と呼んでいる》《別に自分の情けなかった話をギャグのネタにする必要性はどこにもないのだけれど、そうせずにはおられない、というか、そうすることによって自分の抱えている情けなさが少し薄まる、というような傾向はあると思う。面白ネタになりさがる、という言い方をさっきしたが、なりさがったことで自分も救われているわけである。
けれどやはりそれを口に出して言えるようになるまでには結構時間がかかる。転んですりむき、膝にできたすり傷のカサブタをはがしては新しいカサブタを作り……、というのを少なくとも三回くらいは繰り返す程度の時間。怒りだの興奮だの悲しさだのを笑いながら口に出して言うまでには、それらのものを「冷ます」ための時間が必要なわけで、》
電車がとまった。信号が動き次第発車します。
彼女の名前は『柳美里不幸全記録』にもでてくる、境遇などにている部分が多くて、最初は仲良くしていたのだが、最後は疎遠になった。鷺沢が自殺するまで。
わたしのはす向かいに立っている、お母さんは急に泣き出したあかちゃんを必死でなだめようとしている。お菓子? おもちゃ? それを見ているドアに寄りかかって立っている青年は、
「母親失格だな」
大きな声でまわりにもきこえるようにいったあと
「あんなんじゃ少子化対策にもなりゃしねぇ」
ぶつぶつとよくわからないことを口にしだす。
そしてドアに向かって頭をがんがんとぶつける。なんどもなんども。
でもしょうがないじゃない。わたしだってなんで泣いているのかわからないのだから。電車はゆっくりと、うごきはじめた。

2019年6月9日公開

© 2019 yohei

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