浙江省の古都・蘇州は地上の天堂と呼ばれた。太湖をはじめとする江南の無数の湖と長江をつなぐ大運河の上に成った都市で、水青く緑は鮮やか、豊かな土地は農産物が豊富で、養蚕業の発展とともに絹織物が名産となって商業も大いに栄えていた。市内には小運河が網の目のように巡らされ、人々は道を歩く代りに小舟で行き来した。また学問や芸術の街としても有名だった。
その蘇州に徐という旧家があった。代々官僚や学者を出した名門であったが、ここ数代の間は当主が早死するという不幸が続き、先代もまた若くして死んだ。その時、息子の徐天銘はまだ幼少であった。
未亡人の王氏は落ちぶれた家を抱えて息子の養育に苦心をしたが、幸いにも天銘は神童の誉れ高く、幼いうちに四書五経、注釈・五十七万字をすべて諳んじ、論文を書かせれば韻律整った見事な文章を作った。王氏は手元不如意にも関わらず、優秀な家庭教師がいると聞けば高額の報酬で招くなどして、家運のすべてをこの一人息子に賭けた。天銘もまた母の苦労を知って、一日も早く立身すべく勉学に励んだ。そのかいあって、十五歳の時、科挙の予備試験である童子試に省の首席で合格して、科挙受験資格を持つ「生員」(別称は「秀才」)という身分となった。
「一族からお役人様が一人出れば、犬まで天に昇る」と言われた時代のこと、天銘が生員となったと知るや、今まで徐家の苦境を見て見ぬふりをしていた親類縁者が続々とお祝いに駆けつけた。頼みもしないのに家庭教師を連れて来る者から、親類を名乗って勝手に住みつく者までいた。
裕福でもない徐家は、たちまちやりくりに困難をきたし始めた。それでも王氏は二年間なんとか辛抱すればよいと腹をくくった。天銘が見事、二年後の本試験(郷試、会試)に合格しさえすれば、蘇州中の有力者が金銀を持って集まって来るだろう。
そんなある夜、天銘は家の広間に呼ばれた。珍しいことに今夜は勉強しなくてもよいから、宴に出席するようにとのこと。聞けば、蘇州知府(知事)の韓大人が有名な神童を見にやって来るのだという。韓大人は中央官界でも大物である。天銘は湯浴みして衣冠を整え、母と共に出迎えた。
韓大人は威風堂々たる風采の持ち主で、立派なアゴ髭を蓄え、言葉づかいにも動作にも悠々とした風格があって、辺りの空気まで違って見えた。若い天銘は胸が疼く思いだった。韓大人も天銘を気に入ったと見えて、
「うん、見るからに才気縦横に走るが如しだ。まさに百年に一度の神童だな。ご母堂、掌中の珠とはこのことですな」
などと御満悦の様子だった。
「さ来年の郷試もきっと首席になられるだろう。お励みなされよ」
母親の王未亡人も天銘も感激で返す言葉も詰まりがちであった。
ふだんつましい徐家とはいえ、韓大人を迎えたこの時ばかりは豪勢なごちそうが次々と供され、居候や家庭教師の面々も勢揃いして飲めや歌えの大盛会となった。少年の天銘も今夜は酒を許されて少々酔った。けれども子供と笑われたくなかったので無理をして居住まいを正して座っていた。笑い声だの、詩句を吟唱する詠声だの、口角泡を飛ばす議論だので、耳がおかしくなりそうな騒ぎだった。
その時、広間の入り口を覆っていた赤い幔幕が急に左右にパッと開いた。何事かとそちらを注目した人々の一瞬の沈黙の隙を衝いたように、琵琶を掻き鳴らす音色が華やかに響き渡り、開かれた幔幕の下へ薄紅色の衣裳をまとった少女がすらりと現われた。背後にそれぞれ水色、黄色、緑色の衣裳の三人の少女を従えていて、皆、琵琶を抱えている。合奏をしながら舞うように優雅な足取りで、ゆっくりと前に進んできた。宴席を彩る芸妓たちが呼ばれたらしい。芸妓たちの美しさと琵琶の合奏の見事さに、人々は酒食も忘れて見入った。
天銘の目はすぐさま薄紅色の衣裳の乙女に釘付けになった。ほっそりした肢体に愛らしい小さな顔、その上、琵琶の技量がずば抜けていた。事実、しばらくすると他の者たちは弾くのをやめて、かしずくようにひざまずき、乙女が一人独奏を始めた。
琵琶の曲には文・武の二種類ある。叙情性と音色美を重視した文曲に、技巧を駆使した華やかな武曲。薄紅色の衣裳の少女が弾いている曲は、速い和音を連続的に鳴らしながら、絃をつま弾いて旋律を浮かび上がらせるという、非常に高度な技巧を要するものでありながら、ため息が出るような情感を伴っていた。いつまでも続く細かい雨のような和音に優しく印象的な旋律。
聞いてすぐ、天銘は妙な感覚に襲われた。この曲を聞いたことがある。しかも何度も。そう……これは『雨中梨花』という曲だ。
するとこの少女は……梨児だ。
徐家の召使いで、毎日のように顔を合わせている梨児ではないか。
宴が引けた後、天銘は大人たちに見つからぬよう用心しながら、屋敷の北側にある梨児の部屋の窓を叩いた。何か言いつけがあるのかと、梨児はすぐに出てきた。そして、「少爺(若旦那さま)」と言ってお辞儀をした。
「なんで天哥(天兄さま)って呼ばないんだ?」
天銘のなじる口調に梨児は困った顔を上げた。月灯りの下の小さな白い顔はいつもの見慣れた梨児だ。さっきまで金銀の簪に飾られていた髪は普段通りの三編みに戻っているし、服も使い古しの上着と色褪せた裙子だ。けれども天銘は梨児を美しいと思った。召使いのなりをしているけれども、梨児の本当の姿を天銘はもう知っている。
「梨児、母上なのかい? お前に芸妓と一緒に宴会に出ろと言ったのは」
梨児はこっくりとうなずいた。
「ここんとこ十何日間は、料理も掃除もしなくていいから琵琶の練習をしなさいって。大切なお客様だから、喜んでいただけるように特に趣向を凝らすようにって。あたしはもともと琵琶弾きだし、こんなことでもないと、太太(奥様)や少爺(若旦那さま)にご恩返しができないし……」
「天哥って呼べよ! なんだよ、急に!」
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