- くすんだ人間から放たれるアンモニアのにおいが香ばしく煮えたぎる豚の内臓のそれと、不協和音にまじりあう。繋がらないテレホンクラブの番号がコンクリートの壁一面にこびり付く。そして、ハローキティの毛布にくるまって、ホームレスは暖を取っている。
どこにでもあって、いつまであるかはわからない他愛ない高架下の片隅。そこに陣を構え、力のない瞳でぼんやりと水晶を眺める易者風情の男のもとにカツカツとヒールを鳴らす音が近づく。
「あのお、今やってますか?」
易者の水晶は、小学校のデシリットルビーカーみたいにまともな透明性も保持していない。ドンキホーテどころか探せばダイソーでも手に入れられそうなチンケな代物だったが、その水晶でさえも、いかにも幸薄そうな彼女の陰はくっきりと映し出された。
「ええ、まあ」
易者はにべもない態度で無精ひげをなで繰りまわしていたが、彼女は貧相な下唇をキュッと噛みしめながら、INGNIのショルダーバッグの中にしなやかというにはこけ過ぎた指を突っ込み、
「……いくらですか?」
そう言って、裸のまま取り出された一万円札を台座の上にポトリと落とした。くしゃくしゃに折りたたまれた紙幣を指で伸ばすと、福沢諭吉の顔からつつうと糸が引いた。じっとりと一万円は湿っている。自販機の類はこの紙幣を使用できる通貨、日本円だとは認めないだろう。もしかしたら、コンビニでリポDと一緒に差し出しても、店員に丁重にお断りされてしまうかもしれない。
易者は業の深い一万円札を手に取り、濡れて透けた紙幣越しに彼女の目尻のホクロのあたりをちらりと見て、それから利休帽の中にもう一度紙幣を折りたたんでからしまった。
「あなたは家で待っている大事な命の為に、かくも悩みを抱えてらっしゃる」
易者が呟くと、彼女の腫れぼったい瞼がくっと持ち上がったが、易者はそこには目を向けず、彼女の指先の動きをじっと見続けていた。
彼女の薬指には指輪はなく、かわりに絆創膏が付け根のあたりに巻いてあった。よく見ると、引っかかれたような傷も手の甲や手首に薄くすうっと線になって、残っている。易者はそれを見逃すはずはなかった。
易者の視線を感じ取ると、彼女は気恥ずかしそうに手首をお腹のあたりに抱え込んで、隠した。ガードの下に巣を作った燕の雛鳥がぴいぴいと夜中だというのに、声をあげて、餌をねだってさえずっている。
「あなたはまだ若い。あなたの親くらいの人間が、余裕もなくあなたにあたって来ることをまだ受け入れられていない……違いますかな?」
易者は不器用に一文字だった口元を少しだけ緩めて、囁いた。この辺り一帯を通過する特急電車が轟音を立てながら、高架を通り過ぎると、彼女のフレアスカートがふわりと棚引いた。特急は通勤客のねぐらに向かって猛進し、夜のとばりに消えて行く。車輌の中には、誰かの上司が履いて捨てるほどひしめきあって、その殆どはこの時間なら、自分の心を酒に漬けて本当の味をごまかしている。そうして酔った男はたいてい管を巻き、禿頭を掻き毟りながら、そのまた上司の愚痴を溢しているものだ。
「私はお酒のかわりにはなれませんが……ここでこうしてじっと黙っていることはできます。いつまでもあなたの時間の許す限り」
易者がそう言って目を瞑ると、今まで陰そのもののようだった彼女から、うふふとくすぐったい笑いがついこぼれ出た。手首を守るようにして隠していた掌と指は、今、彼女の笑いとともにまつ毛を伝った涙を拭い取る為に動かされている。
「すごい……なあにも当たってないわ」
彼女は易者ににっこりと微笑んで、実のところをきっぱり伝えた。深々と頭も下げてからも、微笑みはまだ解ける素振りもない。そうして、頭をあげ、乱れた長髪を手櫛で軽く整えると、満足そうにバッグの金具をガチャガチャ弄りながら、高架下の暗がりを後にして、街灯とやさしく灯り続ける青信号の目の中へと吸い込まれていく。
易者はぼんやりとその後ろ姿を見送っていた。バッグの隙間から薄紫のレースの布がちらりとはみ出て見え隠れしていたが、後姿が横断歩道の向こうへと消えてしまったら、それももう見ても、見えていないも同然だった。ホームレスがガバリと身体を起こして、辺りを見回してから、また浅い眠りに落ちていく。ヒールの音だけがまだ少しだけ聞こえ続けていた。
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