まるで天を目指して建築され、神の怒りの雷火を被った炎の宮の如き――
視線避けの布に編み込まれた結縄文字を前に、トニーは思わず微笑んだ。二年前、はじめてヒバに来た時の彼なら、このいたずらには気づかないまま眠りに落ちてしまっただろう。縄には小さな結び目と大きな結び目がある。並びは不規則で、張りのために縄は身を捩り、悶え苦しんでいるようだ。調査隊の運声機をつかえば規則に従って音が再生されることはわかっているが、トニーはそれを好まなかった。運声機をつかうくらいなら、指先で軽く触れたほうが彼らの詠う抑揚と韻律を正確に再現できる。その声こそがヒバの結縄文字――いや、廃街がまだモームだったころの人々が唯一この世界に残した声そのものなのではあるまいか。
廃街。
世界各地に点在する謎の旧建築物群のことをだれがそう呼んだか定かでない。いにしえの技術の粋が集められ、住民は死せれども今なお主を待つ生ける街、滅亡した古代文明の遺跡であるとの見解が主流であるが、廃街がどのように形成され、古代文明がいかにして滅んだのか、いまだ謎は解明されないままだ。
たとえば沙漠に埋もれたフェルガナの廃街、あるいは湖の底に沈んだベリタの廃街、氷河に今にも押しつぶされんとするキッシャリの廃街も忘れてはならない――トニーの故国セルキア・タルージア共和国のデルゾント山嶺にも世界最大規模といわれる廃街があるが、獣道も途絶える山道を往くのは容易ではなく、何度調査隊を送っても途中で四散するか全滅がいいところだった。稀にたどり着いても山域を支配する巨鷲の餌食となって採取品が持ち帰られることはない。それでも廃街の存在が否定されないのは、セルキアの歴史に関することなのでここでは割愛する。
その点、ここ、ヒバにある廃街は、規模はさほどでもないが雨季であればアクセスが比較的容易なこともあって、訪れる調査隊は少なくなかった。廃街の周囲にすむ原住民たちも外国人に慣れていて、宿を貸したり案内をしたりして生計を立てている。
たぶん、このいたずらはトゥラの仕業だろう、と彼は思った。
トゥラはトニーをヒバの廃街まで運んだ船の船長の娘だ。崩れかかった廃街のそばで鈍色の卵を転がして遊んでいるところはよく目にするが、トニーが話しかけても恥ずかしがってすぐに逃げていってしまう。両手で包めそうなくらい小さな顔、健康を表す白い歯に切れ長の大きな目。虹彩が赤みがかった金色を呈しているのは、典型的なベフマの特徴だ。調査隊に対してベフマらしさを売る必要がないことを知っているベフマたちは、廃街から持ち帰った古代文明の遺品を利用することが多いが、服装だけは現代らしいシンプルなものを好む。彼女もよく、Tシャツと短パンからすらりとした手足をのばし、しなやかに走っている。端的に言えば、彼女は美しい。
いつの間にか足の甲を這っていた甲虫を爪で跳ね飛ばして、トニーはベッドに横たわった。ベッド脇の飾り布にも文字が編み込まれていたので、トニーはまた笑った。
トゥラがトニーの部屋にいたずらを残すのは初めてではない。直接話はしたがらないくせに、彼女が飽きもせずにいたずらを繰り返すのは、彼女の双福であるシフェがトニーの案内役をしているからだろうか。
セルキア語に通じているシフェは貴重だ。ベフマの案内がなければ廃街の調査はもとより、ただの散歩だって命がけだし、なにより彼は多くの伝承を諳んじている。古代文明の言語を研究するトニーには換えのきかない相棒であった。
そのシフェとトゥラの関係は――少なくともトニーの価値観で言えば夫婦だといえるだろう。当人たちは夫婦とは違う、恋人でもない、双福であると言い張るが、大抵の双福は一緒にくらしているし、子どもがいるものだ。シフェの口から明確に語られたことはないのでトニーには夫婦と双福の違いがわからない。
天より飛来した銀の礫が地を穿ち、エジエの街は瞬刻も待たず亡滅した――灰燼は天を焦がし、ヒバの望楼へと――
「トニー。手紙」
彼は手を止めた。
目隠しの布の隙間に涼しげな目が覗いている。珍しく、トゥラである。拙いセルキア語であったが、発音はしっかりしていたので意味はわかった。彼は礼をいい、部屋に投げ込まれた封筒を拾った。
「読んだ」トニーの手元をさして彼女は言った。
「今から読むよ」
「違う」むっとしたように口をとがらせ、彼女は少し考えるような顔をした。それからもう一度「読んだ?」と今度は語尾をあげて繰り返す。
ああ、と彼は息を吐いた。いたずらのことを言っているのだ。彼はほほえんで、読んだ、と率直に彼女に伝えた。布の向こうでトゥラがにこりとする。
「全部?」
「そっちは全部読んだよ。こっちのは今読んでる」
「読んでる」
首を引いて彼女は柳眉を寄せた。しかし特にトニーと話したかったわけではないらしく、くるりと踵を返して走っていってしまった。もしかするとこれからシフェに意味を聞きにいくのかもしれない。彼女があやつるセルキア語は簡単な単語といくつかの動詞だけだ。難しい文法規則はまだ理解していない。
再び寝床に身を落ち着けて、彼は手紙の差出人を確認した。封書は三枚、一枚目はパトロンからである。先日、廃街から持ち帰った道具を送りつけたので、その感想だろう。たまにはそうして機嫌をとっておかねばならない。二枚目は妹から、三枚目は――母のジェニーから――どれも憂鬱であることは間違いないが、妹のほうが少しはマシかもしれない。彼はため息をついて、三枚とも枕の下へ追いやった。
ヒバへ来れば家から逃げられると思っていたといったら、シフェは笑うだろうか。
ケ、ケ、ケ、ケ、ケ……と笑うような甲高い楽園鳥の声と、バナナの葉を焼く臭いにトニーは目を覚ました。眠っている間にじりじりと這い寄っていた湿気がベッドの脇までせまり、肌が汗のせいでひんやりとしている。青い闇は廃街の方へ去りつつあり、かわりに熱帯の勢力が増しているのだ。
彼はあくびをした。あまり快適な目覚めではないが、これ以上グズグズしているとますます不快な朝をむかえることになる。さっさとシャワーをあびてさっぱりしてきたほうが良さそうだ。
ヒバの海辺は南洋一のリゾート地とうたわれる景勝地であるが、少し島の奥へ足を踏み入れると呑気な景色は一転し、鬱蒼と茂るジャングルが獲物を虎視眈々と狙う弱肉強食の世界へと変貌する。生い茂る木々は光をすこしも地面に落とさず、息を吸うと水の中にいるように錯覚するほど湿度が高い。ものかげには鋭い牙と金色の目を輝かせる肉食獣が隠れ、河の中にはワニや肉食の魚が息をひそめている。それらの攻撃をすべてかいくぐっても、血を吸うヒルから逃れるのは至難の業だ。牛の舌ほども大きなヒルがすねに食らいついているのを見た時は、トニーも少女のように悲鳴をあげた。
そんなヒバだが、雨季を待てば移動はかなり安全で楽だ。雨とともに大河が訪れ、奥地まで人を運んでくれるからである。船でジャングルを抜けると、過ごしやすいベフマの居住地へ直接アクセスできる。水辺から離れたところに作られた村は、湯気のかたまりにつつまれているところはジャングルの中とかわらないものの、危険な動物は寄り付かない。たしかにたえず蝿がぶんぶんとついてきて隙あらば人体の穴に潜り込もうとするし、地面にはうようよと得体の知れない甲虫や蟻が這っているが、少し上を見れば極彩色の鳥たちが短い命を燃やしながら愛を歌っているのを眺めることができるし、廃街のおかげで光も享受できる。極彩色に彩られた南国の暮らしだ。
ところが廃街へはいると、また様相は一変する。
廃街の中ではすべての色が消し飛び、命の痕跡は途絶える。密林と廃街の間の見えない領界線は地を這う虫たちも慎重に避けているようだ。極楽鳥たちは見晴らしのいい望楼には目もくれないし、時折好奇心の強い青鷲が白亜の遺跡の上を旋回しているが、決して安全な空から降りてくることはない。
人工的な直線と真円から成る白亜の宮殿。スコールと強い太陽光にさらされ、領界線付近の建物こそ風化して崩落しているものの、形を保てなくなってもなお潔癖な白が損なわれることはなかった。舗装された道は一体どんな石を使っているのか継ぎ目もひび割れもなく、一歩領界線を超えれば、音も、ベフマの村から漂う雑多な臭いも、あるいはジャングルの中で滞留する泥と死の気配も、極楽鳥たちの愛の歌さえも、なにもかもが消え失せる。在るのはかつての住人たちの痕跡と、摩天楼の間を通り抜ける色も温度もない風と青い影、まさに空虚だけだ。
「あのババア、また来るのか」
廃街のはずれでシャワーを浴びて戻ると、シフェが待っていた。腰にはバナナ刈りの鎌と、言葉を紡ぐための細縄を下げており、準備は万端といったところだろう。
「手紙、来てる」
ああ、とトニーはついため息をついた。
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