(第2話)
翌日、依本は編集者の内田に電話をし、前日に聞き忘れたことを二、三質問した。
電話をしたのは、質問もさることながら仕事の依頼が本当に本当なのか探りを入れたかったからだ。とにかくこの業界、口約束が当てにならないこと甚だしい。
内田は昨日と同じような抑揚のない口調で質問に答えた。
電話を切った依本は薄い財布をジーパンのポケットに突っ込み、強い日差しに一瞬迷ったが、いつものスタイルでいこうとサマージャケットを羽織って家を出た。どうもTシャツ1枚だと心もとない感じがするのだ。
初夏から本格的な夏へと向かう、じりじりとした日差しが頭上から降り注いでいる。すっからかんでロクなものを食っていない依本はクラクラとしてくる。体に負担をかけないようにゆっくりと歩いていった。
さっきの電話を思いだす。たしかに昨日の依頼はだてや酔狂ではなさそうだ。反対に、渡した本は目を通しましたかと聞かれてしまった。
――― なるほどなぁ。向こうからすると、落ちぶれた作家が前渡し金だけぶん取ってダンマリを決め込むって方が不安だよなぁ。
内田の名刺は本好きでなくても名前の知られている、文晴社という大手出版社のもので、もらった名刺を頼りに電話をしたらたしかに出たのだから疑いようはなかった。携帯電話なので百パーセント確実とは言えないが、そこまで疑ってはキリがない。もしもウソだとしたら、受け取った前渡し金の説明が付かない。
――― やっぱり本当の依頼なんだ、なぁ。
実際に昨日、編集者の内田と会ったというのに、どうにも実感がなかった。ポケットには、手渡された文庫本があるというのに。化かされているのではないか、という気分がどうしても抜けない。
依本がそう思ってしまうのは、しょうがないことでもあった。なにしろここ1年、執筆の依頼がまったく入らなかったからだ。そこに突然、依頼が舞い込んだ。うれしいはうれしいが、唖然とするし、首を傾げるし、警戒もする。
依本は連絡を受けても半信半疑だった。大手の出版社、それも今までほとんど付き合いのなかった文晴社だったことが、より奇妙だった。でも冗談などではなく、編集者は約束の時間どおりちゃんとやってきて、依頼内容を明確に説明していった。
銀行で家賃を振り込む。機械から明細が打ち出され、これが依本には、毎月ホッとする瞬間だった。ちょっとなさけない瞬間でもある。所帯持ちは6畳一間の家賃の、数倍の額を月々払っていることだろう。こちらは、と依本は財布に明細をしまいながら、ため息をつく。6畳一間の家賃でさえやっとだというのに……。
内田からの依頼がなかったら、どうなっていたことだろう。いよいよ覚悟を決めて、どこかに勤めだしていただろうか。
本屋で雑誌を立ち読みして10分ほど時間をつぶしたが、信号を渡って「大葉」の前に立つと、昨日と同じく5時5分前だった。これくらいならいいだろうと、依本は入っていった。
「あ、いらっしゃいませ」
アルバイトが焼き場から、ちょっと戸惑ったように言う。
「あれ、オヤジさんは?」
「今近所に出ててもうすぐ……」
そう言っているところにオヤジが戻ってきた。
「依さん、またフライングかい。競艇なら出場停止だな」
「これでも時間つぶして来たんだぜ。オヤジさんこそ開店ギリギリまでほっつき歩いてちゃダメじゃんか。デパートみたいに、開店数分前には入口に立って客を迎えなきゃよ」
「こんなおっさんが猫なで声出してたら来る客も帰っちゃうぜ、なぁ」
オヤジに顔を向けられたアルバイトが、えぇまぁと曖昧に頷きながらカウンター越しにおしぼりと生ビールを出し、依本は腰を浮かせて受け取った。そしてジョッキに口を付けたところで団体の客が入ってきて、店はいきなり賑やかになった。
本を読もうとした依本だったが、なんとなく気持ちが書くことを要求していたのでポケットからメモ帳とボールペンを出した。書き出した小説の構想では中間部分に主人公の女の子が見よう見まねで料理を作るシーンを入れようと思っていて、依本はカウンターの向こう側をチラチラと見ながら、気ままに書いていった。
レトロだなぁと自身でも思いながら、ボールペンをメモ帳に走らす。今でも手書きなのかと、驚かれ、からかわれる。その都度、バッテリーの心配がないからね、などと適当に言って、笑って受け流していた。
なんとなく、少しアルコールが入っていると、文字がうまくなったように感じる。
小説を書き始めるときというのは、眠くないときに眠ろうとする行為によく似ている。依本はいつもそう思っている。
たとえば長々と昼寝をしてしまった日曜の夜。翌日の出勤に向けて、眠気もないのに寝床に入らなくてはならない。まさか勤め人であれば、日曜深夜に用もないのにだらだらと起きているなんてできっこない。無理にでも睡眠を取らなくてはならないというものだ。しかし電気を消して真っ暗にしたって目が冴えてしまっている。目は瞑ろうとしても勝手に開いて、暗闇をぼんやり見つめる。そのうち目が慣れて天井の模様がしっかり見えたりもする。これじゃ明日は眠たくてたいへんだと思って意識的に目を瞑るが、焦るほどに目が冴えてきてしまう。
しかしそれでも暗闇で横になっているので、時おりうつらうつらしてくる。レモンを絞っただけのお手製のレモン水のような薄い眠りに、ふっと入っていくのだ。そのタイミングをパッと捉えて眠りの世界に入りこめれば、けっこうぐっすり眠れてしまう。しかしそこでつかみ損ねると、これはもう目が冴えた状態が延々続いてしまうことになる。
書き物も似ている。書こうと思ってもついだらだらしてしまう。本を読んだりテレビを観てしまったり……。しかし書かなきゃ、書こう、そんな一瞬が時おりおとずれ、それをつかまえるとうまく10ページ、20ページと書き連ねていける。つかまえられないと、その日はまったく書かずに終わったりする。
もっともこれは、自分だけにしか当てはまらない比喩かな、と依本は思っている。もっと才能のあるヤツは徹夜明けの人間のようではないかと。徹夜したあとは、明るくたって騒音が激しくたって一瞬で眠ってしまえる。場所を選ばないのだ。それと同じように才気溢れる小説家というものは、電車の中でだってメモ帳に書き、スーパーのレジに並んでいる間も携帯電話のメモ欄に打ち込んでいることだろう。
しかし自分にはできない、と依本は思う。疲れているとき、または混んでいる場所、あるいはわずかの空き時間など、集中できないと心の中で匙を投げてしまったときは書けなかった。
「大葉」は今日も盛況だ。席が8割がた埋まっている。依本はビールからホッピーに切り替え、串を数本頼んだ。
カウンターの端で快調に、メモ帳にペンを走らせる。とても気持ちのいい時間だ。
―― 今日はうまく眠りに入り込めたな。
依本は大ぶりのグラスに白と黒のホッピーを均等に足しながら、一つの場面をじっくり書き込んでいく。ホッピーのいいところは、濃い薄いを自分で調節できるところだ。書き物に集中している今晩はホッピーをドボドボ足して、アルコールを極端に薄くしていた。
依本は長編を書くとき、出たとこ勝負で書き始めたことはなく、あらかじめだいたいの展開を考えてから書き始める。そしていつも第2章か第3章から書き始める。第1章は読者を物語に入ってこさせる重要なつかみの部分なので、どうしても気が張ってしまう。そのやる気が空回りしてアイデア倒れになるケースが多かった。だから気楽に書けるところから書いていくことにしていた。第1章から書くこともあるにはあったが、あとで大幅に書き直す。今回すでに書いた50枚も第1章なので、いずれまったく違う文章になることだろう。
ホッピーの横に、静かに串焼きが置かれる。この気づかいが好きだった。他の店だとなかなかこうはいかない。ひどいところだとメモ帳や筆記具など早くどかせとばかりに、皿やジョッキを持ってうろたえるフリをするところもある。
依本は疲れを感じ、メモを閉じた。たばこに火をつけ、重い頭を首に乗せるように上向き加減に、目を細めて大きく吸った。休息を入れると勢いが失われるおそれがあったが、休み時と感じたのでその感覚に素直に従った。
"影なき小説家(ペイパーバック・ライター) 第2話"へのコメント 0件