儀式
この世で一番嫌いな場所が見えてきた。おれは爪の間の泥を親指の爪でほじくりながら、いつもは通らない畑のなかを突っきっていった。老いぼれの姿はない。代わりに黒い、小さな影が闇と野菜の間を跳ねまわっていた。
ハツが手塩にかけて育てた秋キャベツをひとつ、蹴っ飛ばす。葉っぱを撒き散らしながら転がっていくそいつを見ているうちに笑いがこみあげてきた。きっときちがいどもを何百回も蹴っ飛ばしたら、あんなふうにバラバラになって死んでいくんだろうな――そう思ったからだった。
「お前らを殺さない代わりに、ばいならだ」
ちゃんと口を動かして、いった。誰も聞いちゃいなかった。
玄関の脇でハナコが盛大にしっぽを振っていた。出迎えられたおれはキツネ色の首に素早く腕をまわし、頭をなで、鼻鳴きを封じた。そんなことをされてもハナコは自分の気持ちを思いのままにぶちまけてくる。あっという間に服を毛まみれにされた。
「晩飯はもらったのか」
べちゃべちゃの鼻を泥や松本の血でできた染みに押しつけてくるハナコ。その体を抱えこみながら犬小屋のなかの餌箱をのぞきこむ――いつのものかわからない白飯に味噌汁をぶっかけただけの餌。そいつがほとんど手つかずで残っていた。
「こんなもの食えねえよな」
ハナコにお座りを命じ、ランドセルのふたを開ける。
「お前とも、もうじきお別れだ」
今夜は今夜で、明日は明日でなにかと忙しくなる。もう、ハナコを散歩へ連れだしてやることはできない。
「悪いけど、こいつで我慢してくれよ」
わら半紙の包みを見たハナコが身をよじって動きまわる。吠えることはしない。鼻鳴きと鎖のじゃらつく音だけがうるさかった。母屋にはこうこうと灯りがついている。掟を破った奴隷め――玄関前の音と気配は、その帰りを手ぐすね引いて待っている老いぼれの耳にも届いているにちがいない。おれはさっき下した命令を忘れ飛ばしているハナコにもう一度お座りを命じた。
「よし。食っていいぞ」
魚の嫌いな女子にもらった給食の白身魚と、おれの残した食パンにむしゃぶりつくハナコ。腹一杯とまではいかないが、あんな残飯よりはマシだろう。ハナコはそいつをたったの二秒でやっつけた。
「もうちょっと味わって食えよ」
いって、ハナコの前を離れる。たるんでいた鎖がまたじゃらじゃらと音を立てた。
「伏せ」
最後の猿芝居――ぶっ壊れているこの人生をいっぺんに修理するための儀式。玄関の前で深呼吸をする。息を止める。目をつぶる。開ける。息を吐く。おれの命令を無視したハナコが自分の動ける範囲一杯のところで首を傾げていた。
「なんでもしてきやがれ」
ハナコが低い声で吠える。おれはガラス戸を力任せに引き開けた。
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