可愛がられた子というのは健全に生育するものだが、困ったもので、幼稚園児になった智香は絵を全く描かない子供だった。
展覧会で貼り出すからと、遠足の思い出を画用紙に描きましょうと言われましても、特に描きたいことなんかないし、そうだらけていたが、周りの園児たちがせっせと絵を描き始めたことに泡を食った。
クレヨンの、丸く可憐に尖った先端の形を何とか残しておきたくて、使いたくない。だったらせめて一番汚い色の茶色を使おうと、しかもわたしの好きな先端ではなくクレヨンのお尻の方を使おうと、右手に握るも、何を描いてよいのか判りませんし、絵というのはどうやって描けばいいのやら、このまま時間だけが経過すれば幼稚園児だしどうにかなるかもしれません。
「智香ちゃんの絵はみんなより少ないんですよ」
展覧会の日、智香と手を繋いで歩いていた母のところに、担任の先生が、飼い主を友達だと思っている無邪気な愛犬のように寄ってきて、砕けた調子の声で心憎く説明し、母は虚ろに他の子の絵を眺めていた。口は閉じたままだ。
「智香ちゃんはね、人はそれぞれ成長の速度は違うんです、でも一枚は描き上げたんです」
唯一完成した智香の絵は、貼り絵というジャンルのもので、先生が丁寧に黒マジックで蟹さんの輪郭を描き、その内部に赤、黄、青、緑のセロハンを、智香が鋏で大きめに雑駁(ざっぱく)に切り、糊で貼ったものだ。
蟹さんを母は見つめる。節に隙間がなく飛び出しもない黒い輪郭の精巧さを、その黒い部分だけを、見つめる。
赤、黄、青、緑を眼に映し、色の残像を少々ぼやけさせて、智香は言った。
「お母さん、わたし、頑張って書いたんだよ」
母は、智香、先生、智香、と視線を移す。唇は動かない。表情も動かない。
「わたしね、頑張ってね、絵描こうとしたんだよ。でも描けなかったの」
蟹さんの絵、他の子の絵、蟹さんの絵と、母は首を動かして、ぽとんと言った。
「お前は駄目だね」
目を上下の皮膚で握り締め、便所へと、個室へと智香は逃げた。辛うじて薄目は開けていたのだろう。
理不尽なことに幼稚園の便所の個室の壁は、先生が外から中を覗けるように低く造られており、ときどき男子が取っ手に足をかけて、個室内の排泄の様子を観察してきたものだが、現在において、その壁の上から、母が顔を出してきた。
「お前、お腹痛いの?」
"チンポと絵が嫌いだから、就職できない。 第1章 (1)"へのコメント 0件