一
私が初めて彼を目に留めたのは、梅雨が明けたばかりの、夏にもなりきらない半端な季節だった。蝉はもう鳴いていたかもしれないし、思えばあの日が、蝉という存在を意識した最後だったのかもしれない。
その日、私は小学校が終わるや否や、黒いランドセルを背負ったまま同級生と隠れんぼをしていた。本来、隠れんぼは好きではなかった。けれど元来負けず嫌いなものだから、今で言う新都市の外れにまで足を伸ばしていた。
どこに隠れようかと、手頃な低木を吟味していたときだった。私はそれを聞いた。ぐしゃりとも、ぐちゃりともつかぬ、どうにも形容し難い複雑な音を。それは初めて耳にする音であったが、同時に、ずっと以前から聞いていた音のような気もした。
というのも、私の気質は、世間から少々残酷だと言われるところがあった。その最たる理由が、両親が常々奇行だと畏れていた殺生癖である。とはいえ、殺す相手は小さな虫たちだ。蟻に始まり、羽をもいだ蝶や、固い羽を持つカナブンの類。それらを平らな石で押し潰してみるのだ。上からかかる圧力に耐え切れなくなった瞬間、体液が噴き出し、石を介して指先に伝わる、僅かだが確かな肉感。その感触に、私はいつも心を躍らせた。尾てい骨のあたりから駆け上がってくるような、ささやかな絶頂感を味わうのだ。
私はその度に、今しがた鼓膜を震わせた音のようなものを想像していた。身体の小さな彼らでは、ぷちんという弾けるような音は聞こえたかもしれないけれど、私の満足ゆくものではなかったから、音を思い描いては暗い悦楽に身を震わせていたのだ。
だが所詮、それは想像でしかない。
小指ほどの芋虫を潰した時は、それなりの満足感はあった。だがそれもだんだんと満足できなくなり、自分の足で試したこともある。だが人間は、思うよりも硬いのだ。いつも私の欲望は滾るだけ滾り、無理矢理な鎮火を余儀なくされていた。
それが満たされるかもしれない──希望と不安が入り混じり、気を抜けば昼の給食を嘔吐してしまいそうなほどに、私は興奮していた。私は迷うことなく、確かに音がした方へ慎重に足を運んだ。この辺りに人は住んでいないはずなのだが、鼻先には、確かに生活の匂いが近付いてきていた。
そして彼は、一軒の、少しばかり古い平屋の中にいた。彼は先日までの梅雨の残した忘れ物のような、まん丸い水たまりの中で、ぼんやりと座り込んでいた。彼の肌の色は随分と白かった。白というよりは、もはや青磁のような蒼さを持っていた。私は一瞬、出血し過ぎて死んでいるのかと疑ったほどだ。彼は、血溜まりの中に座り込んでいたから。だが伏し目がちの瞳はゆっくりと瞬きをしたので、彼が生きているのだと知った。
そして彼の足元には、巨大な石で押し潰されたような肉塊が転がっていた。
真っ赤に染まった服と、血溜まりの中を漂う髪の毛で、かろうじて元は人間であったことが分かるものの、その二つの塊からは、もはや原型は窺えない。ちょうどハンバーグのタネのような色をしていて、とはいえ少しも美味しそうではなかった。
私は、あれほど夢に見たその二つの肉塊の姿そのものには、特に感動を覚えなかった。だが、この惨劇と重ね合わせて彼をもう一度視界の中心に据えた途端、私の中を何か途轍もない衝撃が駆け抜けたのだ。
これはなんと、美しい生き物なのだろう、と。
私は気付いていた。彼は最近ニュースで取り沙汰されている、変異の一種であろうということを。機械もなく、人間を二人も押し潰してしまうなど、普通の人間には到底不可能である。血溜まりの持ち主は、彼が肉の塊にしたに違いなかった。だが彼は悲しみに暮れているわけでも、もちろん罪を感じている風でもなかった。彼はただそこにいたのだ。まるで、植物が太陽の光を受けることが当然とでも言いたげに根を張るのと同じように。
いっそ人殺しと罵ってみようかとも思ったが、深紅のビロードの上でぼんやりと空虚を見詰めていた彼は、私たち「普通」の人間がおおよそ立ち入ることのできない精神世界にいるように思われた。それは私の凡庸な人生において、一筋の閃光のように輝き、一瞬にして私の心のすべてを奪った。
私はこの宝物を、どうしても自分のものにしたかった。だから私は、血溜まりに沈み込んでいたその少年の手を引いたのだ。
それから、何年か経った。
もう随分前に、この国は完全に崩壊していた。続く天災、天変地異。重ねて新種のウイルスによって奇形の子が生まれるようになり、外国からは完全に見捨てられ、私たちはこの島に幽閉された。人口は目に見えて減る一方で、幾つもの街がすでに廃都と化した。
そして更なる悲劇は、奇形児の中に、心を持たぬ者が数多く見受けられたことである。彼らは感情もなく、無差別に人を殺した。
この小さな島国は、血の海に沈んだのだ。
そんな度重なる天罰によって、人は異形を畏れるようになった。彼らは皆、差別なく樹海に建てられた隔離施設に収容されることとなり、ほどなくしてそれは法律化された。
それは、私が彼と最初に出逢った直後だったかもしれないし、随分と時を経ていたかもしれない。私はそもそも世間と自分とを同等とみなしてはいない節があったから、自衛隊が天子様に返還されたなどという、そういった政治的事柄にはあまり関心がなかった。
けれど、この大きな濁流が、私と彼との関係を築き上げたのだということは必然だった。
その頃、私は中学生になっていた。あと一年すれば高校に上がる。私の家は裕福だったから、私は他の若者と違い、何の苦労もせずにまともな教育を受けることができた。
だが一方の彼は、私に与えられた離れの一室で、まるで籠の中に閉じ込められた鳥のように、羽を広げることもなく生きていた。私は彼と出逢って以来、そこに彼を囲っていた。
彼は口数が多い方ではないし、私も初めて手にした宝物をどう愛でて良いのか分からずに、結局私たちは隣にいても常に背中合わせで座っているような、不思議な距離感を保っていた。交わした言葉は、数えられる程度のものだったし、目線さえ絡むことも稀である。
彼の存在は、父母にも、住み込みの女中にも見つかることはなかった。それは父母が、随分と私を持て余していたからである。幼少の頃から少し変わった嗜好を持っていた私もまた、異形の者たちと何ら変わらず、この家では隔離されているに同じだった。
もはやこの離れには誰も近付かない。法律も、社会も、世間も、私たちには何ら干渉してはこなくて、だから私は彼とこの隔離された世界に生きることができた。
梅雨があけ、完全に夏を感じるようになったある日のことだった。その日は試験の期間で、いつもより随分と早く中学校から帰ったその足で、私は庭に向かった。彼が夏になるとそこにいることを、私は知っていたから。
彼はやはり、雨上がりの蒸し暑い私の庭園で空を見上げていた。庭は誰の手も加えられず、自由奔放に生きている。私も彼も、この庭が好きだった。私たちを結ぶものは、この時点ではそれだけであった。
抜け切った空の青さに負けず、生命の輝きを放つ芝生の中に彼はいた。細い白樺のような艶やかな四肢を投げ出し、太虚を仰ぎながら小唄を口ずさんでいた。いや、小唄など彼が知っているはずもないのだから、本当は唄っていなかったのかもしれない。けれど私には彼が、何人も立ち入れぬ真の境地において、たった一人この世界を見下ろしているように思えたのだ。それは、この狭い世界の中の彼にとっては、きっと極上の気分なのだろうと感じていたものだから。彼はきっと、小唄を口ずさむほどの陽気さで、そこにいるのだと思っていた。
部屋にいる時はアトリエの隅に佇む絵画のような彼は、この庭にいる時だけは、なぜか決まって私に言葉を求めた。ここ数年の会話はすべて、この庭に彼がいて、私がいるという条件下で交わされるものだけである。それはそれほど多いものではない。彼が庭に出るのは、こんなふうに暑い夏の、ほんのひとときであったから。
その日もやはり、彼は私に言葉を求めた。不安になるほどの細い声で、一語一語区切るように喋るのが彼の癖である。
「僕は、空を飛べるんだ」
突拍子もない発言に思えるが、私は彼が空を飛んでいても何も不服はなかった。その白樺の小枝をしならせて、太虚を悠々と飛んでいたとして、誰がそれを不思議だと思うだろう。
彼は相変わらず空を見つめていた。だがそれは太虚を見据えているようでいて、どこかそれを装っているふうがある。一方で、それが独り言になったとしても一向に構わないという、気丈さもあった。
私はただ、彼の気を引きたくて、小さな頭を素早く回し、そして最良の答えをくれてやった。
「僕も飛べるよ」
彼はそこでようやく私に振り向くと、雨粒のように澄んだ双眸をきらめかせ、世界で初めて人に会ったような不安と悦びに歪んだ表情を浮かべた。
蒼白く痩けた頬には、庭の松の木の葉が落とした影が細かい筋を描いている。瞬きのたびに音を立てて揺れる黒い睫毛と比例するように、髪の毛だけは顔色によく似た銀色をしていた。立っているだけで汗に濡れる私と違い、彼の狭い額はさらりと乾いていて、その不思議な姿形は、やはりどこまでも美しくあった。
彼は不恰好な笑顔のまま、ゆっくりと瞼を閉じた。
「君って、変わっている」
私にはなぜか、その途切れ途切れの言葉が、ひどく大人びた、達観した者の吐き出す憂いのような暗黒の煌めきとして脳に刻まれた。
「なまえ、何ていうの?」
一拍おいて再び彼が問い掛けたから、私の心は歓喜に満ちた。おかしいと思うかもしれないが、私たちは名前も知らぬまま長年共に暮らしていたのだ。だが私たちの間にそれは必要なことではなくて、そもそも名前など後付けであって、私たちの精神には何ら関係のないものと私は考えていたから。
「誠司。御堂 誠司。君は?」
彼は少し考えるように眉を顰め、ゆっくりと首を振った。
「僕は、なまえが思い出せないんだ」
私にあるものを彼が持っていないことが、私は許せなかった。だから私は彼に、名前を付けた。
彼が愛した空──夕と。
それから、私と彼の関係には少しずつだけれど変化が生まれ始めた。小さな庭園と離れを行き来するだけの彼は、それ自体には驚くほど不満を抱いてはいなくて、それが逆に私にとっての不満であった。
彼という存在は、もっとしおらしくなければならないのだ。少なくとも、若草色の真新しい畳の上で日がな一日猫のように転がっていてはならない。もっと世間に怯え、私という存在に依存しなければならない。
だが彼は、自分という存在が世間の目にどう映るのか、まるで気にする素振りを見せなかった。それどころか、自分だけ別の世界に生きているかのように、どこまでも自由で、我々を見下してさえいるようなのである。
そういった彼の性質のお陰で、私は美しい鳥を籠の中に閉じ込めたという幻想に、まるで浸ることができなかったのだ。これは私の中に眠っていた本能を揺さぶり、これが私と彼の今後の関係を決定付けたと言っても過言ではないだろう。
ここで私は一つの仮説を立てた。もしかしたら彼は、自分が特異な存在であることを自覚していないのではないだろうか、ということだ。
初めて会った日の惨劇のことは、私も彼を傷つける気がして聞けずにいる。だがあれは聞くまでもなく彼の仕業であり、普通の人間にできる業ではない。人を簡単にミンチ肉にできる変異種がいると聞いたことはないが、そもそも彼は変異種の中でもとりわけ珍しい類であり、その白銀の髪を私は他で見たことがなかった。私だけなのかとも思ったが、同級生に聞いてみても、やはり誰一人その白銀の変異種を知る者はいない。
それを踏まえてみても、どうして彼は自分の存在に怯えていないのかと考えた時、彼がその自覚を有していないという考えに至るのは自然であった。
そしてあの日以来、彼は私が名前を与えたことが相当に嬉しかったようで、頻繁に覚えたての言葉を使うようになった。ゆう、ゆう、と何度も繰り返し呟いたり、私にその名を呼ばせたりもした。こうしたことから私たちが言葉を交わす機会はかなり増えたのだが、ある時、私はそれゆえの途轍もない衝撃を受けた。
夏の夜、蚊帳を張った寝床に二人で潜り込むと、彼は薄闇の中、まるで子供のように無邪気に瞳を輝かせ、私に言ったのだ。
「みいちゃん、明日は雨だから、傘を忘れてはいけないよ」
私はこの時に、思わず眉を寄せてしまった。まるで猫にでも語り掛けるような、媚びた口振りがどうにも気に障ったのだ。
媚びが不服だったわけでは決してない。だが私が彼に望んでいたものは、そんな一過性の感情などではなかった。もっと緊迫し、もっと切迫した依存。私が求めたものとは、私がいなくては、彼の存在そのものが失せてしまうような、そんな感情である。
私が良く思わなかったことは彼も感じたようで、それ以来その呼び方をすることはなかったが、代わりに彼が私を呼ぶこともなくなった。
彼が私を飼い猫のように呼んだ次の日、私はある行動に出た。それは、世間と彼とを繋ぐ、差別という鎖を知らしめることだ。そうすれば彼は、今自分が孤独であると気付くであろう。内外ともに孤独だと気付けば、孤独という概念を畏れる人間は皆それに怯え、目先の藁をも掴むものである。変異種とはいえ彼も人の腹から生まれた人間、私に縋り付くに違いない。
そして私のこの後ろ暗い計画は、思っていた以上の成果を上げることとなる。
世間の加速する排除政策の全貌を知った彼は、樹海の深い深緑に怯え、凡下であることを愛する世間の目に恐れ戦き、そして私に精神的降伏を見せた。その先に彼に待っていたのは、薄暗い部屋の隅で、あるはずのない人目を感じながら、ただ私という光を待ち焦がれる生活。井戸の底で朝日を待つような命であった。
こうして私の手にした宝物は、漆黒の淀みの中でより一層の輝きを放ち始めた。
これが私と彼の出逢い、第一章である。
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