貴船口駅から貴船神社は二キロあまりの山道を往く。ひがな一日、タクシーでそこを往復を繰り返すのが俺の仕事だ。平日でも客はひっきりなしで、貴船神社で客を下ろした思えば神社のまえでつぎの客をひろって駅にもどることになる。聖域であっても日常になってしまえばただの道だ。退屈な一本道にぶらさがって、今日もすでに二十時をすぎた。外国人の夫婦を駅まで送り、そこでまたひとりの客をのせた。
客は十五歳ぐらいの、制服をきた少女だ。行先はもちろん貴船神社。
「縁結びでしたら結社ですが、どういたしましょうか」
という俺の問いに少女は「本宮でおねがいします」と応えた。やけに艶っぽい声色にギョッとした。ルームミラーを見たが、少女の顔は影になって、その表情は判然としなかった。俺は車をだした。山道には宵闇が下りきっている。
「あの日、私たちは船にのれなかった」
とつぜんの問わずがたりに、俺は反応できなかった。「あの洪水の時のことです」
沈黙のなかを、どっ、という音が走った。道のとなりは川が流れている。
「空から壁が落ちてきた。そのときはそう思いました」
「よくご無事で」
と俺はことばを差し込んだ。三月十一日のあの震災のことだと決めつけた。
「あれは夜中でしたが、いまでも空を見上げると『水が溜まっている』と恐ろしくなります」
見ると、夜空は深い青をしている。なるほど、空には水が満ちていると見える。一方、山は巨大な陰そのものだ。いくら目が慣れても、ライトの光がおよぶそのさきはあたかも闇だ。
「ああ! いけない」
と女が叫んだ。「空が! 空にひびが入っている」
「なにを……」
「早く。早く船に!」
「船なんて」
と、「フネ」という言葉を発した瞬間、すべてが腑に落ちた。あのとき俺も船にのり遅れた。この道の往復はすなわち輪廻だった。
「早く、船が出る!」
誰かが叫んでいた。
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