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終焉の地のエイレネー:ディレクターズカット

小林TKG

あばばばばばばばば

あばばばばばばばばばばばばばばば

小説

5,000文字

エイレネーにとって幸運だったことは、夫であった時の皇帝レオン4世が若くして死去した事であった。

エイレネーにとって不幸だったことは、実の息子であるコンスタンティノス6世が長ずるにつれて夫と似た思想を持ったことであった。

 

エイレネーはアテナイで生まれたとされている。彼女についての生い立ちははっきりとわかっていない。人によっては実在の人物ではなく創作物だと言う人もいるらしい。エイレネーはアテナイで生まれ、やがて成長するとコンスタンティノーブルに向かった。理由は王の妃になる為であった。この当時のビザンツ帝国、あるいは東ローマ帝国という国の支配階級者達は大がかかりなイベントを好む性格だったそうである。その中の一つに、皇妃候補を探し出すための美人コンテストの開催があった。エイレネーはこれに参加しようとしていたのである。エイレネーは妃になろうとしたのである。この当時は血筋、家柄が重要視されていない時代でもあったそうだ。

エイレネーは生まれ育った地を離れてコンスタンティノーブルに向かった。これだけを聞くと、なんとなく、エイレネーに対して尊敬の気持ちが生まれない。勿論、エイレネーは支配階級の人間ではない。アテナイで生まれた一市民であった。孤児だったという説もある。それが何段も飛ばして支配階級、妃になるためにコンスタンティノーブルに向かったのである。美人コンテストに参加するためにわざわざコンスタンティノープルに向かったのだから、それはまあ、容貌は整っていたのであろう。美しかったのであろう。見目麗しかったのであろう。

地方に生まれた人間が夢を叶えるために東京、アメリカに向かったという事と同義であれば、まあ誰にとっても多かれ少なかれ思い当たる節はある。気持ちはわからなくはない。しかし、これは妃になるための行為である。候補とはいえ皇妃である。一個人の地位、立場が大きく変わる。この時代、王の移り変わりは激しかった。即位してもすぐに死んだり、遠征先で死んだり、政治方針が納得されずにその地位を追われたり、そもそもその器でもないのに王になってわざわざ間抜けをさらしたり。王の移り変わりは激しかった。王の立場が危うくなれば妃も危うくなる。なりうる。死んだり、追放されたり、流刑にされたりする。

とはいえ王の妃である。皇妃である。

しかし、国を挙げての美人コンテストが開催されて、その大賞には皇妃候補という栄誉が用意されていたのだから、それを今更とやかく言う事はよくないだろうか。それでエイレネーを尊敬できないというのはお門違いな意見だろうか。ちょっと自分の夢を叶えたい。という程度の事であれば何とも思わなかったと思う。応援も出来たと思う。狭量かもしれない。ただ皇妃候補が信じられない。狭量かもしれない。

 

一方で、この時エイレネーは召命をうけた、受けていたという説もある。召命、御召しである。彼女は神からの思し召しによって王の妃になるためにコンスタンティノーブルに向かった。という話である。

当時、国の教義に取り入れられている旧約聖書が偶像崇拝を禁じていた為、キリスト教の教会などで神の像が置かれなくなった。置いてあるものを撤去、廃止するという考えが広まっていた。それまでの古代ギリシャやローマでは、神を描いた絵画や彫刻の技術が発達していたにも関わらずである。

そもそも、その考えはイスラム教が主なエリアから広まってきたものであった。この思想が東ローマ帝国、ビザンツ帝国でもこの時、広がりつつあったのである。

そうしてその時の皇帝レオン三世が聖像禁止令を発令するまでに至った。

西方のローマ教会は東ローマ帝国、ビザンツ帝国のこの発令に強く反発した。これにより以前から小競り合いを続けていた両者の対立が明確化し、後年、それがきっかけになって両者は袂を分かつことになったそうである。西方の教会はカトリックという名称になり、東ローマ帝国、ビザンツ帝国を中心とする東側は正教会となり、東西の教会は完全に分裂にした。

国を挙げての美人コンテストで見事に皇妃候補の座を射止めたエイレネーは皇帝レオン四世の妻となり、それから、三世からの教えを守って聖像禁止令を続けている夫が像の撤廃、破壊、遺棄を命じる度に、それを思いとどまるようにと彼女は夫に述べた。時には意見として、時にはなだめすかし、時には懇願した。レオン四世の時代、それまでは強固であったイコノスクラム政策が若干軟化、寛容化したと言われている。これもエイレネーの功績だと唱える人もいるそうだ。彼女の進言が夫の事を抑えていたのだと。結婚の際、夫から今後もイコノクラスム政策を続けていく旨、妻になるエイレネーもそれに習うようにと命じられていたにもかかわらずである。

彼女にとって教会などが持つ、聖像、聖画像を一つでも多く守る事が己の意義であった。それこそがアテナイでの召命によって彼女に託された事であった。

やがてある時、彼女にとっても、国にとっても大きな転機が訪れた。夫である皇帝レオン四世が死去したのである。エイレネーとレオン四世の間にはコンスタンティノス六世という実子が居たが、まだ幼い事もあってエイレネーが摂政となって自ら政治を取り仕切ることになった。

そうして彼女は聖像禁止令を撤廃した。

国の民、人々が祈りを捧げる聖像の破壊をやめさせた。

この当時、印刷技術もまだ十分に発達しておらず、文字を読める人も多くなかった。故に、イエス・キリストや聖母マリア等の聖画像、彫刻の存在は多くの人間にとっての心の拠り所であった。教会にとっても聖像、聖画像は教義を広めるためにもっとも重要なものであった。

エイレネーはその禁止、廃止、イコノクラスム政策を撤廃した。

神の存在を感じさせるための。

それを手に触れられるほどの距離における。

祈りの為の。

安寧の為の。

人の心の為の。

人の命の為の。

人の死後の為の。

人間、最後は神に祈る。仏でもいい。

死ぬ間際。もはや誰にも助けてもらえない。もう死ぬ。死は人を選ばない。生まれてしまった以上、最後は必ず死ぬ。楽しかろうが幸福だろうが元気だろうが絶好調だろうが快活だろうが明朗だろうが死ぬ気配が無かろうが、人は死ぬ。必ず死ぬ。有史以来死ななかった人間はいない。

そして誰もが最後は必ず心の中で願う。
「誰か助けて下さい」

自身の人生に完全に満足して死ぬ人間はいない。後悔は波、大波となって押し寄せてくる。あれをやればよかった。これがやりたかった。あれを食べたかった。これが欲しかった。あの人に謝りたい。今、手を握ってくれているこの人に感謝したい。言葉で伝えたい。

しかし、死んでしまう。もうどうにもならない。

その最後、瀬戸際、人は祈る。神に祈る。

もうそれしか出来ないから。

それしか残されていないから。

聖像は、神に祈りを捧げる、祈りを伝える為のアンテナである。墓石も似たようなものだ。仏壇もそう。死者に祈りを捧げる。それを伝える為のアンテナである。

人間は、祈りを捧げる、祈りを伝える事がそう上手ではない。切手を貼っていない手紙をポストに投函するような事である。切手はつまり、聖像である。墓石である。仏壇。位牌がそれになる。仏像、伽藍、堂がそれになる。携帯のアンテナと例えてもいい。電波の無いところで電話やラインをする事だと言っても構わない。聖像、墓石はその基地局という事になる。

何も無くても祈りが全て先方に伝われば、過剰な増税などありえないはずだし、物価高だってあり得ない。人種問題もないだろうし、資源問題だって存在しない。領土問題だって発生さえしない。

聖像は、不安な人々の祈りをあちら側に届けるためのアンテナであった。

それをある時、ある時代、禁止して破壊してしまおうという流れ、政策が発生した。

エイレネーはその政策を撤廃した。撤廃したのち今度は保護活動を国家の政策とし、教会や修道院への多額の寄付を行った。国家の、東ローマ帝国、ビザンツ帝国の財政が傾くほどに。民の生活どころか、宮廷までも危機にさらすほどに。多くの、数えきれないほど多くの敵を作るほどに。誰にも理解されないほどに。

エイレネーは最終、最後、最後までその様な政策を強行した。財政難に関しては、ローマ帝国、カール大帝との結婚、それに伴うローマの東西帝国統一を行う事で危機を乗り切ろうとした。しかし大帝にその旨の手紙を送り、その返事が届く前に失策を理由に反勢力によって失脚、己が位のはく奪、最後は流刑に処されることになった。

 

エイレネーの終焉の地、流刑の地はレスボス島だと言われている。その地に流されて一年ほど経って、彼女はそこで死去したとされている。エイレネーの遺骸はそれから一世紀の後、歴代の皇帝が眠る聖使徒聖堂に移されて、正教会によって聖人の一人となった。

しかし、生前のエイレネーにはそんな事わかるはずもない。関係もない。彼女は召命に従ったに過ぎない。それが彼女の力となった。生きる糧となった。アテナイからコンスタンティノーブルに至る行程を、苦労を、危険に立ち向かう光となった。

代償はあった。

エイレネーは息子、まだ幼かったコンスタンティノス六世の代わりに摂政になり、それまでのイコノクラスム政策を撤廃した。しかしコンスタンティノス六世が長じるにつれて、その親子関係は険悪になっていったそうである。コンスタンティノス六世はそれまでの、父のイコノクラスム政策を指示していたのである。親子、母子と言えども、常に一緒にいれるわけではない。お互いに立場もある。コンスタンティノス六世はイコノクラスム推進派に懐柔、信じ込ませられていたのである。彼はその耳に毒、言葉による猛毒を流し込まれていた。
「イコノクラスム政策こそが、この国をさらに発展させて御身の名を歴史に残し、名君として後世まで語り継がせる政策であります」
「あなたの母君は市民から成り上がった身です。彼女はその立場に慢心してこの国を崩壊させようとしています。彼女は間違っているのです」

エイレネーはアテナイ出身の、元市民であった。コンスタンティノス六世はそんな母から生まれたとはいえ、それでも彼は王族であった。未来の王を約束された身分であった。

それ故、一時母エイレネーから実権を奪ったコンスタンティノス六世であったが、遠征の失敗などで人望を失うと母が動かした軍によってとらえられて、目をえぐられたうえで国を追放されることになる。

目をえぐった理由は、この当時の暗黙の了解によるものである。
『身体に損傷があるものは皇帝になれない』

エイレネーはこの後、自ら即位して女帝となる。東ローマ帝国、ビザンツ帝国初の女帝である。

レスボス島に流されたエイレネーの頭にはもはや召命の事も、国家を深刻な財政難にした事もなかった。やれるだけの事をやった。国家を傾けても聖像を守り、教会を守ったのだから。その当時の人間、民の事を救えたかどうかは疑問だが、しかし後世の人々のを救ったのは言うまでもない。彼女はその時代の多くの切手を守り、アンテナを守った。人々の祈りを守った。心の拠り所を守った。心を守った。

しかし流刑地のレスボス島の彼女はそれらの事を考えなかった。そこに至って彼女はただ息子の事を案じていた。

追放して自ら女帝となって聖像、聖画像、教会や修道院を守っている間そんな事は考えなかった。一度として。考えなかった。一度として。後悔もなかった。一度として。その瞬間、目をえぐった時でさえ。何も思わなかった。後悔もかわいそうとも。感じなかった。それが、それをすることが召命を守るために必要だったから。イコノクラスムから聖像を救うために必要だったから。大事だった。

それが、役目を終えレスボス島に流刑された彼女の身に訪れたのである。後悔が生まれた。許してほしいと思った。どうか許してください。それはやがて波になった。大波になって彼女を飲み込んだ。
「誰か助けてください」

レスボス島での彼女は常に祈りを捧げていた。許しを乞うていた。

一年後、エイレネーがその地で没したのはこの願いが聞き入れられたからか、あるいはそれに関係なく功績によって召し抱えられたのか、定かではない。

正教会によって聖人になって以降、今日に至るまでは彼女も切手、アンテナとなって人々の願いを天に届けている。

© 2025 小林TKG ( 2025年9月19日公開

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