「お弁当って、最初に受け取るんでしょ。どうするの、足元に置いとかなきゃいけない?」
妻はいつもそういう些細なことを気にする。嫌なら膝の上に置いておけばいい。まあ、それも嫌だから言ってるんだろう。
「俺の鞄の上に一緒に置いとくよ」
「途中で落ちたりしない?」
気になるんだったら自分で持てばいいのに、という言葉を僕は飲み込む。
五月の東京は早くも汗ばむような陽気にざわついていたが、その日は地上に押さえつけられるような曇り空でなんとなく空気も重かった。都営浅草線を東銀座で降り、階段を登りきると、限りなく黒っぽい灰色の空が見えた。
「あれだ」
野村不動産のロゴが掲げられた四角い大きな建物を目指して歩く。大きくせり出した基部の正面には新橋演舞場の文字が見える。僕も妻もちゃんとした歌舞伎の鑑賞は生まれて初めてだ。
きっかけは、僕がGoogleアラートで「椿説弓張月」をワード登録していたところ、「五月花形歌舞伎 通し狂言 椿説弓張月」という公演を知らせるメールが来たことだった。
どうして椿説弓張月をアラート設定していたのか、という理由については僕が小学生の頃に遡る。
たまたま家にあった、児童向けの文学全集みたいな本の中に、椿説弓張月があった。曲亭馬琴の「椿説弓張月」をジュヴナイル用に簡略化した読み物だったが、何気なく読み始めたところあまりの面白さにどハマりした。世の中にこんな面白い話があるのか、と時間を忘れて夢中で読んだ。表紙には水彩かアクリルで描いたと思われる主人公・源為朝が馬上で弓矢を携えている姿があった。帷子の一枚一枚を丹念に平筆で描いたその技法を、僕は翌年の読書感想画で真似して使った(ただしその感想画は「椿説弓張月」ではなく、「源平盛衰記」のものだった)。
とにかく、その衝撃は僕の中に一生消えないであろう火種を植え付けた。進学、上京、海外生活、就職、結婚とライフステージが変遷していく中でも、くすぶり続ける火種はずっとその熱量を維持していた。学生時代に岩波文庫の曲亭馬琴原文版も買ったが、自分で現代語訳しようとする試みは残念ながら挫折に終わった。後年、素直に現代語版を買った。
椿説弓張月は三島由紀夫により歌舞伎化された。この演目の初演は一九六九年すなわち三島の割腹自決の前年で、三島は脚本のみならず自ら演出も務めた。為朝を演じたのは八代目松本幸四郎。ちなみに首掲の画像は初演時に作成された横尾忠則によるシルクスクリーン刷りのポスターで、一度メルカリに出品されていたのを見たことがある。本物かどうか判らなかったので、エディションナンバーが入っているかどうか質問したのだが、ナンバーは入っていないとのことだった。本物ではなかったのか、それともナンバーを入れていない作品だったのかはわからない。結局ポスターは買わずじまいだった。
今思えば買っておけば良かったかも知れない。現在、古書店やオークションサイトを見てもすべて売り切れで見当たらないのだ。
話は冒頭に戻る。
二〇一二年、十年ぶりに行われることになった本公演は本来ならば歌舞伎座で上演されるはずだったろうが、歌舞伎座は立替工事中だったため新橋演舞場で行われた。僕は妻を誘って観劇の日程を決めると、妻の予習のために図書館で読みやすそうな椿説弓張月を探して借りてきた。それを読んだ妻の反応は想像以上で、「なにこれめちゃくちゃ面白いんだけど」と半ば興奮気味だった。
前述のとおり二人とも歌舞伎鑑賞は初心者だったので、事前に歌舞伎観劇のイロハをネットで調べた。イヤホンガイドが必要かどうか、弁当はどうするのか、客席での作法などなど。歌舞伎は大衆芸能だから厳格なマナーはないといっても、明文化されたマナーがないからこそ、初心者はどうしていいか分からないものである。弁当は席の予約の時に同時に注文しておき、当日受け取ればいいことだけはとりあえず分かった。話の筋は履修済みとはいえ、三島歌舞伎は擬古文を多用するため一応イヤホンガイドがあった方がいい、という結論になった。使わなければまあ使わなかったで仕方ない。
今回の為朝役は七代目市川染五郎(現・十代目松本幸四郎)だ。松たか子の兄と説明した方がピンとくるだろうか。初演で為朝を演じた幸四郎の孫になる染五郎は一九七三年一月生まれ、すなわち僕と同学年である。団塊ジュニア世代で、同期には木村拓哉や堀江貴文などがいる。人口ピラミッドのボリュームゾーンにあたるのでそれに比例して有名人も多いが、世間的には就職氷河期の最初の世代でもあるので、社会にも政治にも棄てられた「ロスジェネ」によって構成され、いわゆる「負け組」が大量に生み落とされた世代でもある。ちなみに染五郎の父親である九代目松本幸四郎は僕にとっては歌舞伎役者よりもNHK大河ドラマ「山河燃ゆ」(原作・山崎豊子「二つの祖国」)で主人公の天羽賢治を演じた記憶が強い。「二つの祖国」は読んでいるが「山河燃ゆ」は観ていない妻に言わせると「絶対違う」のだそうだが。
新橋演舞場の中は、黒雲垂れ込める屋外と違い、熱気にあふれていた。観客は年輩の人が多く、僕たちは中でも一番若い方だろう。尻込みしそうになりながらも、期待を胸に入場して席に着く。和装は思ったほど多くはなかったが、それでもやはりそこかしこに居る。
「着物、着てくればよかったんじゃない?」
僕は妻に囁いた。途端に妻は渋面をつくる。
「だめ。無理」
妻は裏千家の稽古に通っているので、着物は訪問着から小紋まで一通り持っている。着物で観劇というのも乙なものじゃないかと思った僕は事前にそれとなく言ってみたが、妻は全力で拒否した。曰く、歌舞伎鑑賞にどんな着物がいいのか分からない、着るのが大変、弁当食べるし汚れそう、常連のおばさんたちが見たら何て言われるか分からない、何も言われなくても心の中でどう思われるか分からない。
心の中ならどう思われようが関係ないじゃないか、と思うのは男だけなのだろうか。見も知らない相手の心の中まで想像してそれに応じて自分の言動を決定するとか、女とはげに不自由な生き物だな、と僕は思った。
幕が上がり、長い公演が始まる。最初は音楽から。三島は初演時、音楽の演出までやっていたという。やがて染五郎が舞台に登場すると、すかさず大向こうから声がかかった。
「高麗屋!」
話が進むにつれ、舞台装置や仕掛けはどんどん大がかりになっていく。大団円、為朝が馬に乗って崇徳上皇のおわす天界へと駆けてゆくシーンでは拍手が鳴り止まなかった。歌舞伎で馬が登場する時には二人の俳優がそれぞれ馬の前脚と後脚を演じ、その上に役者が乗る。大人の男一人を担ぐだけでも結構大変そうなのに、馬っぽい演技をするのはかなり技術が要るのではないかと思うが、馬を演じるのは下級俳優であることが多いそうで、「馬の足」には下級役者や下手な役者という意味があるらしい、というのは後になって知った。
そんなわけで初めての歌舞伎鑑賞は極めて充実した経験となったのだが、少し肩透かしだったのは、「三島っぽさ」は期待ほどには感じなかった点である。
もちろん僕は椿説弓張月という演目に興味があって見に行っただけで、それが三島作品かどうかはあまり重要ではなかった。だが鑑賞にあたって下調べをするうちに、三島がこの題材の歌舞伎化に並々ならぬ情熱を注いでいたことがわかった。だから芝居の中には当然に三島の昭和という時代に対する思いやメッセージが込められているものだと勝手に思っていた。が、三島は古典芸能という隠れ蓑に、慎重に彼の同時代性を隠匿したようである。少なくとも僕のようなニワカには、三島歌舞伎が他の歌舞伎に対して際立つ部分を見分けられるはずもなかった。
三島が市ヶ谷で割腹して果てたのは僕が生まれる二年前、もし三島が生きていたら今年で百歳である。二年前に知命を迎えた僕は昭和元年から現在までの百年のちょうど後半を生きたことになる。それは三島の百年の後半と重なり、その前半を僕は知らない。
"高麗屋!"へのコメント 0件