マウンテンジャム

山谷感人

エセー

1,178文字

 オールマンブラザーズバンドのセッション曲に就いて。

 アルバムに入れた「マウンテンジャム」でも約三十三分半。ライヴなど五十分の時もあったらしい。要はジャムな故、メンバーも「こう来たら、そろそろ終わりかなあ……、よし、こっちが次は盛り上げるぞ」しかない。
 往時、産まれていなかった僕が云うのも烏滸がましいが、ヴォーカル皆無で、その長時間、聴かせるのは彼等の抜きんじた演奏力とかではない。ルールはあれど、Gのコードしか使わない、後は各々、自由に! なる所謂、或る意味、退廃なのだろう。
 私が東京の御徒町に住んでいた時、諸々なロックンロールを目指す人々と会合していた。金銭は無くとも饗応が好きな僕は、部屋の鍵を開けっ放しにし帰宅したら「識らないヤツも今夜も居るな」が当然の日々であった。まあ基本はルンペンか外国人だが、繋がりで音楽を目指す人々も多かった。
 私が、そのオールマンブラザーズバンドのマウンテンジャムを流すと前記に書いて再度になるが「ヴォーカルない!」「長い!」の意見が多々であった。例えば、そこは彼らがJPOPロック好きであれど、洋楽のヴォーカルなしの三十三分以上のジャムを聴いても、何かを得るべきだ、と思っていた。こっちが本物のロックだとは私は言わなかった。意味が無い、からである。
 ただ、私達は二十代半ばで有ったけれど「この上手いギタリストもベーシストも俺等より同年代、いや、もっと早逝したよ」と述べたら「へー、ふーん。で?」であった。嫌味ではなく良く或るハナシで、それから会ってない彼等は長生きするのだろう、家庭を大切にして。無論、僕は否定していない。
 文学もそうであって、僕が一等、読んでいる大正〜昭和後期の執筆者は、私生活は退廃的なジャムをする人々が多かった。一人挙げれば檀一雄とか「散歩に行ってくる!」で一年間、帰宅しなかった。次の歳の正月に照れ隠しでアラ鮭一匹を持ち帰り、何事もなかったように自宅に戻ったのは有名である。ただ令和の昨今、「非常識だ」 「人間としてルールを守れ」なる意見が、文学関係者からも有るのは、先程のマウンテンジャムの逸話と共に私は、考えさせられる。

 そもそもロックにしても日本のあくまでも私小説の世界を鑑みれば、生活も含めて「自由で個性で」が定義なのではないだろうか? そこで「現代は、今はインテリア作家に〜JPOPは〜」は判らないと云うか、ちゃんちゃらおかしい。無論、私も理解はする。「そう云う時代では最早、非ず」
 だとしたら私は自身をトータル的に俯瞰して「それを覆す才覚はない」と自認している故、最早、誰もがその流れに従う昨今には厭世になるしかない。

 これ以上は長くなる。
 オールマンブラザーズバンド。マウンテンジャム。Gコードだけのライヴでも長いセッション。
 聞き手としては素晴らしいとしか思わないが哀しいかな、僕が産まれる前の、時代である。
 文筆界は、ましてや、そうである。
 逢えたらまた!

2023年9月13日公開

© 2023 山谷感人

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