タバコと母

消雲堂

エセー

1,157文字

義父が死んだと思ったら次は母です。肺がん末期で余命数ヶ月と言われました。

 

僕は18歳から40歳ぐらいまでタバコを吸って(ふかして)いました。当時勤めていた出版社では男性社員の多くが仕事中にタバコを吸いながら原稿を書いていました。机上の灰皿には吸殻が山盛りになり異様な臭気を発していました。今考えると異常ですが、当時はそれが当たり前でした。

日本専売公社時代から日本たばこ産業(JT)に名前が変わるまで、そこに勤めていた方を夫に持つ女性に、最近、こんな話を聞きました。彼女は「夫はJTに勤めていましたが、1度もタバコを吸ったことがないのよ、喫煙による害毒を知っていたからじゃないかしら?」と言いました。ちなみにこの女性の父親は戦後にアスベスト会社を経営していた社長の娘さんです。

専売公社は戦後、昭和23年(1948)にGHQのマッカーサーが「タバコ、塩、樟脳を専売する公共企業体を組織すべきだ」との書簡が出されたことから翌年の1949年に大蔵省が自身の専売局を独立させて発足させたものです。昭和59年(1984)専売改革関連法が成立すると翌年に日本専売公社はJTにタバコと塩の専売権を継承させて解散しました。

いまや万病の元と言われるタバコの販促を戦後は国が担っていました。肺がんや梗塞などで多くの人が亡くなりましたが、国は責任をとりません。愚かな国というのはそういうものです。嗜好性のものですから自己責任というわけです。「喫煙と死因を特定できない」ようにしていますから責任を有耶無耶にしているというわけです。僕は責任を取れというのではないのです。世の中はそういうものだと思うだけです。

ただし、アスベストなどではダラダラと責任をとり始めましたが、愚かな国というのはそういうものだと国民は諦めるしかないのです。

ちなみにドイツでは戦前の1938年にアスベストが肺がんの要因になるとして禁止しただけでなく、アスベスト工場に勤務していた労働者に対する補償もしています。本質的に責任回避体質の米国の属国である日本は、ドイツにはなりえないのです。

母は4年前に脳梗塞を発症するまで、1日2箱ほどのタバコを吸っていました。脳梗塞治療後に意思の厳しいお達しによって、禁煙することができましたが、残念ながら肺がんになってしまったのです。ところが昨日「喫煙が肺がんの要因ではないのか?」と医師に聞いていみたところ「お母さんの肺がんは喫煙によるものではなく、高齢によるもの」と言うのです。喫煙によって肺がんになる方も多いのですが、喫煙者の中には耐煙体質の人がいて、いくらタバコを吸っても肺がんにならない…のだそうです。ただし、これからもタバコは御法度とのこと。

今でも「あたし、今でもタバコを吸っている人を見ると吸いたくなっちゃうのよぅ」という母を見るとかわいそうだが仕方がないのです。

2014年11月26日公開

© 2014 消雲堂

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