「普通」とは何か? と突き詰めて考えると難しくなってくるけれど、「普通じゃない」ものは容易に思い至る。バナナの皮だけ食べて実を捨てる人がいればそれは普通ではない。初対面で握手の手を出さずに顔を舐めて来たらそれは人ではなくて犬だ。消化器官の入り口出口が反対についていたとしたら大変だ。食事時は股を抱え込まなくてはならないし、トイレに行くたびに逆立ちをするはめになる。
世の中には「普通じゃない人」がいろいろいると思うが、何と言っても「芸術家」と名のつく連中がトップクラスだろう。彼らは「普通」を忌み嫌い、「芸術」の名のもとに「普通」を粉砕する。あらゆる手段を駆使して全身全霊を賭け、世にあり得べからざるもの、正気の沙汰とは思えぬものを創造し続ける。
ある時、私はそのような芸術家連中と大量に遭遇することとなった。新宿のとあるホールで行われた「祈りの祭典」なるイベントでのことだ。在京の有名無名のアーティストたちが一堂に集い、それぞれの芸能を披露することで、国籍性別人種を越えた祈りの心をスパークさせる画期的な試みなのだという。その主催者というのが日本舞踊の大流派の御曹司で次期家元と目されているK氏であった。テレビ出演したりドラマに出たりとタレントと言っていいほどの有名人だ。そこで当日、私は夫と共に新宿へ向った。中国人演奏家である夫も出演依頼を受けていたのである。
「祈りの祭典」で私が見たものは、まさに「芸術」の名にふさわしい、ぶっとびまくった演目ばかりであった。
例えば、
「リン・セッション・音の極彩」
仏壇の鈴(りん)ばかり、大小さまざまずらりと並べて片手に二本ずつ持ったスティックで演奏する。残響音が長い鈴の何重もの荘厳な音色は解脱のイメージだとか。結果、一斉に鳴る鈴の金属音の増幅を聞かされ続けて気分が悪くなった。
「五筆書道」
前衛書道家が両手両足と口の合計五本の筆を同時に操り、壮大な生命曼荼羅を描くとの触れ込みだったが、人間の足は書道には向かないことを証明しただけだった。
「中国民族音楽」
これに夫が知り合いの演奏家達とセッションを組んで出演した。演奏は上手かったのだが、問題は例のK氏が混じっていてしゃなりしゃなりと踊っていたことだ。生理的苦痛を覚えるほど合わない。京劇の「ジャンジャカジャンジャンカンカンカンカン」に混じって「ツントンシャン、イヨオオオォォ~」なんてやってる光景を想像してみるといい。どうして無理矢理一緒に演じなくてはならないのだろう。
そんなものばかり見せられて疲労が溜まってきた頃、ふと優しいピアノに乗って低音の弦楽器のゆったりした音色が流れてきた。ああ、これはいい。チェロかしら。芸術のわからぬ俗人と言われようが、やっぱりこういうのが気持ちが安らぐ。
それはビオラ・ダ・ガンバというバロック時代の楽器だった。チェロよりも小振りでネックにはギターのようなフレットがついている。これは珍しいものを見た。しかし素朴でいい音だ……観客の誰もがそう思っていたことだろう。彼女が登場するまでは。
この美しい弦楽とピアノのデュオは詩の朗読の伴奏であった。詩人兼朗読者として出てきた女を見て、私は腰を抜かしそうになった。真っ白いウェディングドレスを着た小柄な女性が、ごわごわの長い髪を振り乱し顔面蒼白で現われたのだ。
と、急に照明があたって青い顔が真黄色になった。それを合図に女の人は正面をむいて声を張り上げた。
「あああ!」
なんだ? と恐れる間もなくビオラ・ダ・ガンバがグィーンと不気味な音を鳴らして、朗読が開始された。
「あ行! 逢い合いて 命ぞ燃ゆる 美しき 永劫永久 女にてあらむ」
「か行! 身体ごと 綺羅めかすごと 狂おしく 化粧するほど 恋しき君よ」
ここまできて鈍い私にもようやくわかった。短歌の各句の頭音に五十音の各列の文字、あ行ならば「あいうえお」を置いて作る。折句というやつだ。
伴奏は一転してシュールな調子に変わって、弦はギョーンギョーンと低音で唸り、ピアニストもひたすら低音部のハンマーを叩き、その上をキーンと甲高い声がギザギザに飛んだ。
「た行! たそがれは 血を噴くまでに 辛きみち……」
エスカレートするキンキン声にこっちの頭の血管が破れるのではと思った。
「な行! 泣き濡れて 庭の茂みに 盗む夜 眠れる君を 飲み尽くしたや」
まさかこの調子で50音全部続くのだろうか、と心配していたらありがたいことに「あかさたな」だけで終った。ところが二つ目の作品があったのである。「酔ひの花嫁(ゑひの花嫁)」という古文なんだか現代語なんだかよくわからないタイトルの詩だった。
あたくしは世界の花嫁。
あたくしは世界の伴侶となる宿業に生まれた。
あたくしはすべての男をこの腕に抱く。
あたくしは歓喜と悲惨を背負った女。
それゆえに酔わずにはいられません。
今日も酔うのです。
今日も酔うのです……(以下省略)
もう恐れ入るしかない。世界中の男に嫁ごうとはスケールが大きいというか、欲張りというか、いやはや、超人と申し上げるしかないだろう。
こうして朝から始まったイベントは、大小さまざまな芸術的パフォーマンスを繰り広げながら延々夜の九時過ぎまで続いたのであった。お開きになった頃、私はぐったり疲れて口を聞く元気もなかった。ただもう家に帰って眠りたかった。それなのにK氏が出演者のねぎらいの宴を開こうと言い出した。段どりのよいことに近所の居酒屋を予約してあった。権力のある方向へ赴くのが弱い人間というもので、皆、K氏の提案に従った。
私の右隣りにはさっきの仏壇ドラマーが、左隣りには「酔ひの花嫁」を朗読した女性が座った。ウェディングドレスを着たまま、相変わらず青い顔をしている彼女の方を振向く勇気がなくて、最初は仏壇ドラマーとばかり話をした。なんでもこのドラマー、夜逃げした家や取り壊しの家をもれなくチェックし仏壇の鈴をもらい受けるのだそうだ。
「中には仏壇や位牌ごと押し付けられることもあって、そういうのは要らないんで捨てちゃうんですけど……ハハハ、たたりですかね、全然売れないのは。女房は昼の仕事が終った後、夜もパートに行ってます」
凄惨な微笑みを見せつつ、ドラマーは目の前にあったフライドチキンをさりげなくナプキンに包んでカバンに突っ込んだ。私は正視できず左隣りに顔を逸らした。するとウェディングドレスの人と目が合った。にっこり、と音が出そうなくらいに笑って彼女は言った。
「あなたは何に出演なさったの?」
夫について来ただけで出演者ではありませんと言ったのだが、何を聞いていたのか彼女は全然関係のないことを言い出した。
「秋になりましたわねえ。あたくしね、この季節になるとなんだか悲しくなりますの。秋は不思議。寒さがそおっと忍びよってくるみたいで」
しかし今は9月初めで残暑の真っ盛りだ。他の人はみんな半袖を着ている。ドレスはいかにも通気性が悪そうでこの暑さでムレてしまいそうなものだが、彼女は幽霊のような青い顔のままだ。
「あの、衣裳をお着替えにならないんですか?」
「あ、これですの? これはね、衣裳ではないのよ」
「えっ?」
「これが普段着なの。これが普通のあたくし」
「へ?」
彼女は婉然と微笑んで言った。
「あたくしの詩、聞いてくださったのでしょう? あたくしは世界中の人々の花嫁になろうと決心をしましたの。敵意ではなく愛の力よ。兵器ではなくて詩でもって人間の真心をお伝えしたいの。けどね、一旦決意はしたものの、あたくしも平凡な女ですから、すぐに日常の生活に紛れて忘れてしまうでしょう。だからこうして花嫁衣裳を着て、日々に誓いを思い起こして行くことにしてるんですのよ」
「……」
実はこの時、彼女の崇高な決心に感動をさせられてしまっていた。この暑いのに通気性ゼロで歩行に不便きわまりないウェディングドレスを着ているのは、全人類のためだというのだ。とてつもない決意ではないか。欲張りだなどと思ったのは撤回しよう。
「お名刺を差し上げるわ。」
と言って彼女はあぶったスルメを差し出した。と、それはスルメではなくスルメのような色合いのザラザラの和紙で作った名刺だった。あやうく口に入れそうになるほどよく似ていた。
名刺には筆ペンで
「現代平安歌人 むらさき小町」とあった。
むらさき小町……
いまだかつてこんな凄い名前をもった人に出会ったことがない。「現代平安歌人」にして名前が「むらさき小町」。凄いぞ。凄すぎるぞ。でも「現代平安歌人」って何なのだろう? もしかして「現代江戸俳諧師」とか「現代オッペケペ節家」なんてのもいるのだろうか。疑問が限りなく頭の中で渦巻いた。
「あらいやだ、もちろんペンネームですわよ」
むらさき小町女史はあっけにとられた私を見てオホホホと笑い、手元のコップを持ち上げてビールを飲みほした。
「小町さん、今日も綺麗だね」
絶妙なタイミングでK氏がコップにビールを注ぎ足した。白ジャケットに黒のビンテージジーンズという出で立ち、伊達男のK氏が隣に座ると、小町女史の青い顔が信号みたいに赤くなった。
「あっ、二人並んだら本当に結婚式みたいだよ!」
誰かが冗談を言うとK氏が素っ頓狂な声で笑い出した。
「ほほほほ、あたくしは世界中の人のものなのよ!」
「だったら俺のものでもあるわけだ」
K氏がさらにふざけかかると、もう知らないわと両手で顔を覆う小町女史。すっかり毒気を抜かれた私は呆然とするばかりだった。
その後、何度かK氏の舞踊会に招待され、会場に行くたびにむらさき小町女史と出くわした。本当にいつ会ってもウェディングドレス姿だった。おかげで舞台よりも観客席の方が百倍も目立つこととなった。
夫は言う。
「あの人はK氏の流派の有力者の家の娘なんだって。K氏が好きで始終つきまとっているらしい。ああいう格好をして気を引こうとしてるんだろう」
たしかにK氏は名門の御曹司でかっこよくて有名人だ。立場を利用して狙いたくなるかもしれない。でもあの格好を毎日続けるのは相当な根性がいる。彼女の信念は本物だ。本気で「世界の花嫁」を目指していたのだと思う。
その後、K氏は旧華族令嬢とかいう女性と盛大な華燭の典を挙げた。二千人も出席した披露宴に呼ばれて出かけていった夫は、花嫁は若い美女だったと言った。もちろん花嫁以外にウェディングドレスを着た人はいなかったと言う。
kujakuya 読者 | 2020-01-20 21:58
本当にこの世に存在するのかどうなのか、と最初は気になりながら読んでいましたが、最後はもう本当に居ても作り話(架空の人物)でもどうでもよくなりました。
「世界の花嫁」、強烈すぎて、今夜夢に見そうです。傍に行きたくないけれど、決してあちらから認識されないところから、じっくり観察してみたいです…
大猫 投稿者 | 2020-01-20 22:17
読んでいただきありがとうございます。
結構、人なつこい方なのですぐ友達になれますよ。彼女と街を歩き一緒に電車に乗り喫茶店でお茶を飲むと、自分が有名人になった錯覚を覚えます😁
波野發作 投稿者 | 2020-01-23 11:07
変人語るとき、自分もまた変人なのではないかと常々振り返っておりますが、私ほど平凡な人間もそうそういないのではないかと再確認し、残念に思う反面、安心したりします。ウェディングドレス女もたいがいですが、セーラー服おじさんなる大手企業の役付も実在しますので、人間はいろいろ。
吉田柚葉 投稿者 | 2020-01-23 12:40
まあ、毎日ウェディングドレス着るのは確かに大変かと思う。『酔ひの花嫁』のつまらなさから察するに、変人ではあるが、なんか才気にあふれる感じでもなく……やはり変人なのでしょう。
牧野楠葉 投稿者 | 2020-01-24 14:23
「普通」っていうお題、難しいですね。「普通」のを書こうとして変人を書いても変人にしかならないし。ウェディングドレスの女性がなぜそうなってしまったのか、それがただたんにK氏のアピールだけなのか、その部分をもう少し読んでみたかった。
松下能太郎 投稿者 | 2020-01-24 16:05
小町女史は、普通じゃない人というよりも、普通であってはいけないと思い込んでいる人なのかなあと思いました。毎日引きずって、ドロドロになってヨレヨレになっているであろうウェディングドレスのすそは、もしかしたら純白のそれよりも美しいのかもしれません。
Fujiki 投稿者 | 2020-01-25 11:20
むらさき小町の部分はお笑い芸人の鳥居みゆきを思い浮かべながら読んだ。「エセー」とカテゴライズされているが、おそらくは全部フィクションだろう。今回の合評会には私小説風の体裁を取りつつホラを吹く作品が散見されるので、これもその一つだと思われる。私は騙されない。
祈りの祭典はどう見てもゴージャスなのに二次会は出席者がフライドチキンをくすねるようなしけた居酒屋という点に悲哀を感じた。普通じゃないことをアイデンティティーにしている芸術家たちは皆どこかで虚勢を張って生きているということだろうか?
諏訪靖彦 投稿者 | 2020-01-25 23:21
声出して笑いました。
そんな破壊力のある格好をしているならばネットに写真が上がっているかもしれないと思い「現代平安歌人むらさき小町」で検索してしまいましたが、さすがに名前は変更されてますよね。見つかりませんでした。
芸術祭の演目解説で、いちいち笑わせて来るのもさすがです。
春風亭どれみ 投稿者 | 2020-01-26 22:36
先日亡くなったコント集団モンティ・パイソンのメンバー、テリー・ジョーンズさんが好きそうな思わせぶりで無意味な世界観。ひとつひとつの無意味の密度が無駄に濃くて、わたくしは良いと思います。
松尾模糊 編集者 | 2020-01-27 12:24
酔ひの花嫁で「ヒロシです……」が脳内再生されてしまいました。変人は見る分には楽しいですが関わってくると相当体力消費しますよね。そういう意味でK氏はすごいなと感じました。
Juan.B 編集者 | 2020-01-27 15:22
小町、会ってみたいなあ。でも会ったら壮絶な体験になるんだろうか。遠巻きに見てる方が良いんだろうか。いや、俺もそう扱われる人間かも知れない。普通とは難しい物です。