2014年の冬の終わり、僕はイギリスのロンドンからほど近いWalton-on-Thamesのアパートに住んでいた。古い街には珍しい高級アパートで、カードキーをかざして入り口の共通扉を開けると、レセプションに座っているインド人の男性がいつも”Hey, ya”と僕に声をかける。エレベータで3Fにのぼると内廊下にずらりと扉が並んでいて、その一つが僕の部屋だ。入居の時に1ベッドルームの比較的狭い部屋だと説明されたが、バスルームは三畳くらいあり、ベッドルームは四畳半くらいはあり、さらに六畳くらいの大きなリビングとキッチンがある。床に敷かれた白いカーペットは柴犬の毛みたいに、かたくてちくちくすること以外はモダンで、白くて、快適な部屋だ。
イギリスの冬は薄暗く、長い。珍しく雪の降った日の早朝、時差ボケをひきずっていた僕は白いカーペットの上に直接腰をおろして、リビングの大きな窓から外を眺めていた。厚い壁はまったく寒さを伝えないが、窓のそばはさすがに染み入るような寒さを感じた。
短い芝生の上に雪がつもり、黄色の枯れ葉は白い雪の下に押し隠されている。大きな足跡と小さな足跡が並んでいるのもじきに消えてしまうだろう。道路に残る轍は戸惑うようにぐねぐねと線を引き、雪に慣れていないイギリス人の戸惑いを表している。温かいミルクココアをちびちびと飲みながら、僕は思う。なんだかずっと昔もこんなふうに明け方からコーヒーカップを片手に外を眺めてたな。あのときはココアの粉を買う余裕もなかった。安いインスタントコーヒーを買って、それをほんのちょっぴりお湯に溶かして大事に飲んだんだ。あれから十年でこんなことになるなんて。
いつのまにか木陰から獣が顔を出している。僕は身を乗り出す。
狼だ。それとも銀狐だろうか?
固く小さな雪は木立をかすめてまだ降り落ちている。手のひらをガラスに押し当てると、熱がじわりと奪い取られる。獣はすぐに木立から道路にでて、太い毛を揺らしながら去っていった。姿はすぐにみえなくなったが、小さな足跡が点々と残り、雪が足跡に吸い込まれていく。僕は思う。長くさむい、こんな夜は辛いだろう。鼻先が凍って目が覚めたのかもしれない。十年前の僕のように――
鼻の頭が凍ると、目が覚める。
2003年の冬の終わり、僕は文京区の古い四畳半のアパートに住んでいた。築五十年の木造という話だったが、それよりずっと前からあったのではないかとおもうほどの趣があった。
共同玄関を入るとドラマのセットのような古びた急な階段があり、黒い床板はすりきれててかてかと光っている。軋む音に気を使いながらつま先立ちで廊下を歩き、引き戸を開けると四畳半の小さな部屋がある。これが僕の部屋だ。西向きの窓から橙色の光が差し込んでいるおかげで夕方こそ温かいものの、日が落ちれば部屋の中の温度はあっという間に氷点下になる。紙のように薄い壁、床、いつから敷いてあるのかわらないカーペットは柴犬の毛のようにちくちくとする。台所と名付けられた一角にはガスコンロが置いてあり、トイレと玄関は共同、風呂もシャワールームもなく、夜になると洗面器を抱えて銭湯に走る。寒い夜を無事に越えるために45度の銭湯の湯にのぼせる寸前まで浸かり、北風の中を走って帰る。部屋に戻っても手足はかろうじて生きている。血が通い、自分の意志で動かせる。僕は用心のためにすぐに布団に飛び込み、ぎゅっと目を閉じる。凍死しないためには体力が必要だ。体力を回復させるためには睡眠を取らねばならない。しかし睡眠中は体温が下がる。冬の夜は長い。でも僕に与えられた時間は少ない。体温が維持できるのはせいぜい四時間半、十一時半に追い出されるように銭湯から戻ってきてすぐさま布団に入っても、明け方前に鼻の頭が凍って目が覚めてしまう。
嘘みたいな生活。僕はそう思った。現代の東京のどまんなかで、部屋の中で凍死するかもしれないと危惧するなんて、嘘だとしか思えない。毎朝そんなことを思いながら四時半ごろには我慢できずに布団を上げ、唯一の暖房器具であったこたつにもぐりこんだ。ままごとみたいなキッチンで湯を沸かし、コーヒーを飲む。色が付いているだけの薄いコーヒーを名残惜みながらちびちびと飲む。まだ暗い窓をから入ってくる冷気に負けないように、窓をにらみ、何杯もあたたかい湯を飲む。
やがて朝がくる。
朝の前哨は、静まりかえった本郷通りを震わせる始発のバスだ。
それから――空が変わる。すりガラスの色を変え、ほんとうの朝がやってくる。安寧の夜を食いちぎり、朝が街に覆いかぶさる。
僕はずっと朝が恐ろしかった。
夜は声が響く。だから暴力にはむかない。
夜は怪物を眠りに引きずり込んでしまう。だから夜は生きていられる確率が高かった。
けれども日がのぼり、世界に人々の気配が満ちればどんな声もその中に紛れてしまう。怪物も目を覚ますだろう。だから朝は怖かった。
でも僕は東京で、朝を願っていた。寝不足の目をこすりながら、すりガラスが濃紺から橙色に変わっていくときがくるのを待ち望んでいた。あの橙は生命の色だった。夜を溶かし、この世界に命を取り戻す静かな戦いの鯨波であったのだ。
夜明けを思う。あの狭い四畳半を、剥がれはじめた古い壁紙を、色褪せたカーペットの手触りを思う。まっとうな世界を取り戻すためのささやかな戦いの日々を思い、そしてまた夜明けを思う。
Fujiki 投稿者 | 2019-09-24 20:37
美しい仕上がりの掌編。痛切な赤貧の描写にもどこか詩情があって慈しんで読める。イギリスネタに「あああっ、しまった!」と思ったが、舞台となる生活レベルにも筆力にも格段の差があるので堪忍してほしい。星五つ!
千葉 健介 投稿者 | 2019-09-25 14:03
読後にコーヒーが飲みたくなったので淹れました。それがこの作品の持つ魅力なんだと思います。
多宇加世 投稿者 | 2019-09-26 02:49
日々を生きているといつのまにか旅をしている。違う場所にいる。今いる場所、前にいた場所。そんな何かを思い出す時の感情の膨らみの瞬間がすごく描けていると思う。
久永実木彦 投稿者 | 2019-09-27 20:25
うまくてうおーとなりました。夜も朝も何かを損なおうとしてくる。たたかい。
大猫 投稿者 | 2019-09-28 22:03
ずいぶんと昔、北区西ヶ原のボロアパートで餓死しそうになった頃を思い出しながら拝読しました。斧田さんの年代にもこんなアパートが残っていたのかと驚きながら。
夜明けが怖かったこと、そこにどれほどの不幸と苦しみがあったのだろうと想像させられつつ、明けゆく空を待つ繊細な描写に「再生」を感じました。たとえ鼻が凍ろうとも寒さで足が吊ろうとも、自分を少しずつ再生させる日々だったのだろうなと思いました。
松尾模糊 編集者 | 2019-09-28 23:58
凄い作品を読ませて頂きました。ありがとうございます。ロンドンはイーストの安アパートでのルームシュアしか経験していないのですが、冒頭の高級住宅も手に取るように当時のロンドンの景色と相まって浮かんできました。郊外では、キツネが庭によく出ていましたね。
最後の、「安寧の夜を食いちぎり、朝が街に覆いかぶさる」という一文には度肝を抜かれました。
伊藤卍ノ輔 投稿者 | 2019-09-29 03:02
前半と後半の暮らしの描写が対比されつつも、些細なところでリンクしていてそのバランスがすごくうまいなと思いました。
ただこれは完全に好みと自分の読みレベルの低さに起因すると思われるのですが、自分はあまり具体的なイメージが喚起されなくて物語にいまひとつ入っていけなかった感じがありました。
保坂和志氏が「小説の自由」という本の中で小説の現前性というものについて語っていたのですが、斧田さんの小説はそこで言われている現前性よりもむしろ全体としてのイメージの膨らみを重視して書かれているのかなと思ったりもしました。そして自分はうまくそれを捉えることが出来ずにいる感じがして、だから入り込んでいけないのかな、と考えました。
諏訪靖彦 投稿者 | 2019-09-29 16:12
2014年との環境と十年後を対比させる構成は、ややもすると陳腐になりかねないと思うのですが、「夜明けを思う」詩情なエモさが素直に心に響きました。斧田さんと異なる理由で私も「朝が怖い」です。
Juan.B 編集者 | 2019-09-30 03:24
書きたいことは他の人がみな書いてしまった……。
背景の生活について何を言えることもない。
夜や朝の描写が、(大江健三郎経由の受け売りだが)ウィリアム・ブレイクの描いた様々な神ように思えた。
波野發作 投稿者 | 2019-09-30 10:06
銭湯から帰るあいだに髪がパリパリに凍る生活をしていた高校時代を思い出しつつ、言うてもそんなに寒くはないだろう、ダウンジャケットで寝ればいいじゃんとか思いながら、そもそも信州あたりの家屋は窓が二重サッシだったりと対策がされていることに気づき、環境って大事だなと思った。作品は素晴らしいです。高得点
高橋文樹 編集長 | 2019-09-30 16:04
いまはイギリスでなにか救われたような状態になっているらしい「僕」の回想録として読んだ。昔の僕が頼りなかった頃が仄めかされているのも雰囲気があってよい。
一希 零 投稿者 | 2019-09-30 20:04
美しい文章と景色でした。一度読み、もう一度読みたくなるような、心地よい空気を感じました。異なる二つの時間の書き分けが上手く、とても勉強になりました。