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自殺する前に

生きることと死ぬこと(第11話)

XAMAHA(天羽柊)

自殺する前に読んで欲しい一文なのかもしれません。

エセー

3,300文字

「そのままでもあなたは十分に価値がある」
こういう言葉を信頼できない世の中になっているのかもしれません。
そのままでは「個性」という曖昧な相対性の概念のなかに吸収されてしまいそうな言葉です。
「人それぞれいいよね」
そういう言葉は、なんの慰めにもならない。
違う違う。
すべての人が、すべてに置いて、最高に等しく、最高にいいのだ。
「人それぞれ」なんかじゃない。
もう死んでしまいたいと想っているような心境の人にとっては、「そのままで十分」ということは伝わりづらいかもしれない。とても信じられた言葉じゃない。
今死のうとしてる人、あなたの抱えているすべての問題の解決と、すべての理想の達成が約束されるとして、それでも死にますか?
病気になるというのはある意味でいいことなのかもしれない。
もしも自分が身体的(物質的)に、全く生産性がなくなったとしても、それでも生きる価値があるか、と自分に問う機会になるから。
その答えはもちろん、誰しも、「ある」です。
当たり前です。
生存の価値はなんの保証にも依存しません。
あなたが死ぬことはありません。
そもそもあなたが死ぬことは永久に無いのだとしたら、いったいこの世界はなんなのか。
そもそも絶対に死ねないとしたら、あなたはそれでも死ぬか。
社会の枠組みを外す。
個人の枠組みを外す。
社会という考えを外す。
カイザー・ソゼになる。
自分の物語は自分の好きなように語っていいし、あなたが何者であろうと、あなたが神に完全に祝福されないということはない。
社会という枠組みに重みを与えないことです。
合意ということを全く気にしないことです。
旧約聖書の創世記を知っている方であれば、有名な、知恵の実の話はご存じでしょう。
アダムとイブは服を着る(裸でいることに羞恥を憶える)ようになります。そしてそのことによって、楽園追放が起ります。
十字架のヨハネという後代の神学者は、「赤裸」と言う概念を強調しました。
難しい言葉を並べましたが、いずれにせよ、「すっ裸でいること」でも、十分に自分に価値を感じられるか、ということなのです。
生産的であろうとするあらゆる行いを放棄する。
全く何もしなかったとしても自分に幸せを感じられるか? 自分に十分に価値を感じられるか? ということです。
ここで、この議論を安易に資本主義とメリトクラシー批判に留めたくありません。僕はヒッピーではないし、愛と平和なんてもってのほかです。どうでもいいです。
ただ、人々が信じていることには、資本主義、メリトクラシー、自由市場の競争をやめたら、「人々が駄目になる」とか、「人々が馬鹿になる」と思っているのです。
そもそも人類が楽園を追放されたのは、ただ単に裸であることを恥じたということだけです。
「赤裸のままでもあなたはあなたを十分に認められるか」。
奇跡って起こらないって判ってるから奇跡なんでしょ。だったらなんでそれを起そうとするの。
それを文化人類学的な文脈では「魔術」と呼んだりします。
生産的であろうとすることを全く辞めることです。
一回も事故に遭ったり、人生を深刻に考え込むほど人生が停滞したことのない人間は、「一生懸命」やろうとします。
でも「努力」では駄目だ。
自分自身の価値を証明するための外部の努力を一切放棄することだ。
聖書に依れば、「服(つまり肉体を隠すこと)」でさえ、「罪」らしい(これだけ清書の引用をしておいて、僕はクリスチャンではないですが)。
と、いうことは、この現世で、「服を着て」、「仕事に出て」、「生産的であろうとする」このすべてが、もはや「大罪」です。
これは神の視点から人類が罰されるとかいうことじゃなくて、ただ単に、「自分でも判ってるでしょ?」ということです。
実は、「生産的であろうとする行い(努力、営為)」は、全部、つらいだけで、誰に何の得も及ばさない。
じゃあいますぐ仕事を放りだしたらいいのか。
違う。せっかく頼まれたことはやればいい。それでお金も入って来る。でも無理やり自分から何か波風を起そうとしてはいけない。してはいけないというか、する必要がない。
最近は「がんばらない習慣」とか、「ちゃんと休みを取る」みたいなビジネス書とか、そういうブームがあるのかもしれないけど、そんなのは焼け石に水です。
自分の価値を自分の外部に依存させるな。
なにかを起したから偉いんじゃない。
はじめから偉くて、たまたま「戯び」でなにかやったら当たっただけ。
それくらいに考えるといい。
というか、それしかできない。
どんな職業の人であっても、例えば芸能人であっても、音楽的スターであっても、実際はサラリーマンと同じです。
彼らはたまたまそういうポジションに配置されたので、特殊に見えるだけで、彼らもまた、必死に、「生産的であらねばならない、『作品(仕事=Work)』が認められなければ、自分自身に価値がない」と急ぎ、あえいでいる。
それはある種の「中毒」ですし、実際に、ハリウッドスターの薬物中毒であったり、煙草、飲酒、果ては甘未や食事まで、「仕事する時にもっと生産的である為」のスパイスになっているのです。だからやめられない。やめられないというよりも、やめてないだけ。
「努力」を辞めれば、自ずと「中毒」もやみます。
例えば、飲酒にくっついている「理由付け」はなんでしょうか。
「それくらい飲まないとやってられない」とか、
「自分へのご褒美」
とかでしょう。
つまり、「生産的であらねばならない」生活を支える為に、アルコールなり、カフェインなりを呑んでいる。だから「中毒」になる。
努力って難しいと思われがちだけど、努力するほど簡単なことはない。努力している間だけは、それこそ薬物中毒と同じで、「その間だけ」一応没頭はできるし、「もしかしたら誰かの期待に応えられるかもしれない」と報酬系が働いている。
本当に難しいのは、「全く意図的な努力をしないのに、自己の価値を確信すること」です。
難しいというか、訓練のされかたが違うというのですかね。
「自分から行かないと、なにも起こらない」
「何も起こらないくらいなら、ボランティアでもした方がマシだ」
と、普通の産業社会に適応した頭だと考えてしまいます。
でもそれは明らかに誤りです。
全く何もしなくても自己の価値を確信できるか。
より正確に言えば、「自己の価値を外部委託しないか」。
自分の外側に造った成果物や、成果の積み上げによる「証明」に自己の価値を依存させてはならない。
起こらないことは起こらない。
カッコつけようとしたり、少しでも自分をよく見せようとしたり、見栄を張ったり、かわいくしようとしたり、それが愉しいことだったらいいのですが、「そうしないと最低限の見栄が張れない」みたいに想っているなら、それは間違いです。全部やめたほうがいい。
(自分で書いていて、何様ですかって感じだけど。)
そういうこと(見栄)をやめたら、無意味に大きな責任を引き受けることもなくなるし、過剰適応もなくなる。無意味な支出もなくなるし、ともかく、社会的に余計なものを背負いこまない。だからつらくならない。
自分の存在に対して言い訳しなくていいです。
「そう、だから?」
と言う感じの態度でいい。
生きているだけで価値がある。慰めじゃない。生れたということは召命があり、使命があり、世界が貴方に存在しても良いと認めたから、あなたは居るのです。
「自己の価値を証明すること」ならやらない。
そんなことはやんなくていい。それに付随する一切の努力は放棄していい。
全くなにもかもしなくても、あなたは生きている価値がある。
そうだとしたら、あなたはなにをやりますかって話。
価値を証明しなくてもいい。
なぜならあなたの価値は存在している時点で、あるいは生れた時点で、なにもかも、最高地点の、頂点に設定され、証明されているからだ。
そうだとしたら、あとは、「戯び」しか残らない。
「戯び」であなたはなにをやりたいですか?
やりたいことがなかったらなにもやらなくていい。それでも価値は十分に証明されているから。
「戯び」ですらやりたくないなら、本当になにもしなくてもいいんだよ。
自分の価値を外部に依存させるな。

© 2026 XAMAHA(天羽柊) ( 2026年9月27日公開 )

作品集『生きることと死ぬこと』第11話 (全13話)

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