ふわふわ棺桶

眞山大知

小説

13,267文字

小田原の生んだ私小説家・川崎長太郎に挑んでみたシリーズその2。地方住み女装男子の生き様を描いています。
人によっては不快感を覚える内容なので何でも許せる方向けです。地雷の多い方にはお勧めしません。
同じ世界観の『レオパレスキャッスル小田原抹香町』(https://hametuha.com/novel/92843/)もぜひ読んでください。

 二十八歳、無職。職歴なし。生きる価値のないわたしに幸福なんて烏滸がましい。人でなしは、人間の住居でなく、家畜小屋――家賃四万円・築二十五年の、このレオパレスキャッスル小田原抹香町で、醜く生かさせてもらうのが、ふさわしかった。
 レオパレスはパン工場の借り上げ住宅だった。レオパレスの住人は稼働日になると、酒匂川の小田原大橋のたもと、寿町の巨大な工場へ向かって、黙々と歩いて出勤する。住人たちは会社に生かされなかったし、死なされもしなかった。――ただ、突然やってきて、突然消え去っていく。隣から、薄い壁越しに軍艦マーチを聞かせてきた、ケーキ工程で働く男は一ヶ月前に消えた。その数日後、わたしが家に帰ると、隣の部屋をブルーシートが囲い、県警の警察官やら鑑識官やらが、忙しげに、シートのなかへ出入りしていた。一〇一号室のあんぱん工程の女は、誰が父親だかわからない子を孕んでいたが、九月に出産したらしく、パン工場を辞め、茅ヶ崎の男のもとに引っ越したらしい。代わりに一○一号室には、四〇女がやってきた。館林の工場から応援に回された四〇女は、夜に必ず、一○一号室のドアの前でピアニッシモを吸い、しわがうっすらと覆う顔を、画面の割れたiPhoneへ向け、なにかの一〇連ガチャを狂った勢いで回し続けていた。四〇女はしばらくすると男を連れてくるようになった。毎回、連れてくる男は違っていたが、二〇代前半ぐらいで、ベーシスト崩れのような見た目だということは共通していた。
 家畜小屋の家畜がいくら消えようが、パン工場は停止せずに三直交代で二十四時間稼働し続けるが、今日は珍しく、生産ラインが停止していた。半年に一度の設備補修があり、工事関係者以外の作業員は、工場構内への立ち入りを禁止されていた。人間は生産設備よりも優先順位が低かった。「死ねば死に損。無限の底なし沼。人生の屠畜場。それが弊社だ」と、清晃――わたしの理解のある彼くんは、万年床のニトリのマットレスに寝転がってつぶやく。
 薄暗い部屋。万年床の、清晃の汗の匂いが染みついたシーツ。その上に低くなったそばがら枕が、黄ばんだカバーに包まれ置かれている。枕の側には大量のティッシュが積まれ、ティッシュに包まれた、薄いピンク、グリーンのコンドームから、精液と腸液の混じった液体が、ティッシュ越しにカーペットに滲む。万年床の右隣、折りたたみ式のミニテーブルには、三毛猫柄のコップと、清晃のロックグラスと、わたしの化粧ポーチが乗っかっていて、テーブルの座椅子に座らせた、イケアのサメのぬいぐるみは、この退廃しきった家畜小屋に似つかわしくない円らな瞳で、わたしたちをじっと見つめていた。
 テーブルのさらに右、カラーボックスの本棚の下段には業務用の角の四リットルボトルと情熱価格の純米酒の二リットル紙パックが置かれている。中段には、メイドラゴンだったり、あそびあそばせだったり、タイトルがやたら長ったらしい異世界転生ものだったり、清晃がむかし書いていた東方Projectの同人小説だったりが置かれていたが、まだ読み切っていない。最上段のフォトフレームに入る写真は引き裂かれていた。沼津の市議会議員をしていた清晃の祖父の、議長就任祝賀会で撮影された写真だった。会場の、沼津駅の北のすぐそば、バブル期に建てられたというホテルの、金色と紅色が映える大宴会場は華々しいけれど、貼りつけたような笑顔をした参加者たちの誰もが、目を笑わせていなかった。写真に映る、まだあどけあい、祖父の膝に抱かれた少年時代の清晃も、例外でなかった。写真の裂け目は、祖父の顔と、その隣の母親の顔を、真っ二つに割っていた。
 ここがわたしと清晃の「巣」だった。
「大変だね」とわたしは返し、横を向く清晃の背中に、ぴったりと抱きついた。酒の臭いがする。昼間から浴びるように飲めば、臭くなるのは当然だ。ホル乳を背中に当てる。女性ホルモンを注射してから、雄としての機能は完全に失われていた。。睾丸は縮小していき、もう精子は出なくなった。不必要だから切除してもいいんじゃないかと、最近になって思ってきた。
 いつもなら清晃は「恥ずかしいんだけど」と照れた口調で言ってくるが、何も返事をよこさなかった。昼間から、一緒にアマプラでシャークネードを観ながら、清晃は角をあけてぐびぐび飲んでいたし、さすがに寝てしまったのだろう。
 スマホを取り出して打つ。異世界転生。テンプレ通りの展開、キャラクター。別にわたしが書かなくても、ネット空間には天才なんて腐るほどいる。わたしが書いた文章なんて誰も読まない。こんな駄目駄目な文章なら、メンヘラが裏垢に書くポエムのほうがはるかにエモい。
 かといって、読むことには夢中なのかと言ったらそうでもない。あまりいい人間ではない。何百回何千回と読んだテンプレ通りのストーリー、主人公チート能力のせいで超高速のサイクルで繰り返される無双状態。大量生産、大量消費。それでも、読んでいる間は、自分が強くなった錯覚がする。そんな、ブロン錠のような、ひりついた偽物の幸福を与えてくれる、ファンタジーにわたしはすがっていた。清晃もすがっていた。この異世界転生は、元気のなくなった、この令和日本で一番盛り上がっているコンテンツなのだから。――他のなにが、わたしの希望になってくれるの? 衰退する日本社会を、荒れ狂う世界情勢を、わたし自身の人生を嘆いても、なにも変わらないことはわかっているが、それでも、異世界転生を読んで、不安と、自分の無能さを考えさせなくするしかなかった。現実を忘れて酔えるなら、酒でも、異世界転生でもかまわなかった。
 文章を書いては消して、書いては消して、結局文章一つすら書けなかった。気分が悪くなった。青く細長い袋をあけ、液体の薬をちゅーるのように飲む(ネットだと、メンヘラちゅーるなんて名前で呼ばれている)。鬱々としていると、夕方四時の時報が鳴りだした。小田原を、防災無線のサイレンから鳴る電子音が覆った。『ゆりかごのうた』――北原白秋が小田原に住んでいたときにつくった歌だった。歪んだアルミサッシの窓の外には、ジモティーの成功の象徴、型落ちアルファードを停めた戸建ての住宅が立ち並んでいた。その間を分け入るように、幅一メートルもない路地が鎖帷子のようにきめ細かに通り、鎖帷子の東には、茶色や黒色の、トタン屋根の平屋が凝集していた。――戦後の赤線、「抹香町」の成れの果てだった。夜の街という名残は、一軒だけあるスナックからしか感じ取れなかった。そのむかし両手で数え切れないほどあった「旅館」は、取り壊されて成功の象徴が建つか、ジモティーがセカンドカーの軽自動車を並べる駐車場になったり、介護施設が建ったりしていた。プレハブ小屋のような介護施設の建つ場所は、戦後すぐに保健所があり、けばけばしい見た目の女たちが、梅毒の治療薬の注射を打ちに並んでいたという。
 抹香町の西には、高さ数メートルの小山――蓮上院土塁が、蛇のように伸びていた。かつて北条氏が秀吉との合戦に備えて築いた、総構の跡だ。その土塁に、円錐を逆さにしたような大きな穴が空いている。終戦二日前に、米軍が爆弾を投下してできた、漏斗孔がいまでも残っている。戦いの歴史が、偶然にも重ね合わさっていた。
 サイレンが鳴り終わると、土塁の向こう側、新玉小学校の方向から、ランドセルを背負った子どもたちが、土塁の縁の暗渠を走ってきた。
 下書きを保存して、なろうを閉じる。
「じゃあ、わたし、そろそろ行くから」
 清晃は横に寝そべったまま動かない。清晃の顔を覗く。すやすやと眠っていた。三十二歳の顔にしては若かった。いや、あどけないといってもよかった。
 わたしは起き上がって着替えはじめる。原神のガチャ一天井分と同じ値段の、アイリスオーヤマのパステルピンクのチェストから、夢展望でポチった、セーラー襟の黒いフリルブラウスと、白いレース地のハイソックスを取りだす。服を丁寧に着て、テーブルの、化粧ポーチを持って、わたしはユニットバスへ行った。
 ユニットバスの洗面台に立つ。パン工場の作業員にとっては充分な広さなのだろうが、わたしには狭くて不満だった。――家賃を一円も払わずに何年も勝手に居候している身だから文句を言う権利はないが。シャワー機能付きの蛇口の隣には青と赤の歯ブラシと、駅前のダイソーで買ったプラスチックコップ。清晃のブラウンの髭剃り。正面の鏡は薄汚かった。そろそろ掃除しなきゃと思いながら、わたしはメイクを始めようと、ポーチを開けようとした。
 いや、その前に、やることがあった。ポーチから手を離し、ワンピースの胸元に当てる。無駄だとは思うが自分の胸をを揉む。乳首をコリコリとこねると、甘い刺激が全身を伝わり、レース地のハイソックスを履いた足の指が勝手にぴくっと動いた。吐息が漏れた。ホル乳を大きくするには二週に一度のホルモン注射だけではダメで、定期的なマッサージが欠かせない。彼氏持ちは普通、セックスのときに胸を揉まれて自然とバストサイズがCカップだったりDカップだったりに成長するのだが、清晃の乳を揉むスキルか、わたしの胸の努力値が足りないのか、いずれにしろ、わたしの胸はBカップで成長を止めた。豊胸手術を受けようか考えたが、先に睾丸を切除したいし、いまはなるべくお金をかけずに悪あがきをしたかった。数回揉むと、くぐもったバイブ音がユニットバスに響く。もう少し揉みたかったが、胸から手を離し、鏡の脇、ドライヤーのスタンドに置いたXiaomiのスマホを取り出す。画面にはハッピーメールのメッセージが表示されていた。
「ゆずくん、急に呼び出してごめんね💦 寂しくなったの」
 メッセージを送っためるめるは十回目の客だった。めるめるは、スクリュードライバーを飲ませてくれる社畜おぢでも、金に余裕のある上級国民チー牛でも、頭が残念なイケメン大学生でも起業家でもなく、女だった。女装男子を食べたい男は腐るほどいるが、女装男子を買おうとする女は、この子が初めてだった。まだ十八歳だったが、カラダを買ってくれる人間というものは、男でも、女でも、ある独特な思考回路になって、独特な文章を送ってくるようになるのかもしれない。だけど、この子には一度も本番をしたことがない。キスもしたことがない。添い寝だけでいいと、いつも、一緒にベッドで寝ているだけだった。
 それでも、最初会ったときよりはマシになった。小田原駅前のタリーズで初めて会ったときの、めるめるの目はよく覚えている。怯えたような、震える瞳は、どこまでも、黒く濁っていた。わたしと会って添い寝するたびに、めるめるの目の濁りは、だんだんと薄くなってきた。
「よろしくー。いまから行くね」
 返事を送信。
 ふと、前に会ったときにインスタを教えてくれていたことを思いだした。アカウントを検索する。ミルキーホワイトだけでまとめた、子ども部屋のようなワンルーム。ベッドも、デスクも、チェアも、カーペットも、すべてが白く、レースやフリル、リボンが隙間なく覆っていた。実家からこの部屋に一人で越してきた。いや、正確に言うと、引っ越しさせられた。親の物件。親の買った家具。そこに、めるめるは住んでいて、「ここがわたしの終の棲家。棺桶」と、写真の下のキャプションに書いていた。棺桶にしては悲壮感がない。ファンシーで、ふわふわとした棺桶だ。キャプションの後ろ、数え切れないほどのハッシュタグのあとに、「わたしをこんなことにさせた毒親の金で、スイスに行って安楽死したい」と追記されていた。ロリータの愛好家は、心の底から楽しくてやっている人が多いが、少なくともめるめるはそうでなかった。
 早く出かけないといけない。わたしはポーチを開いた。ポーチのなかにメイク道具たちが、武器庫の銃のように並んでいた。

 

 

 

 肉体労働は、もう二度としたくない。スーツを着て、バブル時代をひきずるおっさんどもが妄想で決めた、到達不可能な営業ノルマに耐えられる根性もない。エンジニアになろうと専門書を開いたこともあったが、プログラミング言語の、アルファベットとカンマとカッコの羅列を見るだけで鳥肌が立った。YouTuberのような、面白コンテンツをひねりだすセンスもない。結局、カラダを売るしかなくなる。
 高二で女装を始めた。宮城の県北の、戦前は旧制中学だったということを、延々と自慢する高校で、成績は下から両手で数えるほどの順位だった。負け組になるのは自己責任。だから誰も助けなくていいと、傲慢なジジイがソープ嬢に風呂のなかで説教するように、宇宙の真理を伝える教祖様のように、テレビや新聞や、教壇のうえの先生たちは、喚きたてた。コミュ障で、バカで、ブサイクな男は、それこそ、東大に行くぐらいしないと付加価値をつけられないと洗脳された。いい評価をもらえば愛されるが、そうでなければ、凍えるような冷たい目でなじられる。公務員ばかりの、親戚の数が五〇人を超す旧家の一族は、どうでもいい分家の端っこにいて、無能のわたしを、腫れ物のように扱った。
 家出する勇気も体力もなく、かといって、不登校になりたくはない。男として生きること自体が、絶望だった。女になろうとしたきっかけは、はっきりいって逃げだった。
 セーラー服をAmazonで買ってから、教室の片隅で、隠れてガラケーを開き、爆サイで優しいパパを探しだすようになるまでに、時間はかからなかった。週末は、高速バスを使って仙台まで出てきて、夜の街――東北市の繁華街・国分町に逃げ隠れた。たとえ百万人が住む政令指定都市でも、地方都市の繁華街に法令遵守意識なんてなく、バーに入り浸っても、誰も咎める大人はいなかった。パパとはそこで出会った。国分町から晩翠通を挟んだ西向かい、立町のラブホ街の、うさぎ小屋のように狭いホテルで、スーツを脱いだパパは、優しく抱いてくれた。家族からも、教師からも、クラスメイトからも、必要とされなかったのに、パパだけは、汗だくになって、わたしを求めてきてくれた。高校時代はパパがいたから、死なないで済んだ。成績は少しだけ上がった。といっても、下から三十番目の成績だった。それに、イギリスからの帰国子女のパパが教えてくれたおかげで、英語だけ、テストで九〇点も取れるようになったけど、他の教科はなにも勉強しなかったので、目も当てられない成績のままだった。結局、英語のセンター試験の結果だけで量産型私立東京〇〇大学に入学でき、田舎から脱出した。初めての一人暮らしはよりによって新小岩だった。大学のキャンパスで話しかけてくるのは新興宗教の学生団体ばかりで、ゴールデンウィーク前に、金持ちで陽キャの同級生たちに突然誘われ入った新小岩の鳥貴族で、「イントネーションがキショいんだけど」と散々からかわれた。
 居場所がない田舎者は、自分で動かないかぎり、東京に移り住んだところで勝手に居場所を見つけられるわけではなかった。冬になる前に大学を辞め、かといって、田舎には絶対に帰りたくなく、オフパコで出会った社長に誘われ、秋葉原のペンシルビルの、ウェブコンテンツ制作会社に転がりこんで、わたしは社長のオナホになったが、半年後、社長はわたしの知らない女と結婚した。都合のいい愛人にされていた。捨てられた。給料は未払いで、水道代も払えなくなりそうだった。まずは、生活を建て直さなければならなかった。派遣会社に登録し、平塚駅の北の、大きな車体工場に勤めだしたのは十九歳の夏。検査工程で生産ラインを流れてくる、工事現場でよく見る大型バンの外観品質を、目視でチェックしていたが、休憩中に、高卒の正社員から「大学へ行ったくせに」といびられた。クリスマスの夜、正社員たちに呼ばれて、独身寮――会社が借り上げていたワンルームマンションへ連れていかれた。六畳ほどの部屋で、羽交い締めにされ、ぐちゃぐちゃにされた。次の日、工場に出勤すると、正社員たちはわたしに急に優しくなった。これでも車体工場は上場企業で、数千億円の売上を誇っていた。社会人がまともだなんて、ケツの青いガキの幻想にすぎない。
 だけど、自分の存在が、誰かに求められるという感覚を、正社員たちが必死にわたしのカラダを弄んで、ふたたび思い出せた。まだオタクの手頃で平和なコミュニケーションツールだったTwitterで新しいパパを見つけようと動いた。すぐ清晃と知りあった。清晃の助けで寮から夜逃げしたのは、二〇歳の誕生日。小田原の、清晃の家に住みつき、ホルモン治療、整形、声の女性化手術をした。カラダを改造する「工事」費用は、他の男たちのオナホになったり、酒匂川のそばの、欠けた木綿豆腐のような見た目のAmazon小田原FCでピッキング作業をしたりして稼いだ。カラダを売る稼業も、それなりに努力しなければならない。わたしがこの世界に存在させてもらっているのは、精子を吐き出す「穴」という価値を提供できるからだ。人はもうすでに、属性や数字でしか評価されない。職業、学歴、年収、SNSのフォロワー、映える写真のいいねの数、マネタイズできる人脈。その他諸々の数字。他人を属性やデータでしか評価できないということは、逆に、他人からわたしはこの冷酷な評価の眼差しを常に向けられている。
 それでもたまたま、穴として売れる才能があったおかげで、原神の課金ぐらいなら困らない程度には稼げた。

 

 

 

 眼にカラコンを入れ、完成。鏡を確認。ああ、なんて可愛らしいんだろうと自惚れた。ユニットバスから出てコートを着る。すっきりとしたシルエットの、白いコートを羽織る。袖口のファーはボタンで取り外しができて、外すとボタンがカフスのように見える。ガーター風のベルトと、胸元の可愛らしいポケットが、背中にチェーンのついたこのコートは、めるめるが、わたしの誕生日前に、教えてくれたものだった。
 玄関から出ると、もう太陽は沈んでいて、東の空に、オリオン座が鮮やかに瞬いていた。小田原駅から歩いて十数分という場所でも、抹香町は星がよく見えた。小田原の中心部は、猫の額ほどの平地にしがみついている。このレオパレスは中心部の東の端で、西の端はここから一キロ強ほどしかない小田原城。そのあいだの狭い平地を、ビルや、東京からの移住者が入居するという真新しく洒落たタワーマンションなどが覆いつくす。小田原城の背後から山になって、夜空に浮かぶ箱根の角張った山々が、巨人を阻む壁のように、西の空を塞いでいた。
 大工町通り。乳剤舗装の暗渠の道。グレーチングの真上を通ると、磯の臭いがわきたつ。好きなスコッチウイスキーはラフロイグだし、わたしはこういう臭いに抵抗を感じない。車道を行き交う車。アウディ、フォルクスワ―ゲン、ベンツ。川が海に流れるように、当たり前に外車が走り、その上流へ辿っていって、小田原駅東口に到着した。
 東口からはロータリーを中心に、細い通りが四方に散らばっている。地下街のHaRuNe小田原へ降りていき、タバコ屋で、アメスピを買っていき、再び地上へ戻る。ガンダムのイラストが描かれた階段を登りきって、アーケードに出る。アーケードの上面には、歴代の小田原城主の家紋が装飾されて並ぶ。
 梅干し屋のちん里うのシャッターの下に、メイド服をきた女の子が立っていた。コンカフェ嬢のかまぼこちゃんだった。変わった源氏名をつけたのは、実家がかまぼこ屋だからという可愛らしい理由だった。リーマンたちが魚群のように固まって、コンカフェのティッシュを配るかまぼこちゃんを素通りしていった。かまぼこちゃんは、どうやらかまぼこの色を身にまとうのは好きではなさそうで、ショッキングパープルに染めた髪は、アーケードの蛍光灯の冷たい光に当てられていて、つまらなさそうに垂れていた。かまぼこちゃん自体もつまらなさそうな顔をしていた。コンカフェでも、このアーケードの裏手、シーシャバーのフーカスッカでも、深海のように深い青に、ネオン管の赤と黄色の光が混ざる店なら、中毒者のように騒ぎたてるのに。
 シーシャバーで、テキーラをショット五杯も飲んだ翌日と同じ死んだ目を、酒に酔っていそうなわけでないのにかまぼこちゃんは晒していた。
 かまぼこちゃんの前をわたしが通ると、「ゆっずーじゃん。なに、ハメられにいくの?」と、かまぼこちゃんは天気の話題をするようにさらっと聞いてきた。
「今日は違う。めるめるだよ」
「つまんねー。ペニバンでも買ってきてあげたら? ゆっずーが女の子に腰を振るところ、想像できないんだけど」
 かまぼこちゃんはケラケラ笑う。わたしもつられて笑ってしまった。
「添い寝だけだよ」
「だろうね。前に一緒にお茶したとき、あの子、わたしにはベタベタ甘えてきたのに、ゆっずーとの間には、なんか妙な壁を作っていたじゃん」
「なんでそんな子が男を買うようになったんだろう」
「はあ? ゆっずー、自分がオスだって思っているの?」
「だって、戸籍上はまだそうだし」
 話が変な方向に進んだ。戻さないと。
「かなりの太客だし、めるめるは大事にしなきゃ」
「あの子まだ十八だっけ? しかも今月だけで五回目? やばくない?」
「親からあんな扱いをされたらおかしくなるのはわかるでしょ」 
「そりゃそうだけど。ゆっずー言ってたじゃん。ほら、よく昔のホラーに出てくる、なんだっけ、座敷牢?」
「わたしもびっくりしてる。あんな話、本当にあるんだなって」
 世の中には、金だけを払えば親の義務を果たしたと勘違いする親がいる。めるめるは、中学受験で、千代田区の中高一貫のお嬢様学校に入ったものの、高校二年の冬に燃え尽きて、引きこもるようになった。学校は、退学を勧めてきた。初めて聞いたときはびっくりしたが、この種の超進学校は問題がおきた生徒をすぐ見捨てるらしい。めるめるは、両親と、弟が東京に住んでいるのに、たった一人だけ、小田原のワンルームマンションを借りさせられて住み、通信制高校に通っていたそうだが、十八の誕生日に退学したという。
 かまぼこちゃんは「でもさ、金があるだけいいじゃん」と卑屈混じりに言いながら、腕を組んだ。奨学金を上限額ギリギリまで借りて大学に通うかまぼこちゃんの懐事情は淋しく、推しのメン地下に貢ぐために、週六でコンカフェに勤務していた。
 かまぼこちゃんは目線を斜めに落として続けた。
「うちの太客の不動産営業マンもよく言っているんだよね。東京の、一億いくかいかないかのタワマンを売って、小田原で、広い庭付きの家を建てるリーマンとか社長さんが最近多いって。ベンツを乗り回して、休日はだだっぴろい庭で友達を呼んでBBQしながら、庭に作らせたドッグランで犬を遊ばせる。なんだよ、貴族かよ。顔面を白塗りにして和歌でも詠んでろよ」
 ここから延々と語られるだろう。そろそろ時間だったし、わたしは仕事だからと言ってかまぼこちゃんと別れた。かまぼこちゃんは、「ペニバンで犯されるの待ってるからな」と言って、まだなにか話したそうに、わたしを見つめていた。
 鈴廣の角を曲がると、目の前が異世界のように明るくなった。道沿いのタイトーステーションの照明だった。そこが待ち合わせ場所だった。
 店に入る。異世界転生の女神の後光のように光り輝く照明の下には、能面のような無表情の顔がずっと並んでいた。太鼓の達人の前で、すぐ近くの私立高校の男子生徒たちが制服を着崩し、太鼓を連打していた。汚れたスニーカーに白いスニーカーソックスを見せびらかすように晒していた。隣のクレーンゲームで、平成の女性オタクの生き残りが、たらこのような服を着せられた男性アイドルのぬいぐるみを取ろうとしていた。そのクレーンゲームの筐体の縁には、ちいかわのぬいぐるみが足から逆さ吊りにされ、痙攣するように、激しく小刻みに震えて甲高い電子音を放っていた。客たちは口をぎゅっと閉じて沈黙し、ゲームをプレイしていた。――私語厳禁でもないのに一言も喋らずに。その沈黙を塗りつぶすように店内を流れる、全く知らないボカロ曲たちの、音楽の洪水。
 奥に進む。立ち並ぶクレーンゲームの筐体たちは、流行りから一年も二年も遅れたアニメキャラたちのフィギュアを、その透明の体内に収めていた。フィギュアは、体内の、冷たく光るアルミフレームの上に立ち、未来永劫崩れることのない笑顔を振りまいていた。白い光が初音ミクのフィギュアを照らす。永遠の一六歳。二十一世紀最大の歌姫。ガラス箱のステージには観客は誰もいないのに、とびきりの笑顔を振りまいていた。キャッシュレス決済なんて使わない。ふわふわのファーのついたポーチから財布を取りだし、百円玉を投入口へ入れる。
 ランプがついた。投入口の隣、①と書かれたボタンを押す。クレーンが前進。ボタンを離すといきなり停止した。②のボタンを押して、狙いを定めて離す。ぴたりと止まったクレーンは、二つのアームを痙攣するように開くと、急降下した。アームはミクのフィギュアの箱を掴むが、クレーンが上がると情けなくなるほどすぐに箱を離した。わたしを見つめるミクの目が、急に恨めしそうに見えた。
 筐体から離れようとすると「ゆずくん、早いね」と背後から声をかけられた。めるめるの声だった。ほとんどの客はわたしをちゃんづけで呼ぶのに、めるめるはくんづけで呼んでいた。
 振り返るとミルキーホワイトが視界を占領した。クラシックなスタイルのブラウス。スカートはパニエでふんわり膨らませて、ふわふわと漂う、くらげの傘を連想させた。ハイヒールのローファー。すべてがミルキーホワイトで色を統一していた。――ふわふわなフリルと、可愛らしさ、甘さ、少女趣味を、純粋な結晶にして身にまとっていた。その服は、特攻服でもあり、鎧だった。めるめるを、猥雑で穢らわしい現実世界から、隙なく防備していた。夢で固められた甲冑。しかし、めるめるには、戦うための刀も槍もない。これまた真っ白いボンネット風のヘッドドレスは大きく上にせり出し、兜のようだった。その兜の下で、めるめるは据わっていて澄んだ目をしていた。わたしと十回も会っているのに、初めて見る目だった。
「めるめるだって早いじゃん」
「家にいても寂しいから」
 めるめるは、
「これ、わたしが取ってきたの」
 めるめるはアポロチョコを渡してきた。始めてもらう、プレゼントだった。チョコを受け取る時に手に触れた。心配になるほど細くて、冷たかった。
 タイトーステーションを出て、小田原城の北の縁、弁財天通りの緩い坂を二人で下る。外国人観光客向けの宿が並び、通り過ぎる観光客たちは、わたしたちのほうを見て、顔を驚かせていた。
 めるめるの手を繋いでいた。めるめるは、他愛のない日常の話をした。ゆずくんに会ってから、どん底に暗かった世界が、ほんの少しだけ、明るくなったこと。城のなかを散歩すると野良猫が、松の下でごろごろと寝っ転がっていて可愛いかったこと。鴨宮の、かもめ図書館近くに、ロリータファッションの大先輩がいて、週に一度の、教会の礼拝で、大先輩と一緒に祈りを捧げ(めるめるは家族に黙って改宗した。洗礼名は教えてもらってない)、そのまま家に招かれて、二人で、英国式のアフタヌーンティーを飲んだこと――。
 めるめるのハイヒールがコツコツと、道路に当たる、乾いた音が鳴り響く。
 右側の、小田原城の天守閣はライトアップされ、純白に輝いていた。城は威厳に溢れていて、学校の校門に立つ生活指導の先生のように、わたしたちを無言で諌めていた。
 お堀端通りとの三叉路にあるマンションが、めるめるの家だった。エントランスへ入る。大理石の広いラウンジ。中央を占領する、ベヒシュタインのグランドピアノが、誰かが弾きにくるのを待ち構えるように、鍵盤蓋を開き、柔らかいベージュの光が天井から降り注ぐ。タイステの蛍光灯よりも温かい色味なはずなのに、冷たく感じた。
 エレベーターで六階まで上がった。めるめるの部屋のドアを開けると、視界が精神安定剤の錠剤のように白く染められた。いつ来ても思う――もし、棺桶に生きたまま入れたら、こんな白だらけの光景が見えるのだろうと。白い猫脚の、小さいテーブルとチェアは、白い花瓶があり、白い花が添えられていた。チェアに腰かけると、めるめるはお茶を淹れてくれた。当然、白いティーカップと、白いティーポットで。
 ティーポットから注いでくれたお茶は、さすがに白くなかった。わたしは、ティーカップに口をつけてすすった。冷えた体に、温かい紅茶が染みる。
「ピーチティーだね」
「好きかなって。前に、ほら、コンカフェの子とお茶したときにニコニコしながら飲んでいたの、覚えているんだ」
「ありがとう」
 わたしがカップを戻した時、突然、めるめるは抱きついた。危なく、チェアから落ちるところだった。
「わたし、また東京に戻らないと」
「なんで」
「親が明日来て、わたしを連れて帰るって。いい先生が見つかったから、更生施設に預けられる。嫌だ。嫌だ」
 そのまま真っ白いベッドに連れていかれる。抵抗するも、なぜか、力が入らない。ベッドにはすでにタオルが敷かれていた。めるめるはわたしを押し倒した。
「でもね、わたし、大人たちに負けないから。わたしはこの街で、強くなれたし。なんなら、わたし、悪い子になっちゃったから。最後に言わせて。ありがとう」
 めるめるは優しくキスをしてきた。初めての、めるめるとのキスだった。めるめるはベッドから飛び降りると、うさぎの小さい頭が四隅についた、白いキャビネットを開けた。黒い物体が、キャビネットのなかから現れた。この部屋に、不釣り合いな、妖刀のように禍々しい棒の周りには、皮のベルトが、蛸か烏賊か宇宙人の脚のように伸びていた。ああ、これがめるめるの刀なんだと、思った。どうせ、清晃とさっきまでセックスしていたから、お腹はたぶん綺麗なままだろうし、いざというときにお腹のなかを洗えるように、イチジク浣腸を持ってきている。めるめるの刀をしっかり受け止められそうだとわたしはほっとしたら、急激な眠気が、わたしの視界を黒い、黒い、闇に染めていった。

 

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

 一週間経っても、お尻がひりついているような感覚がある。あんなに太いのは初めてだった。めるめるは消えてしまった。あの次の日、マンションへこっそり行ったが、玄関の前から見上げた、めるめるの部屋はすでにカーテンすらかかっていなかった。ハッピーメールのアカウントは消えた。インスタも消えた。もうなにも、消息を知る手段がない。
 二十三時半。大雄山線の小田原駅の改札をわたしは出た。改札の真上から、大雄山に住むという、大天狗の大きなお面が、わたしを見つめていた。背後から、東海道線の『お猿のかごや』の発車メロディが聞こえてきた。
 箱根の山をぐるりと囲むように、日本を代表する大企業の研究所が点在していて、そのうちのひとつに勤める男に買われた帰り、わたしは、上級国民へのルサンチマンで狂いそうになりながら、終電で小田原駅まで帰ってきた。
 階段を降り、ロータリーの縁を巡る。ちん里うのシャッターの前に行くと、かまぼこちゃんがいた。ルサンチマンが急にしぼんでいった。声をかけると、「めるめるの家、もう借りられるようになったらしいね」とかまぼこちゃんは残念そうに言ってきた。
「あの子は、小田原に帰ってくるよ。たぶん、結構早いうちに」とわたしは返した。
「どうして?」
「男の娘としての直感」
「なに、その女の直感的な言いかた」
 かまぼこちゃんは駅の方向を見つめて続けた。
「まあ、あるかもね。あの子は掴みどころがないんだもん。誰かに連れて行かれても、抜け出して、ふわふわって空に漂っていそう」
「あの子はそんな風船みたいな子じゃないよ。メリー・ポピンズみたく、傘をさして、面白おかしく、空から戻ってくるよ」
「バカじゃないの? そんなポエムみたいなことを言って。ペニバンでハメられてまだ頭がふわふわしてんの?」
 二人で笑った。笑わないと、めるめるがいなくなった悲しみを癒せなかった。
 わたしは、コンカフェのクリスマスイベントに絶対行くからと、かまぼこちゃんに声をかけて別れた。
 抹香町へ帰り、レオパレスの鍵を開ける。清晃は、ぐっすりと万年床で寝ていた。赤ん坊のように、丸くくるまって。
「清晃、いなくならないでね」
 わたしは、優しく、清晃の頭を撫でた。――わたしが、家族にされることのなかった愛情表現だった。窓の外、小田原駅の方向から、列車の低くて乾いた走行音が聞こえる。わたしは清晃の体に抱きついた。甲高い汽笛が二発、鳴った。

2024年12月13日公開

© 2024 眞山大知

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