僕と、神谷昴、細川茉莉は大学の同じコースで出会った親友達だ。
僕はそれなりに勉強出来ていたのだが、隣の席で講義を受けていた神谷が頭を抱えていたのを助けてやった。それが僕と神谷の出会いだ。
ある日、僕と神谷は食堂で話をしていた。すると、その話の内容に興味を持ったのか、それともただ単に混んでいたからなのかは分からないが、細川さんが同じテーブルに座ってきた。
彼女は僕達より一つ上の先輩だ。長い髪を颯爽となびかせている。人当たりも良く、直ぐに僕達は親しくなった。
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大学生活にも慣れてきたある日、大学近くの大衆向けカフェで僕達は休憩していた。僕はブレンドコーヒー、神谷は甘ったるいカフェオレだ。
「なあ雅人。お前って、講義の内容理解出来てる?」
「それなりには」
「……だよなあ……。俺やっぱ勉強には向いてないわ」
そう彼は言う。彼自身は自覚していないだろうが、あいつは案外女子から好かれる。大学デビューで染めたブロンドの髪と、その愛らしいフェイスのお陰だろう。
人には向き不向きがある。彼の場合、勉強は不向きだが、交際関係はめっぽう向いているのだろう(以前自分は童貞だと名乗っていたが)。
僕がブレンドコーヒーのカップに口を付けると、それに合わせた様に店の中に誰か一人入ってきた。
その人物に神谷は直ぐに挨拶をする。
「あ、細川先輩!」
「ん? ああ。二人共居たんだ」
彼女は僕達が座っているテーブルの空いている席に座ると、ふうと息を漏らした。
「分かるよ。ここ、雰囲気良いよね。私も好きだなあ」
独り言の様に彼女は言う。僕はブレンドコーヒーを飲み干し、彼女の方を見た。神谷の方はまだ三分の一程残っている。
彼女は最近流行りのファッションを身につけている。耳元で光るピアスが眩しい。
十秒程沈黙が続いた後、細川さんがふと話し始めた。
「そうだ、二人共。……長野のさ、白川村って知ってる?」
「……いや、聞いた事無いですね」
神谷はそう言うが、彼が世間知らずなだけだ。
「聞いた事あります。確か日本アルプスが見れる所ですよね」
白川村。長野県にある、小さな村だ。自然豊かで、日本アルプスの美しい景色が望めるんだとか。世界中から多くの人々が訪れ、その美しい景色に翻弄される。
「流石は白田君だね。そう、その白川村。……実は来週に行こうと思ってるんだけど……良かったらどうかなって」
彼女は猫なで声で言った。……全く、ただ誘おうとしているだけなのに、彼女の悪い癖だ。
「行きます! 行かせてください!」
その瞬間に神谷は腰を上げて、まるで性交前のオスの様に興奮しながら言った。その態度に僕はうんざりしつつも、やはり白川村には行ってみたかったので、僕も言った。
「行きたいです」
すると彼女はパンと手を叩いた。
「よし! じゃあ決まりね。……良かったあ、一人で行くのは寂しいから……」
こうして、僕達三人の白川村行きが決まった。汚い天井を見上げて、これからの僕達の展開に心躍らせる。対照的に僕の心は晴れやかだった。
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新幹線とバスを乗り継ぎ、三時間程すると、僕達は白川村へやって来た。
三角屋根の白川駅と、気高い日本アルプスを眺めながら、僕はふうっと息を吸った。東京の汚い空気が洗い流されて、肺の中が青い空気で満たされた。
日本アルプスの山頂辺りは、もう夏も近いというのに未だに雪が残っている。あそこはまだ冬なのだろうか。それを思うと、不思議だ。
二人が口々に感想を述べていく。
「おー……。綺麗だなあ」
「綺麗ねえ……空気も美味しいし、来て良かった」
少しよそ行きだが、今日はハイキングをすると行っていたので、皆歩きやすい服装を着ている。
僕は息をすっと吐いた。すると、神谷が僕に話しかけてくる。
「これからハイキングかあ……歩くの苦手なんだよなあ」
「何を。それを言うのはどちらかと言うと僕の方じゃないか?」
これ以上無い程に面倒臭そうな顔をする彼に僕はこう言い返した。
「……いやあ。雅人ってこんな顔して割と体力あるだろ? 俺はそんなだからな……」
確かに僕は眼鏡をかけていて、普段からよく本を持ち歩いている。何も知らない者からすれば、僕は典型的な文系の大学生だろう。当然体力も無いと思われる。
だが僕は高校時代には山岳部に所属していたので、それなりに体力はある。それに対し、神谷はよく長距離走で周回遅れになっていた、と言っていた覚えがある。
「まあ、頑張れよ。せいぜい置いてかれない様にな」
「相変わらず冷たいなあ……」
崩れ落ちる神谷をよそ目に、僕は細川さんの様子を伺った。
スマートフォンを見て、どうやら予定を確認している様だ。
「……よし、じゃあ行こっか」
にこやかに彼女は僕達に語りかける。ずんずん進んでいく彼女の後を追い、僕達は歩き出した。
僕はカバンのポケットに「ノルウェイの森」を仕舞うと、何処までも雄大な日本アルプスを眺めていた。
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あれからバスに乗り、僕達は八方池を目指している。晴れていれば山々が池に鏡面の様に映る幻想的な光景が見られる。今日は生憎晴天だ。僕達以外にも、休日だからか人は多くいた。
僕達の先頭を細川さんは進んでいく。僕は神谷の手を引っ張ってそれに追いつこうとしている。
「……神谷君、大丈夫?」
後ろからふと彼女が振り返った。長い髪が風に揺れている。
「先輩は気にしないでください、僕が引き上げるんで」
僕は前を歩く彼女を心配させない様に言った。それを聞くと彼女は少し笑って、また先を一つ一つ景色を舐めとる様に進んでいった。
「ほら、しっかり歩けよ」
「きつい……」
僕の後ろで、神谷はひいひい音を上げながら歩いている。まだ半分も到達していない。
地獄絵図の様な神谷や、都会の山とは違って、この辺りの山々は皆堂々としている。自分自身に誇りを持って、生を楽しんでいる。……僕とは正反対だ。羨ましい。
正直に言うと、僕には自らの存在に自信を持っていない。この場に僕が居るという事実も、僕は信じられない。
神谷は女性人気のある色男だし、細川さんはとても綺麗な女性だ。それに比べて僕には何も無い。
大した美形でも無いし、性格が良い訳でも無い。
僕には一体何が存在しているのだろうか。僕にあるのは、リュックサックの中に背負っている着替えと、歯ブラシ、BBQ用の鋏、串、そして文庫本のみ。
それ以外に僕は何で構成されているのだろう? ……空虚さが僕を満たしている。僕は風船だ。中にヘリウムしか詰まっていない風船。針を刺されれば、ぱちんと消えてしまう。
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山荘からしばらく足を進める。八方ケルンをパスして、まだ雪が残る道を進み、高所の強風が、があがあ鳴くのを聞いていると、やがて道が開けてくる。
そして細川さんが声を上げた。
「二人共早く! 凄いよ!」
細川さんが飛び跳ねて僕達を呼ぶ。彼女がそこまで言う程なのだ、さぞ綺麗なのだろう。僕は神谷を置いて走り出す。
「……おい、待てよ!」
後ろから神谷の悲鳴が聞こえた。
走った僕の目の前には、お望みの八方池が広がっていた。
その光景はまさに絶景と呼ぶに相応しかった。逆にそれ以外の呼び名があるのだろうか。
池の奥には日本アルプスの山々が悠々とそびえ立っている。それを池は反射している。まるで鏡の様だ。僕も思わず感嘆の声をあげる。
「ね、綺麗でしょ」
「……ええ……。本当に」
細川さんがそう同意を求めてきた。
暫くすると神谷も追い付いて、その光景の素晴らしさを収めようと写真を撮っていた。
八方池は、全てを反射している。良い物も悪い物も全て。それが切なく、何とも哀しい。善悪の区別がつかない。だから全てに施しを与える。
その純粋さが天使の様でもあり悪魔の様でもある。
……この鏡に映っている自分自身に手を触れようとすると、落ちてしまう。今にも触れられそうなのに。僕はそこから、池に映る自分自身に口付けしようとして溺れてしまったナルキッソスの事を思い出した。ここでは誰もが、正しく今からにでもナルキッソスと同じ運命を辿ってしまう可能性を秘めている。
そんな時に、細川さんが呟いた。
「……なんかさ、こんな素敵な景色見てたら、就職がどうとか、将来性がどうとかどうでも良くなってきちゃった」
「……ここでは、そんな事考えなくていいんですよ」
僕は本心からそう言った。
「……この池が鏡の様で美しい。綺麗だ。生きていて良かった。……そう思えたなら、十分です」
「……そうかな」
細川さんは、僕の顔を見て、何だか照れくさい様な、嬉しい様な、そんな入り交じった表情をくれた。それが僕にとっては、景色以上の至高の幸福だった。
神谷が写真を撮り終えて、走り出す。全く、いつから元気になったのか。
それに置いていかれない様に、僕達二人は彼の後を追った。
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あれから山を降り、白川村の居住区にやって来た。ここには、観光客用のホテルやコテージが多くある。逆に僕からすれば、村民は何処に住んでいるのか不思議で仕方なかった。
僕達がお世話になるコテージの主人は、気の良さそうな白髪の目立つ男性だった。どうやら東京で仕事をしていたが、定年退職してこの白川村でコテージを開いたらしい。そんな人生を遅れたら本当に素敵だと思うが、僕にはそんな人生が夢物語にしか思えない。だがそれが成功する者と失敗する者の違いなのだろうな、とも思う。
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BBQをして、東京と長野のテレビ局の違いに感銘を受けていたら、いつの間にか寝る時間となった。僕と神谷は同じ部屋で寝る。細川さんは一人部屋だ。
いざ電気を消して、寝ようと思った時に、神谷が話しかけてきた。
「……なあ、雅人」
「……何だい?」
「……今日、楽しかったか?」
「……ああ、全く」
話をしている内に欠伸が出た。
「……そうか、それなら良かった。……お休み」
「……ああ。良い夢を」
僕は神谷の相手を済ませて、瞼をゆっくりと閉じた。
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「……ああ……」
あれから少し意識が飛んだだろうか。ようやく朝かと思って窓の方を見たが、期待外れにも未だにそれは黒かった。
今からでも再び瞼を閉じて寝ようかとも思ったが、僕は今、深夜の白川村が見てみたくなった。冷えた風を存分に浴びながら、一服煙草を吸ってみたい。
僕はそう思って鞄の中の上着を羽織り、ベッドから立ち上がった。
暗闇に目が慣れて気付いた。……神谷が本来いるべきベッドに、彼が居ない。
……まあいい。あいつの事だから、トイレにでも行っているのだろう。
僕はそう片付けて、扉をゆっくりと開けた。
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廊下は先程にも増して静まり返っていた。主人もおらず、この空間には僕以外に誰も彼も消えた様だ。皆、僕が寝ている間に出ていってしまったのだと思う程。
僕はこっそりと、江戸時代の忍者の様な体勢で足音を立てない様に、一階へと向かう。
やがて細川さんの部屋を通り過ぎようとしたその時だった。
何か、大きな音が響いた。注意深く耳を澄ますと、それはとん、とん、と、等間隔で動いている。
その音……日常では絶対に聞かないその音の正体をどうしても突き止めたくなった。
今までの外への情熱は消え失せている。
僕はひっそりと部屋の中の様子を、扉を少し開けて、その隙間から見た。
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部屋の中には、小さなテレビと一つのベッド、小さな卓袱台が置いてある。僕達の部屋と特に変わらない。
そのベッドが、何か怪しく動いている。僕はその様子をじっと見ている。
すると、そのベッドから、四つの足が見えた。その瞬間に、僕は置いていかれた、という事に気付いた。
一つの足にカラフルなミサンガがはめてある。これは神谷の私物だった筈。
僕はその光景を見た時に、果てしない空虚感と幸福感に襲われた。
だがそれは不幸では無い。むしろ僕にとって細川さんと神谷が恋仲だった事は非常に喜ばしい事だ。心から祝福出来る。
……だがそれを、僕の知らない内に裏切られたという気持ちが邪魔する。
明日は何も言わず、二人を見守っておこう。……そして、静かに僕は二人から離れていこう。そうした方がいい。
僕は所詮二人のオマケ。……美麗で完璧人間の二人に付いてきたひっつき虫。ファーストフードの子供向けセットに付いてくる玩具。
そこにいる必要が無い存在。
そう思って、僕はドアを静かに閉めようとした。……その時に、上着のポケットに何か感触があった。
取り出すと、それはBBQで使ったハサミだった。……置いておくと邪魔だと思って、上着のポケットに背負い込んでおいたのだ。
その銀色にゆらゆら光る素敵なハサミを見ていると、僕は一つの何とも壮大で美しく、素晴らしいアイデアを思いついた。
……これなら、僕の自己否定感を解消出来るかもしれない。
僕の自己否定感の原因は、今までに何か人の為に大きな事をしてこなかったからだろう。……それなら、僕が二人の為に何かしてやれれば。
僕はハサミの赤色の持ち手をしっかりと掴み、ばっと扉を開けた。
その途端、掛け布団の中から二人が出てきた。ベッドから転げ落ちて、腰が抜けている。
……ああ、失敗だったかな。
「白田君!? なんでここに!!」
「……雅人……!」
二人とも裸で冷や汗をかいている。……何だ。単なるサプライズのつもりだったのに。
神谷の生殖器から白濁した精液が垂れているのを見るに、恐らく情事の真っ最中だったのだろう。……せめて最後までやらせてやれば良かっただろうか。
二人は僕の手に握られているハサミに気付く。
「……何で……どうしたの、白田君」
「落ち着けよ雅人……話を聞いてくれ」
僕は構わず僕の言いたい事を話す。
「……おめでとうございます。細川先輩、神谷。……二人が結ばれて、僕は今凄く嬉しいんです。……ほんとですよ?」
二人は僕の話など聞いていない様で、身体を震わせている。……そんなに嬉しいのだろうか。
「……だから、あの世でも、二人でずっと仲良くしてくださいね? ……僕、どっちかが浮気して別れたりされると……とても悲しいですから。だから、二人以外誰もいない……あの世へ連れてってあげます」
僕はハサミを握りしめ、神谷の胸に刃を突き刺した。途端悲鳴が上がり、その刃を刺した胸から血が吹き出た。それは僕の顔にかかった。
……ああなんという至極の幸福。……僕はこの為に生きてきたのだ。二人をあの世へと導き、永遠に共に居られる様にする。それが僕の役目だったのだ。
あまりの幸福からか、細川さんが悲鳴をあげている。
「……大丈夫ですよ。細川先輩もすぐ送りますから」
「嫌だ……助けて……」
「……ふふふ。……あっちでもそんな風に……辛い事があっても二人で助け合って生きてくださいね……。いや死んでるか。……ははは」
僕は細川さんに小指を出させて、僕の小指と掛け合わせた。
「……あの世でも、ずっと神谷を支えてくれるって、約束してくれますか? 先輩」
「……うあ……」
声にならない声を彼女はあげた。目から大粒の涙が溢れている。
……こんなに喜んでもらえるなんて。……きっと二人は永く……永遠に結ばれ、沢山の幸福が二人を祝福するだろう。
神よ。この愛し合う二人に、どうか永遠の幸福を恵んでください。
僕は彼女の左胸にハサミを突き刺した。ぶしゅっと音がして、血液が飛び散った。
僕の顔の上で、神谷昴と神谷茉莉の血が混ざっている。僕はそれを人差し指に絡めて、口に入れた。
……鉄の味がする。……だがその中に確かに感じられる……幸福。
……ああ、これが真の幸福なのだ!
僕は泣いていた。この真の幸福に感謝しているのだ。
……神よ。僕をこの二人に巡り合わせてくれてありがとうございます!! ……そして……僕は今……人生で一番……幸せだ……。
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翌朝。
僕は荷物を纏めている。テレビの電源が切れていて、ちゃんとベッドも綺麗に片付けた。
僕は電気を消し、部屋から出る。
一階に降りると、主人が僕に聞いてきた。
「……おや? お連れのお二人は?」
僕は笑顔で言った。
「二人で、幸せそうに寝てますよ」
その言葉を聞くと、何かを察した様に主人はにっこり愛嬌のある笑みを見せてくれた。
僕は外に出て、まだ冷たい白川の風をふうっと吸い込んだ。
小鳥が囀っている。
「……そういえば、結局深夜の白川村……見れなかったなあ。……折角だし、もう一泊していこうかな。……ほんとに、ここっていい所」
僕は一人で呟くと、白川村の砂利道を進んでいった。
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