『黒牢城』の顛末の件、大猫越前守、謹んで申す。
そもそも荒木村重なる者、織田信長公に謀反を企て、摂津有岡城へ籠城し、説諭に出向いた黒田官兵衛公を監禁し、あまつさえ、落城の折はおのれ一人逃亡し生き長らえ、城に残りし家来一族郎党は女子供に至るまでことごとく誅殺の憂き目に遭いしとか。いかに乱世とは申せあまりの非道、悪名を残せし不届き者よとばかり存じおりましてござる。いやしかし、この『黒牢城』にての村重、なかなかの剛の者にて胆力あり智謀ありのはなはだ立派な弓取りに描かれておりますれば、なるほど後の世の評判も当てにはならぬものと感じ入った次第にごさりまする。また当時の風俗風習、戦の慣わし、南蛮宗に一向宗、籠城の城内やら家屋敷のありようやら、さまざまな蘊蓄まことに面白く、つい時の経つのも忘れ読みふけり申した。
さて第三章を読み終わり、いかにすべきかと難儀しておりまする。何を推理して良いやら分かり申さず。
そもそも各章の謎がそれぞれすでに解き明かされたる上は、第四章に至って新たなる謎が出来するものと存ずるが、出てもおらぬ謎が解ける道理もなし、物語の成り行きを存じおるはずもなしで、ほとほと困じ果てておりまする。是非もなく以下に各章のあらましを振り返り、以降の委細展開につき、それがしの存念を被見し奉りますゆえ、くれぐれもお笑い召されまするな。
第一章 雪夜灯籠 冬。謀反の始め。安部二右衛門の子自念、納戸にて殺害の謎。
第二章 花影手柄 春。籠城真っ最中。夜討にて打ち取りし大津伝十郎の首の謎。
第三章 遠来念仏 夏。和議交渉。旅僧無辺町家の草庵にて殺害の謎。
これより未読
第四章 落日孤影 秋の訪れ。有岡城落城と黒田官兵衛救出。
石山本願寺合戦の織田方勝利の動向知れ渡り、万に一つの勝ち目もなく有岡城は崩壊寸前。家臣どもに動揺広がり、村重の首取って織田方へ手土産にせんとの言まで出る始末。和議の道すでに絶え、籠城もはや勝ち目はなく、さりとて開城すれば皆殺しの惨は火を見るよりも明らか。
去就を決しかねる村重に黒田官兵衛諫言して、「寅申」と有岡城との交換を信長公に言上されるべし、おん殿が自らお出ましの上談判なさるならば、あるいは城中の家臣民百姓はご赦免あるやもしれずと。その実、「寅申」を差し出したところで有岡城の屠城は免れぬことは百も承知ながら、官兵衛は織田の世は長続きはせじと見切っており、敢えて村重を一人城から出し、再び世の乱れに乗じて再起を図らしめる策を講ずるものと存ずる。風雲児たる村重は、摂津国一国に汲々とする器にあらずと。
村重も半ば官兵衛の意を存じながら、単身城を出て名物と引き換えに城内の民百姓の助命を図らんと家臣を騙し、「寅申」を懐に単身(あるいは十右衛門のみ供として)城を去るのではござりますまいか。
その後は史実の示す通り。村重は逃げおおせ、有岡城は落城皆殺しでござる。それを聞きし村重がいかなる感慨を覚えることかは分かり申さぬ。
黒田官兵衛は一年ぶりに救出せられ無実の証を立てる。竹中半兵衛の計らいにより一子松寿丸が存命であることを知り深く喜ぶ。これも神仏のご加護かと感銘した官兵衛は、密かに陰徳を積まんと有岡城にて仕置きを待つ女子供のうちから、幼き赤子を密かに助けたかもしれず。それが後の岩佐又兵衛となるやもしれず。
数年の後、太閤秀吉の天下の時代、入道姿の村重と官兵衛が往事をしみじみ語り合う……はずはござらぬな。村重も官兵衛も最後の最後まで食えぬ男であったはず。
さて、徳川の世となり天下泰平成った後、有岡城にて一命をとりとめた村重の子、今や高名な絵師となった岩佐又兵衛と、官兵衛の子松寿丸、今は筑前藩主黒田長政との後日談が披露されるにやと推察いたす。これはむしろそれがしの願望にござる。黒田家家宝「大坂夏の陣屏風絵」は長政の発願にて、長年の年月を経て大勢の絵師が動員あいなった一大プロジェクトと聞き及び候が、そこに村重の子の岩佐又兵衛が参りて、大いに筆を振るって合戦の模様つぶさに描き尽くしたならば、はなはだ痛快にあらずや。俗に一将功成りて万骨枯るなどと申すが、村重のごとき戦国乱世の梟雄の陰で、残す言葉もなく非業の死を迎えた無数の白骨どもへの弔いともなり申そう。
ところで大猫越前守はそれがしの官職名でござる。もとより主上より授かりしにはあらず、おのれが勝手に名乗りおりまする。かの大石内蔵助殿も御本名は大石良雄と申され、内蔵助は自称官名にござれば、それがしごときはノープロブレムにござります。荒木村重の摂津守は正真正銘れっきとした除目での任命で、実の所領も摂津国にて名実ともに摂津の主でござりました。これより後の世は官職名がただの飾り物となり果てるまことの太平の世。戦なき世こそまことに得難きものであるとつくづく感じ入る今日この頃でござります。
恐々謹言。
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