日本的美意識覚書6-10

佐藤宏

エセー

4,080文字

私のこの日本的美意識に関する断片は、長年つらつらと考えていながらも、いまだ明晰なる表現に達していないものを、備忘録的に記しています。間違いやら勘違いやらも多々ありそうです。論理に飛躍も多そうです。せっかくあれこれ考えながらも、何も残さずに死ぬのもいささか悔しいので、書き留めています。いつの日か大化けすればいいのですが。時々改行が上手にできぬ。御容赦されたし!

6.

無常感は普遍的観念であり、積極的なものと消極的なものとがある。消極的なものといえば、「方丈記」では、鴨長明は嘆く。

 

ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

 

「平家物語」では、次のように慨嘆される。

 

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 

このような無常の嘆きは、例えばシェリーの詩にも見られる

 

The flower that smiles to-day

To-morrow dies;

All that we wish to stay

Tempts and then flies.

What is this world’s delight?

Lightning that mocks the night,Brief even as bright.

 

この詩は世の無常に対するシェリーの深い嘆きであろう。無常感は何も仏教的文化の専売特許なんぞではないのだ。

 

そして無常を積極的にとらえた者もいる。兼好法師である。

 

あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。

 

かの「徒然草」の一節である。またロバート・リンドは”Rain, Rain, Go to Spain”で次のように述べる。

 

But with most men the knowledge that they must ultimately die does not weaken the pleasure in being at present alive. To the poet the world appears still more beautiful as he gazes at flowers that are doomed to wither, at springs that come to too speedy an end. The loveliness of May stirs him the more deeply because he knows that it is fading even as he looks at it. It is not that the thought of universal mortality gives him pleasure, but that he hugs the pleasure all the more closely because he knows it cannot be his for long.

 

兼好法師もリンドも無常を積極的に評価する。無常だからこそ世界はいっそう美しく素晴らしいのだ。

 

7.

島崎藤村の「千曲川旅情の歌」である。

 

小諸なる 古城のほとり
雲白く 遊子ゆうし悲しむ
緑なす 蘩蔞はこべは萌えず
若草も くによしなし
しろがねの ふすまの岡辺
日に溶けて 淡雪流る

 

あたゝかき 光はあれど
野に満つる 香も知らず
浅くのみ 春は霞みて
麦の色 わずかに青し
旅人の 群はいくつか
畠中の 道を急ぎぬ

 

暮行けば 浅間も見えず
歌哀し 佐久の草笛
千曲川 いざよう波の
岸近き 宿にのぼりつ
濁り酒 濁れる飲みて
草枕 しばし慰む

 

 

第一連の「緑なす 蘩蔞は萌えず/若草も 籍くによしなし」というところは否定の連打であり、それによって何らかの感慨を読み手の心に醸し出している。第二連もまた然り。光があっても香りはなく(この対比にも注目されたし)、麦はあってもその色はわずかであり、旅人の群れはあってもその数はわずかである。ここに描かれているのは否定であり、あるいは否定に近しい少数である。人間というものは何かを得て抱く心情よりは何かを喪って思う気持ちのほうが、より深く、より長持ちし、より人の心にも響くようである。俗にいうところの日本的美意識もまたそうである。無常感、わび、さび、など。いずれも何かを喪ってはじめて始まる人間の心情となる。

 

8.

否定によって得られる何らかの文芸的心情は、このWordsworthの詩にも見られる。

 

 

She Dwelt among the Untrodden Ways

 

She dwelt among the untrodden ways
Beside the springs of Dove,
A Maid whom there were none to praise
And very few to love:
A violet by a mossy stone
Half hidden from the eye!
—Fair as a star, when only one
Is shining in the sky.
She lived unknown, and few could know
When Lucy ceased to be;
But she is in her grave, and, oh,
The difference to me!

 

 

第一連では, untrodden ways, none to praise, very few to love とあり、第二連では、half hidden, only oneなどと否定的色彩の濃い筆の運びとなっている。第三連では、unknown, few could know, cease to be など、やはり否定的である。いずれも何かの喪失に対して抱いた心情を表現しているようだ。美は喪失である。あるいは、喪失は美へと変貌する。

 

失うことによって何らかの美を抱くというのは、おそらくは防衛機制の一種とみなすことができるだろう。失うということは人間がこの厳しい自然環境を生き延びる際に致命的な痛手を与える可能性がある。この喪失という体験によって得られた深く永続的なる心情を、例えば詩歌などの芸術によって表現することによって、人間は痛ましい経験を昇華することになり、この痛手に対する耐性を獲得することになり、こうやって人間はまた気持ちを一新して生き続けることも可能となるのだ。かくして否定的表現は昇華されんとして、しばしば詩に詠まれることになるのだ。以下にワーズワースの詩の試訳を載せる。

 

 

人に知られぬ乙女のありき

人の通わぬ道沿いの
ドウヴの泉の脇に住む
ひとりとて褒める者なく
親しむ者とて
苔むす石に半ば隠れた
スミレさながら
いまだ夜空に星ひとつ
その星さながらに麗しく
その暮らし誰知らず
亡くなってもまた
乙女はいまや奥津城に
我が心根や誰か知る!
9.
島崎藤村やワーズワースのいわば「喪失美」については、古歌にも豊富に見出されるように思う。その一例が三夕の歌の一つである。
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ(新古今集、藤原定家)
「花も紅葉も」ないのである。ないのであればわざわざ言及する必要もないのであるが、それを敢えて口にして、しかもそれを打ち消すのである。そうすることによってより否定的色彩が強まるのである。「旺文社全訳古語辞典」の評によれば、「華やかな色彩をまったくもたない秋の夕暮れの景。花と紅葉は、歌では重要な題材であるが、それをすべて消去したところに無彩色の美の世界が創造されている」とある。まさしく「無彩色の美」である。この美意識はわび・さびとも深く通じるものである。
10.
「わび」には美意識面と生活面とがある。ここでは、その生活面に注目してみよう。「わび人」といえば、世をはかなんで寂しく暮らす人の意味である。
わび人の住むべき宿とみるなべに嘆き加はる琴の音ぞする(古今集、雑下)
「無常」と同様に、「わび」にも否定的側面もあれば肯定的側面もある。上述の和歌は否定的側面を表している。しかし
ことさらこの須磨の浦に心あらむ人は、わざともわびてこそ住むべけれ(松風 謡曲)
「特にこの須磨の海岸で、風雅の心のある人ならば、わざとでも閑寂な生活を楽しんで住んでいるはずだ」といった場合には、「わぶ」は好意的に捉えられている。
この「わぶ」生活は、いってみれば自足の精神である。華美を求めず、人並みの生活すら欲せず、わずかなもので心を満たす暮らしぶりである。このような生活意識は、例えばエピクロスのそれとも通じるものである。エピクロスはある時にはこんなふうに人に手紙を出している、「チーズを小さい壺に入れて送っておくれ。したいと思えばそれで豪遊だってできるのだから」と。小さい壺に入れたわずかなチーズですら、この哲人の心を満たすのには十分だったのだ。エピクロスは小さな庭園(ソフィストたるゴルギアスの一回分の講義料よりも安い額で購入したらしいが)を買って弟子たちとともに質素な暮らしを楽しんだ。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、エピクロスの園には多くの弟子たちが集まり、師匠のエピクロスとともに質素な暮らしをしたそうである。ふだん飲むといえば水であり、酒があればわずか一合半で満足だった。「私はただの水と一片のパンだけで満足する」とはエピクロスの言葉である。
エピクロスは「自己充足が大きな善である」とする。それは「どんな場合にも、わずかなものだけで満足するためにではなく、むしろ、多くのものを所有していない場合に、わずかなものだけで満足するためにである」。それは「ぜいたくを最も必要としない人こそが最も快くぜいたくを楽しむということ」だからである。「質素な風味も、欠乏にもとづく苦しみがことごとくとりのぞかれれば、ぜいたくな食事と等しい大きさの快をわれわれにもたらし、パンと水も、欠乏している人がそれを口にすれば、最上の快〔苦しみがことごとくとりのぞかれること〕をその人に与えるのである」。エピクロス哲学は快楽哲学であるが、この快楽とは少数のもので満足するという自足の精神を意味するのであり、その意味でまさしくエピクロスは西洋古代の「わび人」であったのだ。(『ヘレニズムの思想家』(岩崎 允胤)講談社学術文庫 )

2021年4月15日公開

© 2021 佐藤宏

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