本作に登場する男たちは概して貞操観念が薄いように見受けられる。法律事務所の同僚や麗子の兄の雅俊も浮気をしているし、麗子と交際していたころの栄治もあっさり浮気をして別れている。拓未の麗子の兄との面談の予定を見た雪乃はまっさきに浮気を疑い、津々井先生も家庭生活に何か問題がある様子。即物的な世界線においては、愛さえも不確かなものなのかもしれない。さりげなく、しかし執拗に描かれる浮気者の挿話は、本作の中心的な主題が相続問題よりも男女の愛憎劇であることを示唆している。だが、物語の核心にあるのは男ではなく、女の不倫である。
本題である栄治の事件に入る前に、まずはわかりやすい村山弁護士の事件から説明する。村山の殺害と金庫の盗難の犯人は、獣医の堂上である。紗英がコピーをとった元カノリストには「堂上真佐美」の名前が載っていた。金庫を盗んだのは遺書そのものではなく、元カノリストが狙いである。「家庭の不和、特に妻の浮気とかね。そういうものは、もう絶対誰にも知られたくないんですよ」と村山が生前に語ったとおり、堂上は真佐美の名前が元カノの一人として挙がっていることを隠すために金庫ごと盗み、「この子はこういう子で、あの子はああいう子で」という具合に栄治から詳しく話を聞いた村山の口を封じた。獣医である彼は劇薬を比較的容易に入手できる。真佐美は四年前に病死しているが、それ以前に栄治と関係を持っており、堂上にとって妻の不貞が明るみに出ることは「オレの中のオレ像」が崩される事態に他ならない。
紗英が真佐美を「すっごく嫌なやつ」として毛嫌いしていたのは、いじめられていただけでなく栄治が真佐美に惹かれていたためでもあったと考えられる。もちろんリストに彼女の名前があることにもすぐに気づいたが、故人の名誉は傷つけないという紗英なりの潔癖さによりスルーした。栄治より先に死んだ人間の名前が遺産相続者として挙がっているのは大変異様であるが、三か月しか交際していない麗子さえもリストに加えた栄治は、誰一人抜かすことなくリストに入れようと思ったのだろう。おそらく「堂上のことも相当気に入っている」紗英がこっそり相談したことで、リストの内容は堂上の知るところとなった。
「わたし、と、あのこ……べんごし……ばっ!」という言葉で最後の瞬間に村山が伝えようとしたのは金庫の暗証番号である。金庫には「五桁の暗証番号が二つ設定」されており、その数字は村山と死んだ女性弁護士の弁護士バッジの裏に書かれた登録番号である。法曹界に詳しくない読者のために「自分の弁護士バッジの裏に刻まれた五桁の弁護士番号」を麗子が見つめる描写がわざわざ挿入されている。
栄治にマッスルマスターゼットを注射した犯人も、堂上であると考えられる。慣れ親しんだ獣医であるため、庭から出入りしてもバッカスは吠えない。栄治の遺言書は、堂上に殺害されることを予感した栄治が、堂上に相応の報いを与えると同時に、実は自分の息子である亮に不貞でできた子どもという汚名を着せることなく財産を残そうと企てた計画であった。「四、五歳くらい」の亮は、生前の真佐美と栄治の不倫によってできた子どもである。おそらく真佐美の死の間際には堂上の結婚生活は既に破綻していたものと考えられる。栄治と同じく亮も左利きであり、堂上は自分の実の子でないことを否定するために右利きに矯正させようとしている。このように妻の不貞をなかったことにしようとしている堂上にとって「犯人は僕があげた財産で一生暮らすことになる。つまり、僕の支配のもとで、僕の亡霊に付きまとわれながら、過ごすわけだ」という栄治の遺言は最も効果的な復讐となるだろう。その結果、堂上の人生が破綻することになったとしても、森川製薬の株式を含む150億円の財産はゆくゆくは戸籍上の堂上の子である亮のものとなる。
問題は、マッスルマスターゼットに致死的な副作用があることを堂上がどう知りえたかという点である。ひとつの可能性は、栄治がみずから堂上に伝えたというものである。「重篤なうつ病」を患っていた栄治は希死念慮を抱えていたが、体力も衰え自殺を決行できずにいた。そこで、マッスルマスターゼットに副作用があることを堂上に伝え、妻の不倫相手である自分を殺害するように迫ったのかもしれない。〈マッスルマスターゼットは森川製薬が起死回生をかけて取り組んでいる新薬であり、副作用のことは隠蔽されている。自分が副作用のために死んだとしても、森川家の人間は全力で死因を伏せようとするだろう。だから警察沙汰になることはない〉とでも言い添えて。だとすれば、この事件は栄治によって周到に仕組まれた、限りなく自殺に近い殺人ということになる。それにしても、高齢で父親になることはそれほど珍しくもないのに「生殖活動を行う見込みのないシニア」向けとして新薬が認可されるってのはひどい話だ。
"寝取られ男の世界線"へのコメント 0件