部屋のドアを開けると、冷蔵庫がなくなったせいか少し広く感じる。
冷蔵庫の置かれていた畳は、他の場所より青い。しかし受け皿から滴った水のせいで、一部が黒ずんでいた。佐々木晴男は冷蔵庫を拭いた雑巾で畳をたたくように擦る。かび臭い黒ずみを取り去ってから、冷蔵庫の上に乗っていた電子レンジを畳に直接置く。
冷蔵庫に時間をとられ、昼飯を喰うのを忘れていた事に気がついた。もう三時近くになっている。佐々木晴男は冷蔵庫から放り出され、畳に並べられたままの食材を眺めた。しゃがみこみ、冷や飯を電子レンジで温める。卵を二つとも割り入れ醤油を垂らし、かき混ぜて、しゃがんだまま喰った。
牛乳もオレンジジュースも、紙パックの底に僅かに残っていただけだったので、順番に飲み干す。乳臭さとオレンジの酸味が混ざり合い、不味かったが、唇の縁を手の甲で拭いながら、佐々木晴男は満足していた。
これでしばらく冷蔵庫がなくても大丈夫だろう。
冷蔵庫を何時買うべきか、何処で買うべきか、そもそも冷蔵庫を買うべきなのかなど、考えたくもない。牧夫は置いていきたいものがあれば置いていけばいいし、父親は持ち去りたいものがあれば持って行けばいい。
佐々木晴男は生卵のこびり付いた茶碗と箸を洗う。ぬめりのある茶碗の内側を指で擦りながら、考えたくもないのに考えてしまうのは、やはり奪われた冷蔵庫の事だった。冷蔵庫などなくても生きていける。冷蔵庫など俺には必要ない。冷蔵庫冷蔵庫冷蔵庫。
冷蔵庫とはいったい、なんなのだ?
しかし佐々木晴男は[おこづかい帳]がまだ途中であったことを思い出す。
濡れた手を、流しの引き戸にかけてある手ぬぐいで拭き、冷蔵庫を運んだせいでこわばっている肩をまわす。腕を交互に揉みながら、開かれて放置されたままだった大学ノートの前に座る。
読み取れなかった定食屋のレシートも、今度は正確に把握する事が出来た。
晩飯・生姜焼き定食(ほのか亭)580
数字と文字を書き込んでいくうちに、黒い冷蔵庫も、今にも折れそうだった父親の腕も、せわしなく瞬き、充血していた白目も、全ての残影は消えていく。黒い雲が月を覆い隠すように、ゆっくりと、佐々木晴男の頭の中から消し去られていく。そして目の前に並ぶ数字と文字の、美しい配列だけが瞳に焼きつく。
シャンプー(ドラッグ一番)276
最後のレシートに記載された内容を書き終えた。レシートをまとめ、クリップで留め、膨らんだ封筒の中に重ねる。
昨日という一日が、正しく、佐々木晴男の中で完結した。
昨日は終わった。もう二度と、やってこない。スーパーとドラッグストアと定食屋と六畳一間を行き来した一日は、終わった。
丁寧に、九十一万と少しの残高を記入し、[おこづかい帳]を閉じる前にもう一度眺める。
乱れはない。間違いもない。そう確認してノートを閉じた。封筒にしまい、レシートの入った封筒と共に、カラーボックスの一番上の段に重ね入れ、赤と黒のボールペンと電卓も収めた。
時刻は四時になろうとしていたが、五月の陽光に傾く気配はない。日課は済ませたし、自慰も終えてしまったし、昼寝もしてしまった佐々木晴男には、やるべきことはなにもなかった。それが佐々木晴男の望みでもあった。
にもかかわらず、今日に限って佐々木晴男の部屋のドアは、三度、ノックされた。日曜日だからといってこんな日は滅多にない。
佐々木晴男は慣れない事に少し身構える。もしやまた父親か。今度は電子レンジをよこせとでも言うのか。
しかし、コツコツとたたかれるノックの音は荒かったが、テンポが速い。父親でないことはすぐにわかった。
「いる?」
聞いたことのある女の声だ。
「理香だけど。いる?」
米沢理香。佐々木晴男は思い出し、ドアを開けた。
背の高い女が、ドアに肘をもたれかけ見下ろした。黒いオーバーオールの下に着た白いTシャツから、長く筋肉質な腕がぶらりと垂れ下がっている。膝までまくり上げたズボンから伸びた足もやはり長く、たくましい。自分より十センチ近く背が高いであろう米沢理香は、確かにでかい、と佐々木晴男は思った。
「まぁ、いるわな」
「どうしたの?」
「暇そうだね」
顎を突き出して、尖った鼻先から出しているような声の米沢理香は、機嫌の悪そうな顔をしている。横に広がった大きな口の角が、いつ文句を言い出してもおかしくないように少しだけ開いているのだった。しかし佐々木晴男には、理香を怒らせた覚えなどない。
「まぁ、暇かな」
「ちょっと、聞きたいことあるんだけど」
「なに?」
「入るわ」
佐々木晴男が頷くより早く、米沢理香は紫色のスニーカーを脱ぎはじめていた。
「この靴、めんどくさ」
耳の下で切りそろえられた髪をかきむしり、靴紐を乱暴にほどくと、ついでに短い靴下も脱いで、靴の中に丸め入れる。
佐々木晴男は、牧夫が座っていった座布団を差し出す。しかし米沢理香は裸足で座布団を踏み、仁王立ちした。小指の爪にだけ金色のペディキュアが光っている。佐々木晴男がその金色をぼんやり眺めていると、頭の上から声がした。
「わりと、ひさしぶり」
前に理香が来たのはいつのことだったか、佐々木晴男には思い出せない。
「飲み物とかないんだけど」
「いらない」
理香は、膝を開いた体育座りのような姿勢で畳に腰をおろした。がっしりとした膝にたくましい腕をあずけている。
ちらりと、畳に置かれた電子レンジに目をやるが、理香はなにも言わず、また頭をかきむしった。つられて頭をかきそうになった佐々木晴男は、自らの円形脱毛症を思い出し、手を止める。
「聞きたいことって?」
「これ」
理香はオーバーオールの腰ポケットに手を突っ込み、折りたたんだ紙を取り出した。「あーうっとーしー」と呟きながら、紙を座布団の上に広げる。
「これ、あんたじゃないよね」
「なにが?」
「これ書いたのあんたかって聞いてんの」
佐々木晴男は紙を覗き込んだ。
―――僕と、ユートゥピアに行きませんか?―――
紙の中心に、細い鉛筆でそう書かれていた。今にも消えそうなその薄い文字は、FかHか。芯が硬い鉛筆に違いない。佐々木晴男がはじめに感じたのは、そんな事だった。文字が斜めに流れすぎている。次にそう思った。
「なにその顔。まじであんたとか?」
理香が下から顔を覗きこんでくる。
佐々木晴男は理香と視線を合わせないよう、目を紙にそらしながら、文字の意味を理解しようとした。
「ユートゥピア」
理解する前に、言葉が声になって出る。
「そ。ユートピアだってさ」
理香は苛立った口調で言いながら、座布団をバシンと叩く。紙が跳ね、文字が佐々木晴男の目の中で舞った。ちらちらとした文字がいったいなんなのか、佐々木晴男にわからない。理香が苛立っている理由もわからなかった。
「なに。これ」
「こっちが聞いてんだけど。今朝あたしの部屋の郵便受けに入ってたんだけど。すごいむかつくんだけど」
「誰が書いたの?」
「だからあたしが聞いてんだってば。あんたじゃないの?」
「俺の字は、ここまで斜めじゃないし、もう少し筆圧あるよ」
佐々木晴男は紙に触れないよう指を差した。
「字の話してんじゃなくて、書いたかどうか聞いてんの」
「俺の字じゃないよ」
「字なんかいくらでも書きようあるじゃんか」
「俺の字は俺の字なんだから、俺の字じゃないんだったら、それは俺の字じゃないよ」
「字のことなんて聞いてないっつうの」
「俺が書いたかって聞いただろ」
「そうだよ。あんたが書いたか聞いたんだよ」
「だから、それは俺の字じゃないよ」
理香はぽかんと口をあけ、しばらく佐々木晴男の顔を眺めると、曲げていた膝を伸ばし、両腕を後ろについて天井を見上げた。長い首をコキコキと鳴らし、ため息をつく。
「あほくさ」
太く長い片腕に体重を預けると、肩から肘にかけての筋肉が盛り上がった。理香は右手でまた頭をかきむしる。畳を人差し指と中指でせわしなく叩く。それからポツリと言った。
「ユートピアは贋物のひとつもない世界を言う。あるいは真実のひとつもない世界でもいい」
理香は指先の畳を見つめ、「あほくさ」と、もう一度つぶやいた。
「そうなんだ」
佐々木晴男は理香の置いた紙を眺め、やはりこれは自分の字ではないと思った。
「意味わかってんの?」
「なにが?」
「昔のえらいひとが言ってたらしいよ」
「知らない」
「調べりゃいいじゃん、ネットで。知らないことなんか、なくなるよ」
「ネットないから」
理香は身体を起こし、あぐらをかいた。それから佐々木晴男の六畳間をぐるりと見回す。
「電話もない、パソコンもない。テレビはブラウン管、ゲーム機はずっと前の型。古い雑誌が少々。ここって、無菌室みたいだな」
佐々木晴男は、少し前に拭きとった畳の黒ずみを思った。失われた冷蔵庫の下にあった汚れは、菌のようなものではなかったのか。しかし電子レンジをどかして確認したところで、自分にはわからないだろう。これもたぶん、どうでもいいことなのだ。
「で、なんだっけ」
「これ、誰が書いてあたしの部屋に放り込んだかって話。切手もなければ封筒すらない。手紙なのかこれ」
「伝言メモみたいだね」
高校時代、女子がこっそり折りたたんだ紙を、順番に、前の席や後ろの席に渡していった光景を思い出す。そして、いつだったか米沢理香が自分の席に届けられた紙を、破いて床に捨てたことも思い出した。そうか。理香は昔から、突然渡される紙に腹を立てる人間なのだろう。佐々木晴男はそう納得しかけていた。理香はそれを断ち切るように、声を荒げる。
「ああいうのとはぜんぜん違う!」
「ラブレターなんじゃないの?」
理香の短い爪が畳に強く押し付けられるのを見ながら、佐々木晴男は小さな声で言う。
「ユートピアがデートコースかよ。どこだよそれ。贋物がひとつもなく、真実もひとつもない。それって佐々木、どういうことだと思う?」
「わからないけど」
「本物と嘘しかないってことは、本物も嘘もないってこと。つまり、いま、ここ、ってこと」
「いま、ここ」
「そう。あたしたちんとこ。ここからどこに行くっていうんだよ。そういう気持ち悪い思い込みを投げ込まれたくないわけ」
理香は座布団の上の紙を取り上げ、引き裂こうとするように持ち直したが、手を止める。
「証拠品だよな、一応。捨てるに捨てられんのも腹が立つ」
理香が、怒りのようなものの混じった眼差しで自分を見ている。佐々木晴男はそれでもやはり、理香を怒らせた覚えなどないと思った。
「自販機でなんか買ってこようか」
立ち上がろうとする佐々木晴男の腕を理香が掴む。力の入った指先が、細い佐々木晴男の腕に食い込む。
「あんたじゃないんだ」
「俺の字じゃないから」
「そっか。そうだね。あんたはこの部屋みたいにいろんなことを遮断して生きてるんだった。でも高校の頃から、本当は言いたいことが沢山あるんじゃないかってあたし、なんか思ってて、そういう奴がしそうなことだって、あんたの顔が浮かんだ。違ったんなら悪かった」
「いいよ。それに俺、別に言いたいこととかないし」
「じゃあ誰なんだろう。心当たりとかある?」
「わからない」
佐々木晴男は浮かしかけた腰を下ろす。
「そう」
「うん」
理香はまた頭を掻きむしった。
「見つけたら、殴ってやる」
「そうか」
「そうだよ、あたしは、いまここで生きてやるんだから」
「そうか」
「だから結婚するんだ。来月。4つ年上のコンビニの店長。去年から付き合ってた。結婚して二十代のうちからポンポン子供産んで育てて、いまここを沢山作る」
「そうなんだ」
佐々木晴男は床に置かれた電子レンジをぼんやり眺める。ポンポンという理香の言葉が、電子レンジの鳴らすチン、という音のように頭の中で響いた。
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